◎能く木の天に順ひて以て其の性を致す(能順木之天以致其性)
『漢文講義録 第四号』(大日本漢文学会出版部、一九二四)から、柳宗玄「種樹郭橐駝伝(しゅじゅかくたくだのでん)」のところを紹介している。本日は、その二回目。〔訓読〕のあとに〔字義〕があるが、これは割愛した。
〔白文〕有問之對曰橐駝非能使木壽且孳也能順木之天以致其性焉爾凡植木之性其本欲舒其培欲平其土欲故其築欲密既然已勿動勿慮去不復顧其蒔也若子其置也若棄則其天者全而其性得矣故吾不害其長而已非有能碩而茂之也不抑耗其實而已非有能蚤而蕃之也
有問之、對曰、橐駝非能使木壽且孳也、能順木之天、以致其性焉爾。凡植木之性、其本欲舒、其培欲平、其土欲故、其築欲密。既然已、勿動勿慮、去不復顧。其蒔也若子、其置也若棄、則其天者全、而其性得矣。故吾不害其長而已、非有能碩而茂之也。不抑耗其實而已、非有能蚤而蕃之也。
〔訓読〕之に問ふ有れば、對【こた】へて曰く、槖駝能く木をして壽【じゆ】に且つ孳【じ】ならしむるに非ず、能く木の天に順ひて以て其の性を致すを以て爾【のみ】。凡【およ】そ植木【しよくぼく】の性、其の本は舒【の】びんことを欲し、其の培【つちか】ふは平かならんことを欲し、其の土は故【こ】ならんことを欲し、其の築くは密ならんことを欲す。既に然【しか】せば、動かすこと勿れ、慮【おもんぱか】ること勿れ、去つて復た顧みざれ。其の蒔【う】うるや子の若【ごと】く、其の置くや棄つるが若くせば、則はち其の天なる者全くして、其の性得られん。故に吾は其の長ずるを害せざるのみ、能く碩【おほき】くして之を茂らしむるに非ざるなり。其の實るを抑耗【よくもう】せざるのみ、能く蚤【はや】くして之を蕃【しげ】からしむる有るに非ざるなり。
〔大意〕橐駝の言。其の一、自ら其の培養の法を述ぶ。
〔講義〕いかにも巧みに木を植えるので、その法を問う者があると、彼はこたえていうよう、槖駝は何も木の寿命を延ばしてやり且つ沢山に子をならしてやるワザができるのではない、ワシの植えた木の善く根づくのは、木が自然に大きくなるのに逆はず、そして木のモチマエを呼んでやることができるからである。いったい植えた木の性質上、その根はなるだけ曲らぬようにのばして置かねばならぬ、その根本に土を寄せるには、幹をうずめても根をあらわしても好くないから、極めて平らかに、高からず低からぬようにせねばならぬ、その土はなるだけ前にはえていたナジミのものが好く、その土を築き固めて根本をしめるには、じゅうぶん密にして、空疎な穴の残らぬようにせねばならぬ。既にかように植え付けおわった上は、決して動かすな、心配するな、木のガワを立ち去って、最早顧みもせぬようにせよ。植え付けの時は吾が子のようにネンゴロに扱うし、そののち放って置く時にはまるで棄ててしまったようにしておると、その天然自然のオイタチが安全で、そのモチマエはいつとはなしに宿ってくる。こうして植えると自然に根づくことゆえ、ワシは只で木の延びるのを害せぬばかりで、決して木を肥【ふと】らし茂らすというチカラがあるのではない。木をいじめて実のなるのを抑えへらすということをしないばかりで、何も早くならしてしげくならすというチカラはあるのでない。
ここまでが第二段落である。
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