因果応報なるが故に来世なきに非ず(釈尊)
つまりこのお言葉は、悪辣非道の限りを尽くしても、死ねば全部チャラにできる、と思っている人もあるかもしれませんが、そうは問屋がおろしませんよ。因果の道理は真理であるから、蒔いたタネのあらわれる、来世があるのですよ、ということです。
来世、あるいは後生ともいいますが、これについて今日の浄土真宗は、昨日書きましたように、見解がまるでバラバラです。なぜそうなるかといえば、そもそも仏教の根幹たる因果の道理が、まるで軽んじられている現状があるからでしょう。
因果の道理を真理とすれば、来世または後生の存在は「理」にかない、目に見えずとも明白です。
因果の道理を受け入れることと、後生の存在を受け入れることとはつながっているのです。
ですから、どうしても後生の一大事を否定したい人は、どうしても因果の道理を認めようとはしないものです。
これまではどちらかといえば「理」の上で書いてきたつもりですが、私たちの「直感」からいっても、後生の存在は否定できないのではないかと思うのです。
そのことについて明日から書いてみたいと思います。
(つづく)
つまりこのお言葉は、悪辣非道の限りを尽くしても、死ねば全部チャラにできる、と思っている人もあるかもしれませんが、そうは問屋がおろしませんよ。因果の道理は真理であるから、蒔いたタネのあらわれる、来世があるのですよ、ということです。
来世、あるいは後生ともいいますが、これについて今日の浄土真宗は、昨日書きましたように、見解がまるでバラバラです。なぜそうなるかといえば、そもそも仏教の根幹たる因果の道理が、まるで軽んじられている現状があるからでしょう。
因果の道理を真理とすれば、来世または後生の存在は「理」にかない、目に見えずとも明白です。
因果の道理を受け入れることと、後生の存在を受け入れることとはつながっているのです。
ですから、どうしても後生の一大事を否定したい人は、どうしても因果の道理を認めようとはしないものです。
これまではどちらかといえば「理」の上で書いてきたつもりですが、私たちの「直感」からいっても、後生の存在は否定できないのではないかと思うのです。
そのことについて明日から書いてみたいと思います。
(つづく)