静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

善を勧めないということは悪を勧めているのか

2009-11-08 23:19:14 | Weblog
善を勧めてはいけないという主張が、浄土真宗の人たちの中にあります。
それで本当に浄土真宗と言えるかどうかは別として、事実としてそういう人たちがいるということです。

それでは、悪を勧めるのですか?と聞き返すと、
そんなことは言っていない。すべてにおいて善の勧めを否定しているわけではない、世間法(道徳倫理)上、善を勧めるのは当然のことだ、
というようなことを言ってくるようです。

仏法は、道徳や倫理と目的とするところが違います。当然、ここは仏法上の話です。
「道徳倫理上、善は勧めるが、仏法上、善を勧めてはならない。なぜならば救いから遠ざかるから」。
こういう主張だとするならば、果たしてそれは本当に仏法と言えるのかどうか?


もう一つ言うと、この人たちは、
「私たちは善は勧めないが、決して悪を勧めているわけではない」
と考えているようですが、それは通らぬ話です。

もちろんこの人たちが、人殺しや窃盗などの悪を勧めているなどとは思いません。
ただ、【善を勧めない】ということ自体、これは悪なのです。
人殺しや窃盗のような悪とは違うものの、善を妨げる行為は悪になります。

これを極端な言いがかりのように思う人もあるかもしれませんが、落ち着いて考えれば、そういう結論になるのではないでしょうか。

例えば、被災地に救援物質を届けることが【善】だとすると、それを妨げたり、遅らせたりするのは【悪】だと誰しも思うでしょう。

理屈は同じです。
善を勧めている人を「間違っている」と非難するならば、それは「【善を勧めない】ことを勧めている」ということになります。それはつまり「善を妨げ、滞らせる【悪】を勧めている」ことにならないでしょうか。


そもそも「善を勧めてはいけない」という言葉自体、たいへん奇妙な日本語なのです。
勧めてはいけないようなものを、なぜ善と呼ぶのか?
勧めてはいけないものなら、それは悪ではないのか?
これが一般的な言語感覚ではないでしょうか。

それを仏法の教えとして堂々と主張されるということは、仏教で善と教えられているものは、実は救いから遠ざける悪なのだ、という解釈なのかもしれません。

もしそうだとするならば、こういうことになります。

仏法で勧められている【善】、たとえば布施(親切)や忍辱(忍耐)や精進(努力)などは、道徳倫理上、勧めるのはいいが、仏法上、本当は勧めてはならない(なぜなら救いから遠ざかってしまう)。仏法上【善】と教えられているものは、実は決して勧めてはならない悪だから、「【善】は勧めてはならない」というのが真実の仏法なのだ。

なんというややこしい主張なのでしょう。

海に入って、まだ足のつく腰の辺りまでしか水につかっていない者が、オレは海を知ったのだと言っているようなもので、自分の体験と一知半解の教学で仏法を思い思いに語ってきた結果が、こういう教義の大混乱を招いたように思います。

五百年前、やはり大混乱していた浄土真宗の教義を正しく統一し、真宗再興を成し遂げられた蓮如上人の時代、教えは人から人へ爆発的な勢いで伝わり、次々と大きな寺院が建立されていきましたが、そういう歴史的事実は、「真宗に善の勧めなどない」という教えから出てきたものなのか。昨日も書きましたように、仏敵信長の蹂躙に身を捨てて抵抗し、「抜き難し南無六字の城」と、儒教の学者をして感嘆せしめた真宗門徒の熱情は、善など勧めるものではないという人たちの間から生まれ来るものなのでしょうか。
考えれば誰でも分かることだと思います。


つまるところ、善の勧めに対して非難があるのは、
善の勧めを、「善をすればそのうち助かる」ということだと誤解したところから出てきたものと思われます。


善が勧められているのは、そういう理由からではありません。