◎早々と撤退した誠文堂十銭文庫
昨日の続きである。小川菊松の『出版興亡五十年史』(誠文堂新光社、一九五三)の第一部「出版界興亡の跡」の「二三、文庫本の流行と回想~結末は地獄落しの危険もある」より。本日、紹介する部分で小川は、誠文堂十銭文庫と岩波文庫について語っている。
誠文堂十銭文庫の創刊を「昭和八年」としているが、これは一九三〇年(昭和五)が正しいようである。撤退は、一九三二年か。また、岩波文庫の創刊を「大正時代」としているが、岩波文庫は、一九二七年(昭和二)の創刊である。
十銭、廿銭の小型文庫は、売れさえすれば、これ程手がけよい、楽な仕事はない。が百巻二百巻の叢書となつて見ると、各巻のストツクを用意するだけでも容易なことではない。そこへ競争者が出たり、飽かれたりすると一気に行きつまつて、案外にその尻が大きい。底知れずの地獄落しといつた形になる。わが誠文堂でも、昭和八年に、「誠文堂十銭文庫」を企画し、短期に百冊を出版して主だつた小売店に陳列ケースを提供したりして、相当華美な宣伝等を試みたのであるが、期待した成果は得られなかつたし、調子に乗つて地獄落しの馬鹿を見てもツマラヌと思つて、残本か出ぬ程度に売り抜けて、後腐れなく打ち切つてしまつた。事実十銭本であれば、二万や三万の売行きでは、丸々儲けたところが知れたもの、身にも皮にもつかないし、気骨ばかりは一人前以上に折れるのだから、長くは続ける気にならなかつたわけである。
アカギの十銭文庫は、ドイツのレクラム版にヒントを得たものであろうが、このレクラム版の方式をソツクリ模倣して、★一つ十銭という廉価の大叢書を作つて成功したのは「岩波文庫」である。大正年代から二十余年に渡つて二千数百巻を発行し、今なお盛〈サカン〉に出版して益々声価を高めているのは偉いもので、まさに文庫としても王座の揺がぬものであるが、これは内容がいすれも生命のあるというばかりでなく、用紙も最上質、印刷が鮮明で、蔵書家の愛好をそゝるに足ることも、この文庫が永く飽かれずに来た原因の一つであろう。事変から戦争中にかけて、用紙の統制が厳しかつた時代にも、岩波文庫は、遂にこの紙質を落さなかつたところを見ると、どの位紙のストツクがあつたのかと驚かされたものである。【以下、次号】
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