イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

僕は知っています

2009年07月20日 16時26分32秒 | Weblog
本当にそうなんですよね。
近くにいる人ほどね。
でも本当に一番好きな人なんですよね。

ありがとうございます。



多少なりとも知っていればこそと思うのです。

知っていればこそ、分析し、結果を出し、
その先に進んでいけますからね。

人の抗いきれない習性として「返礼」
と言うものがあります。

これは、与えられたものに対して
お返しをしなければ気がすまない、
と言う人間特有の気分から来る行動です。

「人間特有の気分」とは書きましたが、
この気分は圧倒的なまでに人の心を支配します。

それは次第にエスカレートし、
時には自分の財産を破壊してまでも
応えたい、「返礼したい」という
思いにまで至ってしまうことがあるほどなのです。

しかし、人間は時としてこれほどまでに強烈に
人を突き動かす「気分」を踏みとどまることがあるのです。

お返しをしない、あるいは返礼しない。

踏みとどまらせるその感情は、

憎悪、嫌悪、無関心、あるいは圧倒的な従属関係。

簡単にいってしまえば負の感情(と僕は思っています)
が働いたときには人は与えられても、
「お返しをしない」のです。

僕はこれは破壊的な感情、および行為、と思っています。

多少の負の感情があっても人は人として持ち合わせている
「人間特有の気分」に沿った行動をしたほうが良いと考えています。

僕はそのように考えますが、僕の考えを強いることはしません。

なぜならば、無意識のうちでさえとってしまう「お返し」
と言う行為を抑えていると言うことは、それはかなり
強固な意志に基づいていると鑑みられるからです。

その憎悪や嫌悪は想像をはるかに超えるほどに
大きいものであると認められるからです。

このような状況に出くわした場合、
僕の取る方法は一つです。

ひたすら与え続ける、です。

変わるか変わらないかはその人次第ですが、

僕まで変わる必要はないなと思えるからです。

挨拶を返してくれない人に挨拶をし続けることは
ちょっとした不毛感におそわれることもありますが、

それでも、挨拶は人ができる一番最初の贈り物ですからね。


お互いの「おはよう」と言うたったひと言ずつの中にさえ、

「あなたに敬意を表していますよ」という感情と
「ありがとう、ちゃんと聞いていましたよ」という
感謝の思いがこめられていると思います。


もちろん、僕の考えは僕から自然発生的に生じたものではありません。

聞いたり、読んだりしたものに対し同意し

僕の好きな表現方法に換えているに過ぎません。

過ぎませんが、知っていると言うことはそういうことであり、
それこそがまさに人間なのだとおもいます。


こころのもちよう

2009年07月15日 22時21分00秒 | Weblog
何か書こう。

何がいいのだろうか。

何か書かなくちゃ。

心一つ。

わかってはいるのです。

梅干一つを家族で分け合うような、
そんな惨めな食事であっても
幸せを感じることはできる。

どれほどのご馳走が並んでいても
砂を咬むように味気なく
なかなかのどを通らず、
明日死のう、なんて思いに
駆られている時だってある。

心一つ。

わかってはいるのです。

もっと単純でありたい。
でも単純じゃいられない。

誰にでもいい返事で返したい。

でも八方美人なんて言われちゃう。

とげのある言葉に傷つきながら
自分だって、嫌と言うほどとげのある言葉を吐いてるとき
もある。

小さな組織の中にだって
対立があったり、
ねじ伏せたいと言う思いがあったり、
自分だってそんな流れに巻き込まれて
右往左往したりしてね。

なんてせこい人間なんだ、俺は。

落ち込んじゃいます。

人を傷つけたくない。

人に喜びを与えてあげたい。

本当にそう思っているのです。

うまくいかないことのほうが多いんだけど。

挨拶だって進んでします。

だって挨拶は人に喜びを与える一番最初のものだからね。

負けるな、俺と、いつも自分に言い聞かせながら生きています。