静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

死に至る病

2009-11-19 18:56:06 | Weblog
「死に至る病」とは「絶望」のことだとキルケゴ―ル

(デンマーク・哲学者)は言います。

「絶望」とは強烈な言葉で、よっぽどヘマしたり、

逆境にたたされないと「絶望」しないと思うでしょうが、

ここでいう「絶望」とはそういう「絶望」ではありません。

哲学では、一般的な言葉でも哲学的な意味で使われること

がよくあるので、注意したいところです。


「何らかの意味で、いかほども絶望していないような

人間は 一人もいない。

『不安』、知られざる、あるものに対する不安、

それを知ろうとすることさえも何となく怖ろし

いような気のする、あるものに対する不安、

自己自身に対する不安、

このような不安を抱えていない人間は一人もいない。

この病を自分の内に抱いて歩き回っているので、

病がそこにあることが、時々電光のように、

自分自身にも不可解な不安として現れるのである」



よく分からないかもしれませんが、西尾幹二氏が

『人生の価値について』という本の中で言っていること

を併記しておきます。


<ふと自分が言い知れぬ生の無意味のなかに置かれている

ことに気がつく――あるいは漠と予感する――瞬間がある。

(中略)

どういう言葉を当て嵌めてよいかも分からない空虚感。

時間の彼方になにか黒々とした深い闇があって、

自分がベルトコンベアに乗せられ、

否応なしに前へ前へと押されていく徒労感。

それでいて、その抗しがたいものから身を引き離そうと

しても、目の前の小さな用務やささやかな楽しみごとによって

一時的に退避する「忘却の智恵」以外に方法を知らないもどか

しさ。 そんなふうに言ってみても、やるせない思いがし、

何をしても何を見てもつまらないこの倦怠の感覚を、

私はうまく説明したようには思えない>


西尾氏はキルケゴールを意識してのことかどうか知らない

けれど、絶望の説明として、実感もあり、正直で、その通り

と思う。


芥川龍之介は遺書である手記の中で、「ぼんやりとした不安」

という表現をしましたが、それは人間がみな抱えている

「根源的な不安」のことで、キルケゴールの言う絶望でしょう。

芥川は、それ故に自分は自殺すると言っていますが、

まさに絶望こそ、死に至る病。

人を自ら死に至らしめる原因としてよくいわれるのは、

貧困、病気、人間関係などだが、それは皮相な見方で、根本は

絶望です。


私の本体たる「心」は、絶望すなわち常なる「不安」の状態

にあります。

その「不安の正体」を見つけることが、自己を見つける

ことにもつながり、幸福への鍵でもあるということのようです。

キルケゴールの言葉を続けます。

「幸福のはるかはるか奥の方に、深く深く隠されている

幸福の秘密の奥内の奥に、そこにもまた不安が、すなわち

絶望が巣くうている。

絶望が最も好んで巣をつくるえり抜きの一番魅力的な場所は

『幸福のただ中』である」

「人々は自分では非常に安全なつもりでおり、人生に満足

していたりする、(しかし)これこそ絶望にほかならない

のである。

それに反して自分を絶望していると考えている人は、本当

の幸せに一歩近づいている」

この絶望、つまり不安は〃楽しむ〃ことでは解消されない。

それどころか、この不安を忘却することは、さらに絶望的な

状態になるから、まずこの「不安」に気づくことが大事だ

というのです 。

不安を忘れるために、いろいろな趣味や生きがい、娯楽が

世の中にはあふれています。しかし、それで自分の不安を

ごまかしてしまっては、本当の幸福は永遠に訪れません。

不安の根本をつきとめ、その解決を教えたものが仏教であり、

親鸞聖人の教えです。