礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

暗い気持になるのを辛くも忍んで脱稿した(所弘)

2018-10-30 05:28:17 | コラムと名言

◎暗い気持になるのを辛くも忍んで脱稿した(所弘)

 先日、某古書店で、日本古典全書の一冊『堤中納言物語/落窪物語』(朝日新聞社、一九五一)を買い求めた。定価は三四〇円、古書価は一〇〇円。
 私の知るかぎり、朝日新聞社の日本古典全書には、装丁が二種類ある。両者ともハードカバーだが、初期のものは、白っぽい紙装で、表紙に梅の木のようなデザインが描かれている。後期のものは、赤っぽい布装で、表紙の中央に蝉のようなマークが捺されている。
 なお、前期のものには、その最後に、右書きで「蔵書印」と書かれたページがある。寡聞にして、その最終ページが蔵書印用のページになっている本というのは、この日本古典全書以外に(初期の日本古典全書以外に)、まだ見たことがない。
 今回、買い求めたのは、初期の装丁のもので、中に「古典の窓/日本古典全書/堤中納言物語/落窪物語 附録」という、二つ折り四ページの通信が挟まっていた。
 そこには、松村誠一「研究の盲点」、所弘「『いう』など」という、二つのエッセイが収録されている。松村誠一は、『堤中納言物語』の校訂者、所弘〈トコロ・ヒロシ〉は、『落窪物語』の校訂者である。このほかに、「石山寺多宝塔」という短文が収められているが、これには署名がなく、そのかわりに、文末に(倫)とあった。
 本日は、このうち、所弘の「『いう』など」を紹介してみたい。

  「い う」な ど    所 弘

 昭和二十三年〔一九四八〕の夏に書きあげた落窪物語がやつと世に出ることになつた。拙いものながら、恩師をはじめ友人や編集室の方々のお蔭によつてできたもので有難い気持で一杯である。原稿を書いた頃は、勤め先の宿直室にすみ、まるでなんの本ももたなかつた。資料は借り物ばかり、ともすれば暗い気持になるのを、辛くも忍んで脱稿したのだつた。これは凡例の終にも書いた通りで、印刷にかかつてから少し手を入れたので、凡例末尾の年は二十六年と改めてあるが、あの感慨は二十三年当時のものである。今は少しはよくなつた。落窪の木活字本〈モクカツジボン〉、横山由清〈ヨコヤマ・ヨシキヨ〉書入の秋成本などは傍においてあるから。それにしても焼失した完本の源氏物語営鑑抄、源氏女文章、別本小落窪、やはり写本の堀江物語など惜しい気がする。この堀江物語については、日本文学大辞典にも三巻の刊本しか書いてないが、架蔵本は確に一巻一冊の絵入刊本を写したものと認められるので、きつとそんな刊本もあるものと推測するのである。別に刊記などはなかつた。
 さて落窪の本文についてだが、面白の駒の記事のところで、馬づらの彼を大成本で、「ひうといななきて」云々と記すのを、古写本に従つて「いう」としておいた。万葉集で「馬声蜂音」を「いぶ」と訓むのは有名なこと。いななく、いばゆ、皆これと縁のある言葉と推定される。それで馬のなき声の書き方に、い―いう―ひう―ひん、といつた変遷を認めることができまいか。尤も秋成本は「ひゝ」と記すが。
 但し、これは表記法のことで、音韻の方では、この「う」が、巻一の「笠をほうほうとうてば」の「う」と共に実は撥音〔はねる音=「ん」〕を表したものだとされるなら、四つの変化とはならぬわけである。
 次に口絵のことであるが、都合で清水寺縁起になつたが、初は宮内庁の落窪物語絵巻が候補だつたので、この絵巻についてちよつと記したい。これは詞書〈コトバガキ〉なしの白描〈ハクビョウ〉のもので、四巻。伊知地鐡男氏の御示教によると、鎌倉期のものを江戸末期の有職家の松岡行義あたりが摸写したので、明治二十五年〔一八九二〕同家から献納されたものの由。これは四巻ではあるが、終まではなくて、第四巻は、実は第一巻と第二巻との間に入るべきもので、賀茂の祭見物の車争ひの辺で終るのである。即ち物語の第二巻末までである。すると物語全部だとこの倍位とも想像される。これから校合本によく見る詞書つきの小笠原近江侯蔵本絵巻八巻と、当推量〈アテズイリョウ〉で結びつけてみたい気もふと浮かんでくる。どこからかこの絵巻などが出てこないものかしら。
 この附録は仮名を編集室で改められるので、その手数のはぶける書き方をとつてみたが、どうも書きづらかつた。まことに不自由なことである。――昭和二十六年九月記(筆者は東京都立武蔵ケ丘高等学校教諭)

 文中に、「勤め先の宿直室にすみ」とある。「昭和二十三年」当時の筆者の「勤め先」はどこだったのだろうか。文章の末尾に、「東京都立武蔵ケ丘高等学校」とあるが、正しくは、「東京都立武蔵丘高等学校」である。また、昭和二三年(一九四八)前後の同校の校名は、「東京都立武蔵中学校」、もしくは「東京都立武蔵丘新制高等学校」(一九四八年四月から)だった。筆者が、昭和二三年当時も、同校に勤務していたとすると、当時の旧制中学もしくは新制高校には、「宿直」という制度があったということになる。

*このブログの人気記事 2018・10・30(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする