ジジイのたわごと

ジジイが適当に思いついたことを書いてみます

災害と強運

2011-03-31 06:10:59 | 日記
 私のゴルフ仲間のK氏(確か私より2年先輩)の話によると、K氏の御子息が、仕事で仙台滞在中、今回の災害に遭遇したそうだ。地震発生と同時に、津波警報も出されたので、他の人と一緒に少し高台のビルへ退避したそうだ。暫くしても津波が来ないので、退避してるビルを離れようとしたら、ビル関係の人が制止しビルから出れなかったそうだ。仕方ないので、ビルの4F・5Fで退避してたら警報通りの津波がビルの3Fまで押し寄せたそうだ。

 ビルから離れようとした人を制止したビル関係の人も立派だけど、津波が3Fまでだったのは幸運であった。K氏の御子息は、かなりの強運の持ち主とみえる。
 私の亡くなった父が「商売は努力も必要だが、強運も必要だ」と言ってたのを思い出した。K氏の御子息が、努力家であり、強運の持ち主であることを、願って止まない。

 尚、上記の話と関係ないが、東北地方の地名の読み方で、私は「石巻」を「いしまき」と読み、「気仙沼」を「きせんぬま」と読んでたのである。「石巻」は「いしのまき」であり、「気仙沼」は「けせんぬま」と読むのが、今回の災害で始めて分かったのである。東北地方へは一度も出掛けた事がないとは言え、日本人として極めて恥ずかしいことであった。
 
 もしかして、このブログを読んでる東北地方の方に対し、私の無知を心よりお詫び申し上げますと共に、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

金子みすずの詩

2011-03-30 06:36:21 | 日記


 
 時々私のブログに「marie」の名前でコメントして頂いてる千葉市在住の私の親友の奥様から、共同広告機構のコマーシャルに起用されてる金子みすずの詩を、筆ペン習字で書いた(上の段)のを、メールで送って頂いた。筆ペンによって、活字と違って金子みすずの優しさが、より一層伝わってくるようだ。筆ペン習字教室へ通って、筆ペン習字の勉強をしてるとの事だった。

 marie様は英会話も勉強されてるようで、金子みすずの詩を英訳(下の段)までもしてあった。その他にも、歌舞伎、能、などの鑑賞を含め、生涯学習を続けていらっしゃるのである。私にとって「ヒエ~ツ」と思われる人は、「凄い人」だと思ってるが、marie様は、私にとって「凄い人」である。
 私の友人は、marie様のことを、「我が家の財務局長」と称してるが、むべなるかなである。

※「むべなるかな」の意味が分からないときは、インターネットで検索してください。私は中学時代、国語の先生から教わりました。

想定内と想定外

2011-03-29 06:16:58 | トピック
 
「日本一の防潮堤」無残 想定外の大津波、住民ぼうぜん
2011年3月20日14時52分


 「日本一の防潮堤」「万里の長城」――。住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちはぼうぜんとしている。
 
 「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師小林義一さん(76)は顔をこわばらせて振り返った。11日の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。
 
 小林さんは「防潮堤は安心のよりどころだった。『防潮堤があるから』と逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をもっと高くしないと、これでは暮らしていけない」。
 
 約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名がある。1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。
 
 防潮堤は、昭和三陸津波襲来の翌34年に整備が始まった。地元の漁師らによると、当時の田老村は、高所移転か防潮堤建設を検討。結局、海に近い所に住みたいとの村民の要望や代替地の不足から防潮堤建設を決断し、当初は村単独で整備を始めた。工事は中断を挟みながら段階的に進み、半世紀近く後の78年に完成。総工事費は80年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。
 
 こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。総延長も全国最大規模という。60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たが、田老地区では死者はいなかった。日本一の防潮堤として、海外からも研究者が視察に訪れるほどだった。

 しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500メートルにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。隣近所の多数の知人が行方不明になったという男性(45)は「津波の前では、頼みの防潮堤がおもちゃのように見えた。こんな津波を経験して、このまま田老で暮らせるのかどうか分からない」と泣きながら話した。
 
 今後の津波対策をどうするのか。漁師の川戸治男さん(69)は「漁師なら海の近くに住みたいと考えるだろうが、やはり高台の方に移住すべきではないか」と話す。
 
 宮古市は津波防災都市を宣言している。地域振興課長の鳥居利夫さん(59)は「防潮堤は、これまで経験した大津波を想定して整備された。だが、今回は想定外だった。今後、どう津波対策を立てるのか。今のところ思いつかない」と肩を落とす。(吉村治彦)

※ジジイのたわごと
 
人知をもってしても、自然の力の前には、なす術もないということであろう。原子力発電所にしても、しかりであった。想定外の災害だと報道されてるから、想定外を想定内とする、災害防止策が必要かもしれない。想定内とか想定外とかの概念は捨てる必要があるようだ。

米軍の「友達作戦」

2011-03-28 04:05:10 | トピック

 
「友達作戦」に参加するHSL51部隊の隊員。右腕には「OPERATION TOMODACHI」とともに「友」「がんばろう日本」の文字が刻まれたワッペンが=26日午前、米軍三沢基地(古厩正樹撮影)


「友達作戦」に参加するP3Cのコクピットで地図をチェックする、米海軍の兵士=26日午前、米軍三沢基地(古厩正樹撮影)


 
米軍救援活動に密着 命懸け「トモダチ作戦」
産経新聞 3月27日(日)1時0分配信



 東日本大震災の被災地や沖合で、「オペレーション・トモダチ(トモダチ作戦)」と名付けた救援活動を展開している在日米軍。「友」と日本語で刺繍(ししゅう)されたワッペンを身につけた隊員は「作戦を誇りに思う」と胸を張る。26日、米軍基地から支援物資とともに輸送機に乗り込み、“史上最大の救援活動”に密着した。(大竹直樹)


 ■物資とともに輸送機に

 「これから放射線を測定する」。午前5時、神奈川県綾瀬市の厚木基地。大きな倉庫内で放射線測定器を持った隊員に全身を計測された。福島第1原発の放射能漏れ事故を受けた措置で、簡易測定器を常時身につけることも指示された。

 「ここだ。ここで降ろせ!」。午前5時半、米海軍の輸送機が並ぶ駐機場では、慌ただしく動き回るフォークリフトに隊員の声が飛ぶ。ミネラルウオーターや毛布、衣服などの支援物資が入った段ボール数十箱がリフトから次々と降ろされていく。

 駐機場では輸送機「C-2」が離陸の準備に入っていた。5人の隊員が手渡しリレーで次々と段ボールを積み込む。ゴーグルと防音ヘッドホンのついたヘルメットを装着し、段ボールが積まれた貨物室に乗り込むと、朝日が顔をのぞかせた午前6時に離陸した。

 ■「任務は誇り」

 激しい振動と騒音の中、輸送機は約1時間半で三沢基地(青森県三沢市)に着陸。「この任務に当たり、日本人の助けになれることを誇りに思う」。出迎えてくれた第5空母航空団ヘリコプター対潜飛行隊のペレラ・シル中佐(43)が、「友」「がんばろう日本」と刺繍された右腕のワッペンを見せてくれた。

 「自分たちのやれることは少ないが、物資を被災地に持っていくと笑顔を見せてくれる」と誇らしげだ。

 救援活動の中核部隊は米海兵隊と米海軍。東北地方の太平洋側に艦船を展開している。第7艦隊によると、救援活動には約1万8280人が従事。艦船19隻と航空機約140機で物資を被災地に届けている。

 雪が舞う滑走路では、隊員が懸命に除雪作業に当たっている。沖合の揚陸艦との間を往復する輸送機やヘリが陸着陸できなければ、それだけ支援物資が被災地に届くのも遅れてしまう。

 ヘリコプター対潜飛行隊に所属する上枝(かみえだ)俊介1等兵曹(34)は、「トモダチ作戦」について、「言葉にならないほど感謝している。米軍人も日本人も同じ気持ちだ」と語った。

 雪がやんだ午後5時ごろ、第7艦隊のドック型揚陸艦「トーテュガ」に向けて大型ヘリで三沢基地を離陸した。500人以上の米海兵隊員が支援物資輸送の任務に当たるトーテュガまで15分ほどのフライトだった。

※ジジイのたわごと
 米軍が救援のため日本へ派遣されたという報道は、災害直後に発表されたが、何をやってるかの報道は、無かったように思う。それが、この様にインターネットで米軍の救援活動が報道された。
 ヘリや輸送機を利用しての救援活動は、いかにもアメリカらしい。気に食わない相手国に対しては、弾丸を撃ち込む米軍もいれば、救援物資を運ぶ米軍もいたりで、戦争と平和の二本立ての米軍は、日本にとって「友達」のようでもある。
 太平洋戦争終結後、米軍が博多にも進駐軍としてやってきた。市内を移動する時は、ジープだった。埃だらけの道を、エンジンの音を響かせすっ飛ばしていた。我々ガキはジープに乗ってる米兵に手をあげて「チューインガム、チョコレート」と叫ぶとチューインガムを投げ捨ててくれた。我々ガキは先を争って、チューインガムを拾って食べたものだ。終戦直後で米飯を食べれないほど食糧事情は最悪だったし、まして甘い物など口にするなんて出来なかった時代だったから、チューインガムの甘さは格別に旨かったのを覚えてる。
 今では、救援物資をヘリや飛行機で運ぶ時代となった。被災地においては、米軍の救援活動で助かってることであろう。




日本馬の優勝

2011-03-27 06:45:34 | トピック

 
ヴィクトワールピサがドバイワールドカップで優勝し雄叫びを上げるミルコ・デムーロ騎手(撮影・佐藤雄彦)


 
ドバイWC】日本に勇気!ヴィクトワールピサが優勝
サンケイスポーツ 3月27日(日)2時46分配信

 日本時間の27日未明に、メイダン競馬場で行われた世界最高賞金(1着600万ドル=約4億8000万円)のドバイワールドカップ(GI、AW2000メートル)は、M・デムーロ騎手騎乗のヴィクトワールピサ(牡4歳、栗東・角居勝彦厩舎)が優勝。2着にトランセンドが入り、世界最高峰のレースで日本馬がワンツーフィニッシュという快挙を成し遂げた。ブエナビスタは直線で行き場を失い、8着に終わった。


 ドバイワールドカップのこれまでの日本馬最高着順は01年トゥザヴィクトリーの2着。アドマイヤドン、カネヒキリ、ヴァーミリアンなど、日本を代表する名馬たちでも勝利を挙げることができなかった。しかし、ヴィクトワールピサはその大きな壁を乗り越え、勝利をものにした。

 最高のコンビが、大震災にあった日本に勇気を与える結果を残した。

 逃げたのはトランセンド。3コーナー付近でヴィクトワールピサが後方から徐々に進出し、2番手へ。直線に入ると、逃げるトランセンド、追うヴィクトワールピサの叩き合いとなった。

 残り150メートル付近で、ヴィクトワールピサが先頭に立ち、後続の追撃をおさえてゴール。鞍上のデムーロ騎手はゴール直後、大きくガッツポーズを繰り出した。

 「日本人のために勝ちたいと祈っていました。家族のみんなありがとう。私は日本を愛しています。ありがとう」。デムーロ騎手は何度も“ありがとう”の言葉を繰り返した。

 同馬を管理する角居調教師は「本当に暗いイメージの日本国内でしたけど、3頭の日本馬で挑戦し、たまたま私の馬が勝てました。日本を元気にしてくれる結果になって良かった。先頭に立つのが早かったので、なんとか残ってほしいと思い、絶叫しました」。最後は報道陣に「サンキュー・ベリー・マッチ」と笑顔を振りまいた。

 勝ったヴィクトワールピサは、父ネオユニヴァース、母ホワイトウォーターアフェア、母の父Machiavellianという血統で、通算13戦8勝(うち海外3戦1勝)。国内の重賞は09年ラジオNIKKEI杯2歳S(GIII)、10年弥生賞(GII)、10年皐月賞(GI)、10年有馬記念(GI)、11年中山記念(GII)を制している。

※ジジイのたわごと
 
私は競馬場へ行ったこともないし、馬券を買ったこともないし、競馬に関しては全く知らない。順位が分かる程度である。今回は、日本馬が1位、2位となり、この世界最高峰レースで日本馬の実力を世界に知らしめたのだから、日本人として、大変嬉しく思う。
蓮舫さんよ!!科学技術だけでなく、世界の競馬でも「2位ではだめなんです!!1位でなければいけないんですぞ」