静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

合理的観点から考えると?

2009-11-12 18:15:11 | Weblog
〃真理であることを証明できない〃との理由で、「因果の道理など真理とはいえない」、もしくは「ただの盲信だ」と非難してくる人に対し、もともと数学で言う「公理」のようなものは、原理上、証明はできないものだということを昨日書きました。

故に、どんな公理も、「ただの思い込み」かもしれないので、いかなる科学理論といえど、突き詰めれば信ずるかどうかの問題になってきます。仏法もまた然りということを書きました。

となると、あるサイトで言っている、
「合理的観点から考えると、因果の道理を真理と認め、その因果の道理を根幹とする仏教教義を、ほかの宗教や信条よりも優先的に選択すべき理由はない」というような主張を認めているようですが、そこはもう少し慎重に考えてみる必要があります。

前述のサイトの主は、私などよりずっと「合理的観点」というものを信じているようですから、この人の主張自体〃合理的観点〃からしてどうかを検討してみることにしましょう。

「因果の道理は真理とはいえない」とするならば、では人間の運命はどのようにして決まるのでしょうか?
〃合理的観点から考えると〃、次の三つになると釈尊はおっしゃっています。

(1)苦や楽という運命は、超越的な存在者(例えば神)が決める。

(2)苦や楽という運命は、あらかじめ決まっている。→宿命論

(3)苦や楽という運命が起きる因もなければ縁もない。すべては偶然。→偶然論

それ以外の見解は、〃合理的観点から考えると〃ありません。

では、これらの見解に立つと、どんな生き方になるか、やはり〃合理的観点から〃考えてみましょう。

上記の3説は、すべて正しくないもの、として釈尊は非難されていますが、その理由は以下の通りです。

1)神が運命を決めるのならば、不幸に遭えば神を恨むしかない。この世にあふれる不幸の数々もすべて神の仕業となるが、なぜそんな神を崇めねばならないか?神の意向にはだれも逆らえないので、「なるようにしかならぬ」と、アキラメの人生を送るようになる。

2)運命論。人生の苦・楽はあらかじめ決定してる。だとすれば、あらゆる努力は空しいものとなり、「なるようにしかならぬ」とアキラメの人生を送ることになる。

3)因も縁もない。人生の苦も楽もすべて偶然に起きるとすれば、これまた本人の努力ではどうしようもないことなので、「なるようにしかならぬ」とアキラメの人生を送ることになる。

先述の、ある人は、
「合理的観点から考えると、因果の道理を真理と認め、その因果の道理を根幹とする仏教教義を、ほかの宗教や信条よりも優先的に選択すべき理由はない」と堂々と主張していましたが、だとすると、自身の行為と、自身の運命との因果関係を認めないことになるので、〃合理的観点から考える〃と(1)~(3)のどれかの主張となります。
そうすると〃合理的観点から考えて〃そこに開かれるのは、ただのアキラメの人生ではないでしょうか。


因果の道理を真理と深く信じてこその「廃悪修善」です。
因果の道理を真理とは認められないならば、「廃悪修善」とは逆の方向に向かうことになります。それでは自身が破滅するし、そんな考えに同調する人が増えれば増えるほど、世の中全体が破滅に向かうのではありませんか?

してみれば、それこそ危険な思想といえましょう。

以上のことから分かるように、
〃合理的観点〃を云々するなら、因果の道理は自分の行動を決める基準として〃優先的に選択すべき理由〃は十分ある、と考えられるのではないでしょうか?