静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

自身は現に

2009-11-04 19:01:23 | Weblog
お釈迦さまは、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
とありますように、過去世、現在世、未来世の三世を貫く永遠の生命を明らかにされました。その永遠の生命のうえに、因果の道理は説かれているので、これを三世因果の道理といわれます。そこが仏教の大きな特色です。

さらに、
「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」(因果経)
と説かれ、過去の自己、未来の自己を知りたければ、現在の自己を徹見せよ、現在の自己が明らかになれば、すべて明らかになると教えられています。

中国の善導大師という方は、この釈尊の教説通り、現在の自己を徹見せられ、
「自身は現に是、罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」
とおっしゃっています。

「自身は現に」とありますから、ここは現在の自己をおっしゃられたものでしょう。
それは「罪悪生死の凡夫(罪や悪のかたまりの人間)」と徹見せられています。
そして「昿劫よりこのかた(果てしない過去から今まで)」の自己を、「常に没し常に流転(絶えず迷い苦しみ続けている)」と言われ、
これから先(未来)の自己も、「出離の縁(助かる縁)有ること無し」と断定しておられます。

なぜ、そんな遠い過去や未来の自己がハッキリ分かられたのかといえば、それは釈尊の教説通りです。三世因果の道理を深信せられた故のお言葉でしょう。

この善導大師のお言葉は、親鸞聖人も『教行信証』に引用せられていますから、聖人もまた同じ心であられたことになります。

仏教でいわれる真実の自己とは、こういう自己のことです。
内観などで出会える「本当の自分」とは、人それぞれのもので、仏教で明らかにされている自己とは違うのです。

とはいえ、言葉で表されたものは、いろいろに解釈されます。
こんな決定的な善導大師のお言葉でさえも、それぞれの知恵、才覚、経験、学問のレベルで、それぞれに解釈されていきます。すでに同心?あるいは簡単に同心できると思っている方が少なくないのに驚かされます。
それが本当に同心といえるのか、いえないのか、心のことなので第三者には確めようもありません。

だからこそ、親鸞聖人が『正信偈』の最後に、
「道俗時衆共同心」(すべての人よ、この親鸞と同じ心になってほしい)と呼びかけられたあと、
「唯可信斯高僧説」(ただこの高僧の教えを信じなさい)とおっしゃっているように、道を誤らぬよう、善導大師を含む高僧方の真実の教えをよく聞き、従わせていただくことが大事であると、お勧めになっているのです。

では、善導大師はどのようなことを教えられたか。
因果の道理など真理ではないとか、因果の道理など説くものではないとか、そういうことは教えられなかったはずです。
(つづく)