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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

備前国布都美村の袖キリ石につまづくと……

2018-10-24 03:25:34 | コラムと名言

◎備前国布都美村の袖キリ石につまづくと……

 中山太郎の論文「袖モギさん」(『郷土趣味』第四巻第二号、一九二三年二月)を紹介している。本日は、その四回目。昨日、紹介した部分のあと、改行せず、次のように続く。

 筆路を元へ戻して書きつゞけるが、播州には如何なる訳か袖モギさんの俗信が可なり濃厚に行はれたやうである。揖保郡室津村大字大浦に古い五輪の塚がある。土地の故老に由来を尋ねると源平の合戦の折に討死した大将の鎧の袖を埋めた処だと云ふてゐる(郷土研究三ノ八)此の話などでも前に掲げた奥州石巻の袖の渡しと類型のものであることは多言を要しない。飾磨郡八木村大字木場にも袖モギ地蔵と云ふがある。奇異なる像で源俊頼の歌にもある(飾磨鑑)。例の物臭い私は手近にある俊頼の散木奇歌集も調べても見ぬが、飾磨鑑の著者は今時の人間のやうに平気で嘘を書くほどの勇者でもないやうだから信用しても差支あるまい。同国印南郡的形村大字福泊、同飾磨郡御国野村大字御着、同郡八木村大字八家の三ヶ所に袖モギ地蔵がある。福泊と御着とは共に石棺の盖石の内側に彫刻した地蔵で路傍に立つてゐる。此の地方では此の地蔵の前で躓き倒れると、片袖をモギとつて納めて帰へらなければ、必ず凶事があると云ふてゐる。播陽万法智恵袋所納の『めざまし草』には、袖モギ地蔵は執念深き女の念だと配してある。又た八家の袖モギ地蔵は元木姪から福泊へ越える道の辺りにあつたと云ふから、昔は福泊のと一体であつたかも知れぬ(以上印南郡誌前編)。此の外播州続名所拾考によれば『のうねん』と云ふ所にも袖モギ地蔵があると載せてある。備前国赤磐郡布都美村大字小鎌には袖キリ石とて、二三百貫ばかりの石が路傍にある。此の石に躓いて転ぶと、きつと片袖がなくなるので斯く名づけられたのである(大正七年八月岡山新聞)。二三百貫と云へば可なり大きな石で、とても躓けさうにも思はれぬが、成長する石か否か、原文のまゝを転載する。美作国勝田郡豊国村に間山と云ふがある。此のに袖モギ坂と称する急坂がある。その坂の上に尼寺屋敷が残つてゐるが、伝説によると郷士の娘千鳥が藤岡八郎と恋に落ち、こゝまで逃げて来て片袖をモギリ後に尼となり寺に住んだ跡だと云ふてゐる(雑誌ポケツト大正九年三月号)。此の伝説は前に載せた上野の袂観音と全く同じものであつて、その起原が古い袖モギ信仰に存することは言ふまでもあるまい。美作にも此の種の信仰が相応に行はれたものと見えて、東作誌に左の如き地名が載せてある。
  勝田郡豊並村大字関本袖モギ川  苫田郡高田村大字下横野字袖モギ【以下、次回】

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