ジジイのたわごと

ジジイが適当に思いついたことを書いてみます

被災者を励ます名取の公民館長

2011-03-18 03:23:00 | トピック

 

避難所でのボランティアを志願する若者を笑顔で迎えた恵美雅信さん=
宮城県名取市の市立第2中学校体育館で2011年3月16日、大場弘行撮影(毎日新聞)

東日本大震災 孤立の住民、笑顔で励ます 名取の公民館長
毎日新聞 3月17日(木)20時12分配信

  「さあ、みんな、飯の準備だ。やろか」

 津波にのまれた宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)公民館に取り残された高齢者らを3日間励まし続けた館長、恵美(えみ)雅信さん(63)が、約200人が避難する市立第二中学校でも被災者の先頭に立ち、持ち前の明るさで住民らを元気付けている。【大場弘行、渡辺暢】


 地震発生直後、公民館には近くの住民が逃げ込んだ。大津波来襲の情報に、多くの人がより高い近くの中学校に向かったが、恵美さんは寝たきりや車椅子のお年寄りらと館にとどまった。

 外を見ると、波に押し出されたがれきの壁がみるみる迫ってきた。急いで皆を2階に連れていき、ふと窓の外を見ると、船や家や人が流されていた。

 残された53人は完全に孤立した。たまたまあったラジオをつけても、近くで同様に孤立した小中学校のことしか報じられない。外は雪。周囲のがれきは炎上。お年寄りのこわばった表情に、恵美さんはとぼけた様子で「俺たち、忘れられてらあ」。みんなの表情が緩んだという。

 避難した人たちはみな家を失い、着の身着のまま。恵美さんの家も絶望的だったが、ポケットから自宅のカギを取り出して、「ほれ、俺にはこれがあるから大丈夫」。そう言って笑わせた。

 お年寄りたちの救出は、水が引いて車が通れるようになった3日目だった。この間、「いつかは助け出されるさ」と笑顔を振りまき、残された人たちとともに救助のバスに乗って第二中学校に避難した。

 ここでも、物資の配給、食事、安否確認などあらゆる相談に乗る。元々は中学の技術の教諭。閖上中の校長を最後に退職したが、地域の人々に請われて館長になり、避難所でも自然とリーダーになっていた。

 恵美さんとともに同校に避難した阿部ことみさん(82)は、恵美さんが夜通し津波を見張ってくれていた姿が目に焼き付いている。「1人暮らしの私にとって、館長さんがいるから避難所でも安心。気配りが大した人です」

 だが、恵美さんの姉ら親類2人は今も行方不明のままだ。津波に流された姉の息子(41)と避難所で再会した際には人目をはばかることなく抱き合い、涙をぬぐった。避難所を出て身を寄せる家族の家もある。それでも、もうしばらくとどまるつもりだ。「俺なんて、すぐいらなくなるよ。ただ、ここにいるみんなの生活がちょっとは落ち着かないとな」

※ジジイのたわごと
 極限状態の中で、みんなを励ます名取の公民館長。みんなから頼りにされてる公民館長。
どんな時でも、くよくよせず、楽天的に考え行動出来る人なのかもしれない。しかも責任感が強い人のようにも見受けられる。一人でも、このような人がいれば、公民館長の廻りにいる人達は精神的に助けられるであろう。地震・津波・原発事故という暗い話題だらけにあって、明るい話題である。ガンバレ公民館長!!そして公民館長と一緒にいる人々よ!!すごいぞ日本!!負けるな日本!!

 閑話休題、車で出かけた帰途、スーパーへ立ち寄り、カミサンから申し渡されてた米10キログラム入り一袋を買ったが、何時もだったら米売り場には沢山の種類の米が盛り沢山で並んでいたのに、この日は、半分程度しか並んでいない。米売り場の棚によっては、在庫ゼロとなってる米もあった。
 福岡市内の場所によっては、災害に備えて、消費者の米の買い占め、備蓄が始まったのだろうか!!いささか気になる現象であった。
 ホームセンターでは、懐中電灯が品切れだという事を耳にした。
この様な事を名取の公民館長が聞いたら、何と云うだろうか?