僕はそんなに右向きな人ではないのですけれど
「天皇陛下を敬いなさい」という発言はよくしているように思います。
それはきっと
人間には理屈抜きに畏怖する存在が必要だからという思いがあるからです。
ちなみに「きっと」と表現したのは
今書きながら僕自身の思いを確認しているためです。
先日、善光寺に行ったときに
高僧の方が参道を通るところを見ることができたのですが
観光に来ていた人はみな一様に高僧の前にしゃがみこみ頭(こうべ)をたれ、
高僧はその前を通りながら数珠で頭をなでていくのです。
観光に来ていた人が「これは理にかなう」からと言ってこうべを
たれていた訳ではないと思います。
そんな風に理屈抜きの畏怖する存在がある人とない人とでは日常の「ふるまい」
にも違いが出てくると思うのです。
完全なる利他主義になどなれないのですけれど、利己主義に陥りそうなときに
多少なりとも利他主義的な「ふるまい」ができるような気がするんです。
理屈抜きに畏怖そる存在がある人には。
お声をかけてくださった、手をとってくださった。
ただそれだけで目頭が、胸がじんと熱くなる。
その究極的な存在が日本人にとっては天皇陛下ではないかなと思うのです。
すいません。もっとすっきりと表現したいところですが思いがまとまりません。
とりあえず今日はここまで。
「天皇陛下を敬いなさい」という発言はよくしているように思います。
それはきっと
人間には理屈抜きに畏怖する存在が必要だからという思いがあるからです。
ちなみに「きっと」と表現したのは
今書きながら僕自身の思いを確認しているためです。
先日、善光寺に行ったときに
高僧の方が参道を通るところを見ることができたのですが
観光に来ていた人はみな一様に高僧の前にしゃがみこみ頭(こうべ)をたれ、
高僧はその前を通りながら数珠で頭をなでていくのです。
観光に来ていた人が「これは理にかなう」からと言ってこうべを
たれていた訳ではないと思います。
そんな風に理屈抜きの畏怖する存在がある人とない人とでは日常の「ふるまい」
にも違いが出てくると思うのです。
完全なる利他主義になどなれないのですけれど、利己主義に陥りそうなときに
多少なりとも利他主義的な「ふるまい」ができるような気がするんです。
理屈抜きに畏怖そる存在がある人には。
お声をかけてくださった、手をとってくださった。
ただそれだけで目頭が、胸がじんと熱くなる。
その究極的な存在が日本人にとっては天皇陛下ではないかなと思うのです。
すいません。もっとすっきりと表現したいところですが思いがまとまりません。
とりあえず今日はここまで。