昨日からの続きです。
まだ昨日のブログを未読の方は、そちらを読んでから御覧下さい。
昔、中国に、何時も樹上で坐禅瞑想していた鳥彙(うか)禅師という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天がその樹の下を通り、一つ冷やかしてやろうと思った。
「そこの坊さんよ、そんな高い木の上で目をつむっていては、危ないではないか」
鳥彙禅師すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
この坊主、相当偉い奴かも知れぬと見てとった白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」
と訊くと、
「私は鳥彙という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥彙禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いい処で貴僧に会った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」
と頭を下げた。
鳥彙禅師は即座に、
諸悪莫作(もろもろの悪を為すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善を行い奉れ)
自浄其意(自らその心を浄めて)
是諸仏教(これが諸仏の教えである)
と答えた。
白楽天、いささか呆れ顔で、
「そんなこと位なら、三歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥彙すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。
「仏教とは一言で言えばどんな教えか?」という白楽天の問いに対する鳥彙禅師の答えが、
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
この話からも分かりますように、釈尊45年間の教えの99パーセントは廃悪修善なのです。
もし、仏法の救いと善の勧め(廃悪修善)が無関係、あるいは反って遠ざけるものだとするならば、なぜ釈尊は45年間の大半かけて、このことを説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。
さらに鳥彙禅師は
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と言っています。
これは、理屈は子供でも納得できる単純明快なことでも、その通り実行が難しい。悪を止めようとしても止められず、善を行おうとしても行えないということでしょう。
なぜそういうことになるのか?
それは私たちの本性が、悪性だからではありませんか。
根っからの悪性の者に、廃悪修善を説いて、簡単に実行できる道理もありません。
「八十の翁も行うこと難し」とは、そのことを意味しているのでしょう。
廃悪修善は、道徳倫理でも説くことかもしれませんが、昨日書きましたように、道徳倫理で勧められる善は、専ら身業と口業に限られるのに対し、仏教では心(意業)を最も重んじます。
鳥彙禅師も、「自浄其意(自らその心を浄めて)」と言っているではありませんか。
だから、仏教における廃悪修善の教え導きがあってこそ、はじめて己の心に目が向くのではありませんか。
このほかに、己の心に目を向けさせるどんな方法があるというのでしょう。
だれしも自惚れ強くできているので、己をそんな悪性の者とは思ってはおりません。口では「悪性の者です」などと殊勝そうに言ってはいても、心の中では全然……。そんな横着なしたたか者に、己の真価を知らせるのに、因果の道理を明らかにし、廃悪修善を説く以上の方法があるのでしょうか?
他にないから、釈尊は45年間、説き続けられたのではなかったでしょうか。
もしこれ以上の方法があると言うなら、きっとその人は釈尊以上の先生なのでしょう。そういうのは〃珍しき法門〃だと思われます。
因果の道理をいくら説いて聞かせても、ほとんどが白楽天のように、「廃悪修善?もう分かった、分かった、それよりもっと大事な話があるだろう」という聞き方をするのです。
そんな不遜な心で、己の真実が知らされたり、仏意を正しく理解できるものなら苦労はありません。(つづく)
まだ昨日のブログを未読の方は、そちらを読んでから御覧下さい。
昔、中国に、何時も樹上で坐禅瞑想していた鳥彙(うか)禅師という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天がその樹の下を通り、一つ冷やかしてやろうと思った。
「そこの坊さんよ、そんな高い木の上で目をつむっていては、危ないではないか」
鳥彙禅師すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
この坊主、相当偉い奴かも知れぬと見てとった白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」
と訊くと、
「私は鳥彙という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥彙禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いい処で貴僧に会った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」
と頭を下げた。
鳥彙禅師は即座に、
諸悪莫作(もろもろの悪を為すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善を行い奉れ)
自浄其意(自らその心を浄めて)
是諸仏教(これが諸仏の教えである)
と答えた。
白楽天、いささか呆れ顔で、
「そんなこと位なら、三歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥彙すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。
「仏教とは一言で言えばどんな教えか?」という白楽天の問いに対する鳥彙禅師の答えが、
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
この話からも分かりますように、釈尊45年間の教えの99パーセントは廃悪修善なのです。
もし、仏法の救いと善の勧め(廃悪修善)が無関係、あるいは反って遠ざけるものだとするならば、なぜ釈尊は45年間の大半かけて、このことを説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。
さらに鳥彙禅師は
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と言っています。
これは、理屈は子供でも納得できる単純明快なことでも、その通り実行が難しい。悪を止めようとしても止められず、善を行おうとしても行えないということでしょう。
なぜそういうことになるのか?
それは私たちの本性が、悪性だからではありませんか。
根っからの悪性の者に、廃悪修善を説いて、簡単に実行できる道理もありません。
「八十の翁も行うこと難し」とは、そのことを意味しているのでしょう。
廃悪修善は、道徳倫理でも説くことかもしれませんが、昨日書きましたように、道徳倫理で勧められる善は、専ら身業と口業に限られるのに対し、仏教では心(意業)を最も重んじます。
鳥彙禅師も、「自浄其意(自らその心を浄めて)」と言っているではありませんか。
だから、仏教における廃悪修善の教え導きがあってこそ、はじめて己の心に目が向くのではありませんか。
このほかに、己の心に目を向けさせるどんな方法があるというのでしょう。
だれしも自惚れ強くできているので、己をそんな悪性の者とは思ってはおりません。口では「悪性の者です」などと殊勝そうに言ってはいても、心の中では全然……。そんな横着なしたたか者に、己の真価を知らせるのに、因果の道理を明らかにし、廃悪修善を説く以上の方法があるのでしょうか?
他にないから、釈尊は45年間、説き続けられたのではなかったでしょうか。
もしこれ以上の方法があると言うなら、きっとその人は釈尊以上の先生なのでしょう。そういうのは〃珍しき法門〃だと思われます。
因果の道理をいくら説いて聞かせても、ほとんどが白楽天のように、「廃悪修善?もう分かった、分かった、それよりもっと大事な話があるだろう」という聞き方をするのです。
そんな不遜な心で、己の真実が知らされたり、仏意を正しく理解できるものなら苦労はありません。(つづく)