礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新村出の推薦文「法難史の教訓」を読む

2012-12-14 18:13:37 | 日記

◎新村出の推薦文「法難史の教訓」を読む

 今月一一日のコラムで、小笠原日堂『曼陀羅国神不敬事件の真相』(無上道出版部、一九四九)の「はしがき」を紹介した。その最後のあたりに、「本書に就て、学界の耆宿 新村出博士から、含蓄深き推奨の文を賜つたことは感激に堪えないところであります」という一節があることに目をとめられた方もあろう。
 小笠原日堂著のこの本の冒頭には(「はしがき」の前)、『広辞苑』の編者として知られている言語学者の新村出〈シンムラ・イズル〉の文章が置かれている。
本日は、この文章を紹介してみたい。

  法難史の教訓     新村 出
 昔から和漢共に、歴史をカガミと名づけ、鑑の字や鏡の字をかき、過去の過失にカンガミて、現代および将来の参照に供する屈強の材料に資したものである。この意味において、史実にしても、史籍にしても、物語にしても、小説にしても、伝説にしても、過去の事相を記るしたもの、こちらの智力を以て、眼光の紙背に徹するにおいては、一身一家一社会一国家に有益ならざるはない。
 中国の通鑑にしても、本朝の大鏡や増鏡、さては吾妻鏡、等々のカガミの字をつけた史籍の名称みなこれ編者が往時にかんがみて現在と未来の過去を予想し、過誤に陥らざらしめんとするの用意に出たものに外ならない。
 もちろん史書のみには止まらず、法を説ける宗教なり哲学なり道徳書なり、皆悉くこれ人生を反省し深慮し警鐘し、悪を戒め善を勧むるための規準たることに、何人も異存はないわけであるけれども、史実に即して説ける史書の方が、遥かに適切なる材料たることも疑わない。
 泰西の名著として、ギボンの羅馬〈ローマ〉衰亡史のごとき、いづれも一国の存亡と興廃とに対しての無上道を説きたるものと称しても差支〈サシツカエ〉ないと思う。
 而して東西古今に亘つて、政治上にも、思想上にも、宗教界には特に顕著なる迫害や弾圧や刑罰やが行われて、却て逆効果を来たした所の事例の甚だ多きことは、今さら列挙する必要はない。之を本邦の仏教史に徴し、之を欧亜の異教史に鑑みて、教学界における幾多の迫害史を回顧して考察するところ、法華宗の高祖および高弟ならびに僧徒が受けたる受難の歴史をはじめ、近世に在りて吉利支丹〈キリシタン〉の師徒が閲みしたる〈ケミシタル〉迫害のごとき、向後の立法家さては為政家、学者にも、評家にも、実に無二の鏡鑑となるべきものが、甚だ多いのである。ひとり宗教家のみならず、信教者のみならず、政治上また思想上にも、科学研究にも、哲学研究にも能所〈ノウジョ〉均しく、支配階級となく、被支配階級となく、法難の歴史的研究、またその叙述、その評論、その批判は、多大なる貢献をもたらすものとせねばならぬ。
 昭和法難とも称せられる所の曼陀羅国神不敬事件の真相の如きも、単に日蓮上人の信徒、法華経の信奉者のみを奮励せしむるばかりではなく、普ねく〈アマネク〉仏教界、宗派の如何を問わず、各宗の僧俗にも、且つまた他教の信者にも、好箇の参照的史鑑となること疑ない。そればかりか、為政家をして、向後一切の迫害禁圧の念慮に対して、反省、警鐘、達観せしむるに足るものを含蓄せる点において、教法界のみか、非教法界の衆生にも、詳読味読を薦めたいと思う。われら三宝〔仏・法・僧〕を篤敬するもの、老若の別なく、新旧の差なく、般若の理智に徹せんと欲し、明達の哲道を求むるもの、何れの書か、向上の一路たらざるはなかろうぞ。     (昭和二四、九、三〇)

 新村出と『曼陀羅国神不敬事件の真相』の著者・小笠原日堂との接点については、詳らかにしないが、新村が「法華会」に所属する日蓮主義者であったことは、比較的よく知られている。法華宗関係者を通して、推薦文の依頼があったのであろう。
 文中に「無上道」という言葉が出てくるが、これは、この上ない道、ないし仏道を示す言葉のようである(広辞苑による)。小笠原日堂の発行元が、「無上道出版部」であることを意識して使ったものと思われる。

今日の名言 2012・12・14

◎教法界のみか、非教法界の衆生にも、詳読味読を薦めたい

 新村出の言葉。小笠原日堂の著書『曼陀羅国神不敬事件の真相』を推薦する言葉である。同書冒頭の「法難史の教訓」より。上記コラム参照。

*お知らせ* 明日は、たぶん、ブログの更新をお休みします。

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