静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

因果の道理なんて証明できないじゃないか?

2009-11-11 18:13:45 | Weblog
「因果の道理など、合理的・理性的な科学の方法をもって証明できるものではない」との理由で、仏法を求めることを、ただの盲信と、批判的に言う人たちがあります。
こういうことを言う人たちは、証明というもの自体を、何か誤解しているように思います。

◆証明とはどういうことか、具体的に、ユークリッド幾何学を例にとってみましょう。

ユークリッド幾何学とは、小学校や、中学校で学んだあの幾何学のことです。

例えば数学の授業で、「三角形の内角の和は180度である」ことを証明せよ、という問題を出されたことを覚えていると思います。なぜ180度が正しいと言えるのか、論理的に導かなければ◎をもらえません。

証明には必ず前提が必要です。つまり、

Aが正しいとするならば、Bも正しいことになる。

Bが正しいとするならば、CもDも正しいといえる。

このように証明には必ず前提(この場合A)があります。
この前提がなければ、論理を出発させることができないからです。

では、この前提は正しいのかどうか?
それを証明しようとすると、前提の正しさの証明というのは無限にさかのぼれてしまうので、これ以上は証明不要、これ以上さかのぼらなくてもいいという大前提が必要となります。これを「公理」といいます。

ユークリッド幾何学には5つの公理があります。
どんなものか、その1つを上げれば、「2つの点は直線で結ぶことができる」というものです。
これはあえて証明するまでもなく、誰しも直感的に正しいと思えるので「公理」とされています。

このような「証明する必要もないくらい自明な法則」を公理といい、こういった公理をもとに、論理的に考えていけば「三角形の内角の和は180度である」という一つの定理が証明されます。

この定理を利用して、さらに新しい定理が証明され、こうして積みあげた定理の山が幾何学体系というわけです。

さて、ここからが重要なのですが、公理は自明とは言っても、あくまで「証明はできない」ということです。したがって、幾何学は、証明されていない法則を土台に成り立つ学問体系なのです。

だからもし、万が一にも、公理に間違いがあれば、公理から導き出された定理もすべて間違いということになり、歴史ある幾何学体系も一瞬にして、真理の座から降ろされることになります。

しかし、ユークリッド幾何学は、私たちの生活実感と一致し、不都合も生じなかったので、長く真理の座に君臨し、永久にその座に居続けると信じられてきました。

ところが、その信念を揺るがす学問上の大事件が起きたのです。

1830年頃、数学者のガウスが、「平面上に、絶対に交わらない2本の線(平行線)を引くことができる」という誰もが正しさを疑わなかった「公理」の一つを、「平行線も交わる」という公理に置き換えてみたところ、別に矛盾は生ぜず、まったく新しい幾何学体系が作られることを発見してしまったのです。

この幾何学は、非ユークリッド幾何学と呼ばれ、簡単にいえば「歪んだ紙の上に書いた図形」を取り扱うものであり、三角形の内角の和は180度にはなりません。

でもそれは観念上の空論のようにも思われていたのですが、その後、相対性理論による空間の歪みの発見により、むしろ現実的なのは非ユークリッド幾何学の公理であり、「自明」に思えたユークリッド幾何学の公理のほうが、実際は「ただの思い込み」だったことが明らかになってきたのです。

これは学問をやっている人々にとって、非常にショッキングなことでした。

幾何学のみならず、数学、哲学、ありとあらゆる学問は、ある一定の公理(=証明は不可能だが、正しいとする暗黙の了解)をもとにして、論理的に組み立てて体系化されたものです。

ところがその公理自体の正しさは、誰も確かめようがないのです。

こうなると、あらゆる学問の理論体系は「絶対的な真理の記述」ではなくなり、「ある一定の公理を正しいと仮定し、それをもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」とみなされるようになっていきました。

さらにゲーデルという人が「不完全性定理」として、

「我々が、どんなに公理を選択して、矛盾のない理論体系を構築しようとも、その理論体系の無矛盾を自分の理論体系の中で証明することは不可能であるため、選んだ公理が本当に正しいのか証明することは、絶対にできません」

と述べることによって、理論体系の「絶対的な正しさ」を立証することは、完全にトドメをさされたのです。


ただし、これは「絶対的な真理を立証することは不可能」ということであって、「絶対的な真理など存在しない」ということまで意味しているのではありせん。(この辺を混濁している人が多いのです)

さて、話を仏教にもどすと、

仏教の根幹は因果の道理です。これを、一般の諸学問になぞらえて言うならば、仏教は「因果の道理」を公理とした教えの体系ともいえるでしょう(究極的には「阿弥陀仏の本願」と言うべきなのでしょうが、話が広がって混乱するのを避けるため、因果の道理と申しておきます)。

したがって、因果の道理は「公理」のような位置づけなのですから、「合理的・理性的な科学の方法をもって確かめられるものではないわけです」などと言うこと自体、意味がないのです。
そんなことを言うのなら、あらゆる学問の理論体系にケチをつけて回らねばなりません。


結局のところ、議論の焦点は「因果の道理」が常に成り立つという根本的な公理を認めるかどうかであり、そもそも公理の本質が「証明不可能な暗黙の了解」であるのですから、その公理を受け容れるかどうかは個人の問題です。

「仏教を信じること」 と 「幾何学を信じること」は、証明不可能な公理を受け容れているという点では、本質的に同じです。

だとするならば、「科学的、論理的に証明できないことを、真理と思いこんでいる人たち」との理由で、仏法を信ずる私たちをことさら非難するのなら、同じ理屈で、自分を含む全人類を非難しなければならなくなるでしょう。

因果の道理など、
>合理的・理性的な科学の方法をもって
>確かめられるものではないわけです

こんなことを言って、因果の道理にケチをつけてもしょうがないことで、初めから非難のポイントがずれていることがお分かりでしょう。

問題は、仏智を体得されたお釈迦さまの教説を信じるか、どうか。

それは、あなたが決めればいいことです。

ただし、「信じない」と言っている人の9割9分は、因果の道理を誤解しているので、それでは「信じない」と言っても意味ないことだから、少しでもその誤解が解けるよう、ここに書き続けているのです。(つづく)