「死に至る病」とは「絶望」のことだとキルケゴ―ル
(デンマーク・哲学者)は言います。
「絶望」とは強烈な言葉で、よっぽどヘマしたり、
逆境にたたされないと「絶望」しないと思うでしょうが、
ここでいう「絶望」とはそういう「絶望」ではありません。
哲学では、一般的な言葉でも哲学的な意味で使われること
がよくあるので、注意したいところです。
「何らかの意味で、いかほども絶望していないような
人間は 一人もいない。
『不安』、知られざる、あるものに対する不安、
それを知ろうとすることさえも何となく怖ろし
いような気のする、あるものに対する不安、
自己自身に対する不安、
このような不安を抱えていない人間は一人もいない。
この病を自分の内に抱いて歩き回っているので、
病がそこにあることが、時々電光のように、
自分自身にも不可解な不安として現れるのである」
よく分からないかもしれませんが、西尾幹二氏が
『人生の価値について』という本の中で言っていること
を併記しておきます。
<ふと自分が言い知れぬ生の無意味のなかに置かれている
ことに気がつく――あるいは漠と予感する――瞬間がある。
(中略)
どういう言葉を当て嵌めてよいかも分からない空虚感。
時間の彼方になにか黒々とした深い闇があって、
自分がベルトコンベアに乗せられ、
否応なしに前へ前へと押されていく徒労感。
それでいて、その抗しがたいものから身を引き離そうと
しても、目の前の小さな用務やささやかな楽しみごとによって
一時的に退避する「忘却の智恵」以外に方法を知らないもどか
しさ。 そんなふうに言ってみても、やるせない思いがし、
何をしても何を見てもつまらないこの倦怠の感覚を、
私はうまく説明したようには思えない>
西尾氏はキルケゴールを意識してのことかどうか知らない
けれど、絶望の説明として、実感もあり、正直で、その通り
と思う。
芥川龍之介は遺書である手記の中で、「ぼんやりとした不安」
という表現をしましたが、それは人間がみな抱えている
「根源的な不安」のことで、キルケゴールの言う絶望でしょう。
芥川は、それ故に自分は自殺すると言っていますが、
まさに絶望こそ、死に至る病。
人を自ら死に至らしめる原因としてよくいわれるのは、
貧困、病気、人間関係などだが、それは皮相な見方で、根本は
絶望です。
私の本体たる「心」は、絶望すなわち常なる「不安」の状態
にあります。
その「不安の正体」を見つけることが、自己を見つける
ことにもつながり、幸福への鍵でもあるということのようです。
キルケゴールの言葉を続けます。
「幸福のはるかはるか奥の方に、深く深く隠されている
幸福の秘密の奥内の奥に、そこにもまた不安が、すなわち
絶望が巣くうている。
絶望が最も好んで巣をつくるえり抜きの一番魅力的な場所は
『幸福のただ中』である」
「人々は自分では非常に安全なつもりでおり、人生に満足
していたりする、(しかし)これこそ絶望にほかならない
のである。
それに反して自分を絶望していると考えている人は、本当
の幸せに一歩近づいている」
この絶望、つまり不安は〃楽しむ〃ことでは解消されない。
それどころか、この不安を忘却することは、さらに絶望的な
状態になるから、まずこの「不安」に気づくことが大事だ
というのです 。
不安を忘れるために、いろいろな趣味や生きがい、娯楽が
世の中にはあふれています。しかし、それで自分の不安を
ごまかしてしまっては、本当の幸福は永遠に訪れません。
不安の根本をつきとめ、その解決を教えたものが仏教であり、
親鸞聖人の教えです。
(デンマーク・哲学者)は言います。
「絶望」とは強烈な言葉で、よっぽどヘマしたり、
逆境にたたされないと「絶望」しないと思うでしょうが、
ここでいう「絶望」とはそういう「絶望」ではありません。
哲学では、一般的な言葉でも哲学的な意味で使われること
がよくあるので、注意したいところです。
「何らかの意味で、いかほども絶望していないような
人間は 一人もいない。
『不安』、知られざる、あるものに対する不安、
それを知ろうとすることさえも何となく怖ろし
いような気のする、あるものに対する不安、
自己自身に対する不安、
このような不安を抱えていない人間は一人もいない。
この病を自分の内に抱いて歩き回っているので、
病がそこにあることが、時々電光のように、
自分自身にも不可解な不安として現れるのである」
よく分からないかもしれませんが、西尾幹二氏が
『人生の価値について』という本の中で言っていること
を併記しておきます。
<ふと自分が言い知れぬ生の無意味のなかに置かれている
ことに気がつく――あるいは漠と予感する――瞬間がある。
(中略)
どういう言葉を当て嵌めてよいかも分からない空虚感。
時間の彼方になにか黒々とした深い闇があって、
自分がベルトコンベアに乗せられ、
否応なしに前へ前へと押されていく徒労感。
それでいて、その抗しがたいものから身を引き離そうと
しても、目の前の小さな用務やささやかな楽しみごとによって
一時的に退避する「忘却の智恵」以外に方法を知らないもどか
しさ。 そんなふうに言ってみても、やるせない思いがし、
何をしても何を見てもつまらないこの倦怠の感覚を、
私はうまく説明したようには思えない>
西尾氏はキルケゴールを意識してのことかどうか知らない
けれど、絶望の説明として、実感もあり、正直で、その通り
と思う。
芥川龍之介は遺書である手記の中で、「ぼんやりとした不安」
という表現をしましたが、それは人間がみな抱えている
「根源的な不安」のことで、キルケゴールの言う絶望でしょう。
芥川は、それ故に自分は自殺すると言っていますが、
まさに絶望こそ、死に至る病。
人を自ら死に至らしめる原因としてよくいわれるのは、
貧困、病気、人間関係などだが、それは皮相な見方で、根本は
絶望です。
私の本体たる「心」は、絶望すなわち常なる「不安」の状態
にあります。
その「不安の正体」を見つけることが、自己を見つける
ことにもつながり、幸福への鍵でもあるということのようです。
キルケゴールの言葉を続けます。
「幸福のはるかはるか奥の方に、深く深く隠されている
幸福の秘密の奥内の奥に、そこにもまた不安が、すなわち
絶望が巣くうている。
絶望が最も好んで巣をつくるえり抜きの一番魅力的な場所は
『幸福のただ中』である」
「人々は自分では非常に安全なつもりでおり、人生に満足
していたりする、(しかし)これこそ絶望にほかならない
のである。
それに反して自分を絶望していると考えている人は、本当
の幸せに一歩近づいている」
この絶望、つまり不安は〃楽しむ〃ことでは解消されない。
それどころか、この不安を忘却することは、さらに絶望的な
状態になるから、まずこの「不安」に気づくことが大事だ
というのです 。
不安を忘れるために、いろいろな趣味や生きがい、娯楽が
世の中にはあふれています。しかし、それで自分の不安を
ごまかしてしまっては、本当の幸福は永遠に訪れません。
不安の根本をつきとめ、その解決を教えたものが仏教であり、
親鸞聖人の教えです。