静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

千の風にはなれない

2009-11-18 18:47:05 | Weblog
昨年7月10日、物理学者の戸塚洋二が死去しました。翌年のノーベル賞受賞が有力視されていた人物だったそうです。

恩師でもあるノーベル賞科学者の小柴昌俊は、「あと18ヵ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と述べている。

博士のブログは、一がん患者の壮絶な闘病記録でもありました。

大ヒットした「千の風になって」について、博士は言っています。

「大変申し訳ないと思いますが、私はこの歌が好きではありません。
この詩は、生者が想像し、生者に送っている詩に過ぎず、本当に死者のことを痛切に感じているのかどうか、疑問に思ってしまうのです。死期を宣告された身になってみると、完全に断絶された死後このような激励の言葉を家族、友人に送ることは全く不可能だと、確信しているからです。むろん、このような言葉を死んでから送れたらこんなにすばらしいことはないのですが。実際に死にいく者の視点で物事を見てみたい少数の人々もいることを理解して下さい。あるいは私一人だけかな」


「期限を切られた人生の中で何を糧に生きればよいのか」と題して、死の恐怖について次のように記しています。

「われわれは日常の生活を送る際、自分の人生に限りがある、などということを考えることはめったにありません。 稀にですが、布団の中に入って眠りに着く前、突如、

・自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく、

・自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく、

・自分が消滅した後の世界を垣間見ることは絶対に出来ない、

ということに気付き、慄然とすることがあります。個体の死が恐ろしいのは、生物学的な生存本能があるからである、といくら割り切っても、死が恐ろしいことに変わりがありません。
 お前の命は、誤差は大きいが平均値をとると後1.5年くらいか、と言われたとき、最初はそんなもんかとあまり実感が湧きません。
 しかし、布団の中に入って眠りに着く前、突如その恐ろしさが身にしみてきて、思わず起き上がることがあります」


「残りの短い人生をいかに充実して生きるか考えよ、とアドバイスを受けることがあります。でも、このような難しいことは考えても意味のないことだ、という諦めの境地に達しました。

 私のような凡人は、人生が終わるという恐ろしさを考えないよう、気を紛らわして時間を送っていくことしかできません。そうやって死までの時間を過ごす、ほかにどんな方法があるのでしょうか。

 お恥ずかしいですが、とても有意義な人生を最後に送ることとはかけ離れています」

「しかし、何とか死の恐れを克服する、いってみれば諦めの境地はないのだろうか。そのような境地を無論見つけてはいませんが、上の理由を超克する諦めの考えが一つ二つ思い浮かぶことはあります。

・幸い子どもたちが立派に成長した。親からもらった遺伝子の一部を次の世代に引き継ぐことが出来た。「時間とともに進む世界でほんの少しだが痕跡を残して消える」ことになるが、種の保存にささやかな貢献をすることが出来た。

・もっとニヒルになることもある。私にとって、早い死といっても、健常者と比べて10年から20年の違いではないか。みなと一緒だ、恐れるほどのことはない。

・さらにニヒルに。宇宙や万物は、何もないところから生成し、そして、いずれは消滅・死を迎える。
遠い未来の話だが、「自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく」が、決してそれが永遠に続くことはない。いずれは万物も死に絶えるのだから、恐れることはない。

ニヒルで、取り付くしまがありません。結局、充実した人生を送るための糧はまだ見つかっていません。」

以上が、博士のブログからです。


〃死んだ後は無いに決まっている。例え有ったとしても、案ずることなんかない〃
因果の道理など真理ではないという人たちから、こういう無責任な放言が飛んできます。
「死んだ後」が有るか無いかは知識の問題でも、「死んだ後」助かりたいかどうかは人間の問題です。

死後を恐れるのは、深い人間性からくるものであって、死後がないという知識によって清算されるものでは決してないのです。