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唯物論への疑問(4) 変わるものと変わらないもの

2009-11-28 14:46:16 | Weblog
昨日の続きです。

これまで述べてきたように、
「私」とは、人体を分解してどこかに見つかるものではなさそうです。

車を例に出して考えてみると、
ガラス、ワイパー、電気機器、ハンドル、ブレーキ、エンジン、タイヤなどのパーツが寄せ集まった「ある状態」を指して「車」と言っています。いくら車を分解しても、車の「本質」というものに出会えるわけではありません。

同じように、皮膚、骨、筋肉、内臓、脳……こういうパーツの寄せ集まった「ある状態」を指して「私」というのだ、という考えも成り立ちそうです。

しかし、そうなるとまた奇妙な話になってきます。

近年、医学の進歩により、臓器移植が可能になってきました。
心臓はAさん、胃はBさん、肝臓はCさん、骨はDさんから、という具合に、何度も移植を繰り返して、すっかり入れ替わってしまった時、私は私のままでいられるのか?という問題です。

これこそ先々日書きました「大号尊者」の問いかけです。

全身の移植手術など、まだ現在の医学では無理だと思いますが、遠からぬ未来、可能になると思います。いや、そんな未来の話を持ち出さずとも、「私」の体は、新陳代謝を繰り返しながら、絶えず入れ替わっているのです。一説によれば、一つの細胞の平均寿命は7年間ほどで、7年経ったころには全身の細胞が、別の細胞にチェンジしているのだそうです。

ということは、7年前の肉体と、今の肉体とは、外見的には一緒でも、細胞レベルで入れ替わっており、物質的には別物となります。それでも同じ「私」という言葉で括る根拠はどこにあるのでしょうか?物質的には別物ではないのですか?

「私」とは、何年経っても変わらない何ものかに付けられている名称のはずです。
私というものを、肉体のみに注目した場合、それは何なのでしょうか?
何が変わって、何が変わらないままなのか?

あくまで思考実験ではありますが、新陳代謝で出て行った、かつての私の細胞を全部集めてきて、自分の肉体を復元したとしたら、それは「私」なのか「私」ではないのか?

肉体という物質のみに着目する限り、私とは何かを突き詰めていけばいくほど、どうにも不可解な事態に陥っていきます。

肉体(物質)的にどれだけ変化しても、「私」が私のままであるのはなぜなのでしょう?
それは肉体とは別に、一貫して流れる生命の流れを想定しないと説明のつかないことになってきます。

その永遠の生命の流れを、仏教では阿頼耶識というのですが、それは肉体に宿る「霊魂」みたいなものとは、本質的に異なったものなのです。それについてはいずれ詳述する機会もあるかもしれませんが、今は、唯物論の立場から仏説、特に因果の道理を否定する邪見を、問題としています。

唯物論への疑問点はまだまだ続きます。(つづく)


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