◎内村鑑三、和歌を引いて黒岩涙香の要請に応ず
ここ数日、内村鑑三が『万朝報』〈ヨロズチョウホウ〉に書いた英文記事を紹介している。これらは、亀井俊介訳『内村鑑三英文論説翻訳編 上』(岩波書店、一九八四)に収められている。
同書の巻末には、亀井俊介氏による、一七ページに及ぶ「解説」がある。もちろんそこには、内村鑑三が『万朝報』に英文記事を書くことになった経緯についての説明も含まれている。関係する部分を引用してみよう(三三三ページ)。
4 『万朝報』英文欄主筆時代
一八九七(明治三〇)年初頭のことであろう。『万朝報』社主、黒岩周六(涙香)が、内村鑑三を訪れ、入社を乞うた。『万朝報』は黒岩が四年余り前の一八九二年一一月に創刊した日刊新聞(月曜休刊)で、一般大衆むけに、安価、平易を旨とし、おまけに涙香の小説と、権力者の醜行摘発などの正義感にみちた記事によって人気を得、急速に紙勢を拡大、「帝都第一」の発行部数を誇るまでになっていた。ただし、その暴露記事のために、世間からごろつき新聞視される傾きもあり、黒岩は新聞の声望をたかめるため、当時第一級の人物を編集陣に加える努力をしていた。内村鑑三は、不敬事件〔一八九一〕以後、いわば流鼠〈ルザン〉の境遇にあったが、人格、見識、筆力、ともに真先に白羽の矢を立てられるにふさわしい人物だった。
黒岩自身の証言によると、内村鑑三は、「日本の社会は既に堕落の極に達す、救済の期を過ぎたるものなり、我れ全く之を見捨てたり」といって、要請を拒絶した。だがたっての頼みを繰り返すと、黙考ひさしくしてから、「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」と、『太平記』中の二条中将為明〈タメアキラ〉の歌を誦して承諾したという(『万朝報』一八九八年五月二三日「内村鑑三氏の退社を送る」)。これまで浮世の外のこと、信仰の道にたずさわってきた内村としては、たしかに躊躇するところも大きかっただろう。しかし同時に、日清戦争とそれ以後の内外の情勢や諸問題について、じつはいいたいこともたっぷりたまっていたに違いない。彼は結局、激しい意欲をもってジャーナリズムに打って出た。時に満三十七歳、気力充満していた。【後略】
後醍醐天皇の倒幕計画が洩れたとき、その側近であった二条中将為明は、「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」(思いもしなかった、和歌のことでなく、浮世のことについて聞かれるとは)と詠んで、六波羅探題からの追及を逃れたという。内村鑑三は、その歌を引き合いに出して黒岩涙香の要請を断ったのではなく、その要請を受け、「浮世の事」に関わることになった。なかなか味のある逸話である。
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