静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

後生の存在

2009-11-15 18:01:01 | Weblog
因果応報なるが故に来世なきに非ず(釈尊)

つまりこのお言葉は、悪辣非道の限りを尽くしても、死ねば全部チャラにできる、と思っている人もあるかもしれませんが、そうは問屋がおろしませんよ。因果の道理は真理であるから、蒔いたタネのあらわれる、来世があるのですよ、ということです。

来世、あるいは後生ともいいますが、これについて今日の浄土真宗は、昨日書きましたように、見解がまるでバラバラです。なぜそうなるかといえば、そもそも仏教の根幹たる因果の道理が、まるで軽んじられている現状があるからでしょう。

因果の道理を真理とすれば、来世または後生の存在は「理」にかない、目に見えずとも明白です。
因果の道理を受け入れることと、後生の存在を受け入れることとはつながっているのです。

ですから、どうしても後生の一大事を否定したい人は、どうしても因果の道理を認めようとはしないものです。


これまではどちらかといえば「理」の上で書いてきたつもりですが、私たちの「直感」からいっても、後生の存在は否定できないのではないかと思うのです。
そのことについて明日から書いてみたいと思います。
(つづく)

まずは因果の道理からでしょう

2009-11-14 19:04:27 | Weblog
親鸞聖人のお言葉を出して、その意味を説明をする、ということが最も大切なことですが、非難してくる人の多くは、因果の道理など真理とは言えない、とか、救いとは関係ない、などと言っているようです。

こういう現状ですから、因果の道理は真理か否か、なぜ釈尊は説かれたのか、そこのところをキッチリ押さえず、その先の話をしてもほとんど意味がないと思うのです。なぜなら因果の道理は仏教の根幹。シャツの最初のボタンのかけ違えれば、最後までズレていくしかありません。

釈尊が因果の道理を明らかにしてくだされたからこそ、私たちは過去世・現在世・未来世の三世の存在を知り、廃悪修善の教えの大切さも分からせていただくことができます。(そのことはこれまで何度も書いてきたことなので、繰り返しませんが、分かりにくければ、どうか過去のエントリーを参照下さい)

しかし、因果の道理に狂いなしと思わぬ人は、三世の存在も認められず、廃悪修善の教えも軽んじることになるでしょう。でも、そんな人に後生の一大事が知らされるということがあるものでしょうか?

事実、今日の浄土真宗の僧侶に、後生の一大事とはどういうことかと質問すると、こういう答えが返ってくるようです。

(1)今から死ぬまでの一大事。つまり今をどう生きるかの大事。
(2)後生が地獄とは脅しであり、悪行の戒めである。
(3)人は死ねば皆、浄土へ帰ることを言われたもの。
(4)蓮如上人の時代は戦国乱世でこの世は苦しみばかりだった。せめて死んだら安らかな極楽へ往けると、民衆を慰めるために言われたこと。
(5)人間は死ねは無に帰するから、後生の一大事は、今日死語に等しい。
(6)「前念命終 後念即生」(愚禿抄)の後と生をとって作った略語。
(7)後生とは、我々の子孫が生きていく後の世のことである。
(8)後生を実体化するのではなく、飽くまで命の一大事ということ。

これからも分かるように、因果の道理を軽んじてきた結果、親鸞聖人の教えを正確に伝えるべき僧侶自身が、後生の一大事という教えの根本においてさえ理解がバラバラ。それでいて、親鸞聖人の書かれたものを各自の智慧才覚、経験で理解して、ああだこうだと論じているのです。それで一体、何が明らかになるというのでしょう。

残念ながら、これが今日の真宗の現状です。

客観的・論理的にって、どうよ?

2009-11-13 18:25:41 | Weblog
因果の道理を批判的に書いた、あるサイトには、

>私は客観的・論理的な方法で納得したと思っていました。
>しかし改めて冷静に考え直してみると、それは単なる思い込みに過ぎなかったことに気がつきました。

とありました。
全体の論調として、因果の道理を信じている人は科学的、論理的思考に疎く、ただの思い込みの激しい人間のように語られ、このサイトの主張こそ、冷静かつ、客観的・論理的な「正しい物の見方」だ、というように書かれています。

しかし、「客観的・論理的な方法で納得する」ことと「単なる思い込み」との間には、残念ながら?サイトの主が考えているほど、本質的な区別はありません。

驚く人もあるかもしれませんが、今日の哲学や科学の先端においては、詳述はしませんけれど、そういうことが一般的に言われております。

とはいえ、

「客観的・論理的な方法で納得する」ことが、全く無意味と言っているわけでもありません。

生きるということは常に「あれか、これか」の選択を迫られるのですから、「客観的・論理的な方法」というものが、大まかな判断基準として〃便利なもの〃であることに間違いはないのです。
事実、「客観的・論理的な方法」を無視して、私たちの日常生活は成り立たないでしょう。

ただ、

何でもかんでも「客観的・論理的な方法」で真偽の見分けがつくというものでもないのです。

「客観的・論理的な方法」で納得できるかどうか、というだけでは割り切れぬ重大な問題が、この人生にはある、ということもまた事実なのです。その2,3の例をあげるなら、人間の運命や真実の自己についての問題がそうでしょう。
そのことを、先述のサイトの主にも分かってほしいと思うのです。

「客観的・論理的な方法」というものには限界があります。それは分かりやすく言えばこういうことです。

Aが、自分の釣った魚を「1メートルある」と言い、Bが「そんなにはない。80センチほどだ」と言って譲らず、どちらの言い分が正しいかをめぐって言い合いになったとします。
そんな時、普通なら物差しを当てれば一目瞭然と思われます。
案の定、Aが物差しを持ってきて、
「ほーら見ろ。やっぱり1メートルあったじゃねえか」
これで決着ついたと思っていると、Bが
「ちょっと待った!その物差しの目盛りは本当に正確なのか?」

こう言ってきた場合、どうなるでしょう。

Aは物差しを裏返し、
「これが見えぬか愚か者。このJIS規格を何と見る」と勝ち誇ったように言い返しました。でもBは、
「へん、それがどうした。JIS規格なら正しいと、どうしてそう言い切れる?」
あくまで突っぱねます。
頭にきたAは、物差しの目盛りの正しさを証明する、もう一つの物差しを持ってきて言いました。
「さあ、これでどうだ。二つの目盛りは一致しただろう。ザマアミロ」
でもBが、
「二つの物差しの目盛りが一致したのは分かった。でもそれで目盛りの正しさをどう証明したことになるのか?」
あくまでこう言い張るならば、これは際限なくさかのぼって決着のつかない話となります。


「客観的・論理的な方法」という〃物差し〃で物事の真偽が判定できると主張するならば、そう主張すること自体、ではその「客観」とか「論理」という〃物差し〃自体の真偽はどうやって判定されるのですか?という堂々巡りの議論を抱き込んでしまいます。

そもそも主観を離れた「客観」的な視点など、誰がどうやって確認できるのでしょう?
「A=Bであり、かつA=Bではない」ということは「論理」的にはありえない話ですが、その論理というもの自体の正しさはどうやって確められるのでしょう?

結局、「それを言っちゃあおしめえよ」というわけで、いちいち疑っていたらキリがないし、「まあここは一つ、自明のこととして、それ以上突っ込んでも意味ないし、やめておきましょうや」ということで、お互い暗黙の合意が成り立っているわけです。

ところが仏教では、私たちが「自明」と信じていることの中に、つまり「客観」とか「論理」の中に、私たち自身の〃存在〃と根本的に結びついているような、根の深い錯覚があると教えられているのです。

というわけで、

「金が儲かる」「病気が治る」などインチキご利益を売り物にした新興宗教を、「客観的・論理的な方法」で「ただの思い込みだ」と断罪するのならまだ分かりますが、因果の道理というのは、私たちが勝手に言い出したことではなく、仏智を体得せられた釈尊の教説なのです。

「客観的・論理的」というものの本質を看破しておられる釈尊が、45年間、明らかにしてこられた因果の道理を、「そんなものただの思い込みです」と切って捨てるとは、先述のサイトの主は随分、大胆な人なのでしょう。しかし、それだけの大胆発言をするには、まだまだ学問が十分ではなかったと思われます。こういうことを書く前に、もう少し〃改めて冷静に考え直して〃みる必要があったのではないでしょうか。

合理的観点から考えると?

2009-11-12 18:15:11 | Weblog
〃真理であることを証明できない〃との理由で、「因果の道理など真理とはいえない」、もしくは「ただの盲信だ」と非難してくる人に対し、もともと数学で言う「公理」のようなものは、原理上、証明はできないものだということを昨日書きました。

故に、どんな公理も、「ただの思い込み」かもしれないので、いかなる科学理論といえど、突き詰めれば信ずるかどうかの問題になってきます。仏法もまた然りということを書きました。

となると、あるサイトで言っている、
「合理的観点から考えると、因果の道理を真理と認め、その因果の道理を根幹とする仏教教義を、ほかの宗教や信条よりも優先的に選択すべき理由はない」というような主張を認めているようですが、そこはもう少し慎重に考えてみる必要があります。

前述のサイトの主は、私などよりずっと「合理的観点」というものを信じているようですから、この人の主張自体〃合理的観点〃からしてどうかを検討してみることにしましょう。

「因果の道理は真理とはいえない」とするならば、では人間の運命はどのようにして決まるのでしょうか?
〃合理的観点から考えると〃、次の三つになると釈尊はおっしゃっています。

(1)苦や楽という運命は、超越的な存在者(例えば神)が決める。

(2)苦や楽という運命は、あらかじめ決まっている。→宿命論

(3)苦や楽という運命が起きる因もなければ縁もない。すべては偶然。→偶然論

それ以外の見解は、〃合理的観点から考えると〃ありません。

では、これらの見解に立つと、どんな生き方になるか、やはり〃合理的観点から〃考えてみましょう。

上記の3説は、すべて正しくないもの、として釈尊は非難されていますが、その理由は以下の通りです。

1)神が運命を決めるのならば、不幸に遭えば神を恨むしかない。この世にあふれる不幸の数々もすべて神の仕業となるが、なぜそんな神を崇めねばならないか?神の意向にはだれも逆らえないので、「なるようにしかならぬ」と、アキラメの人生を送るようになる。

2)運命論。人生の苦・楽はあらかじめ決定してる。だとすれば、あらゆる努力は空しいものとなり、「なるようにしかならぬ」とアキラメの人生を送ることになる。

3)因も縁もない。人生の苦も楽もすべて偶然に起きるとすれば、これまた本人の努力ではどうしようもないことなので、「なるようにしかならぬ」とアキラメの人生を送ることになる。

先述の、ある人は、
「合理的観点から考えると、因果の道理を真理と認め、その因果の道理を根幹とする仏教教義を、ほかの宗教や信条よりも優先的に選択すべき理由はない」と堂々と主張していましたが、だとすると、自身の行為と、自身の運命との因果関係を認めないことになるので、〃合理的観点から考える〃と(1)~(3)のどれかの主張となります。
そうすると〃合理的観点から考えて〃そこに開かれるのは、ただのアキラメの人生ではないでしょうか。


因果の道理を真理と深く信じてこその「廃悪修善」です。
因果の道理を真理とは認められないならば、「廃悪修善」とは逆の方向に向かうことになります。それでは自身が破滅するし、そんな考えに同調する人が増えれば増えるほど、世の中全体が破滅に向かうのではありませんか?

してみれば、それこそ危険な思想といえましょう。

以上のことから分かるように、
〃合理的観点〃を云々するなら、因果の道理は自分の行動を決める基準として〃優先的に選択すべき理由〃は十分ある、と考えられるのではないでしょうか?




因果の道理なんて証明できないじゃないか?

2009-11-11 18:13:45 | Weblog
「因果の道理など、合理的・理性的な科学の方法をもって証明できるものではない」との理由で、仏法を求めることを、ただの盲信と、批判的に言う人たちがあります。
こういうことを言う人たちは、証明というもの自体を、何か誤解しているように思います。

◆証明とはどういうことか、具体的に、ユークリッド幾何学を例にとってみましょう。

ユークリッド幾何学とは、小学校や、中学校で学んだあの幾何学のことです。

例えば数学の授業で、「三角形の内角の和は180度である」ことを証明せよ、という問題を出されたことを覚えていると思います。なぜ180度が正しいと言えるのか、論理的に導かなければ◎をもらえません。

証明には必ず前提が必要です。つまり、

Aが正しいとするならば、Bも正しいことになる。

Bが正しいとするならば、CもDも正しいといえる。

このように証明には必ず前提(この場合A)があります。
この前提がなければ、論理を出発させることができないからです。

では、この前提は正しいのかどうか?
それを証明しようとすると、前提の正しさの証明というのは無限にさかのぼれてしまうので、これ以上は証明不要、これ以上さかのぼらなくてもいいという大前提が必要となります。これを「公理」といいます。

ユークリッド幾何学には5つの公理があります。
どんなものか、その1つを上げれば、「2つの点は直線で結ぶことができる」というものです。
これはあえて証明するまでもなく、誰しも直感的に正しいと思えるので「公理」とされています。

このような「証明する必要もないくらい自明な法則」を公理といい、こういった公理をもとに、論理的に考えていけば「三角形の内角の和は180度である」という一つの定理が証明されます。

この定理を利用して、さらに新しい定理が証明され、こうして積みあげた定理の山が幾何学体系というわけです。

さて、ここからが重要なのですが、公理は自明とは言っても、あくまで「証明はできない」ということです。したがって、幾何学は、証明されていない法則を土台に成り立つ学問体系なのです。

だからもし、万が一にも、公理に間違いがあれば、公理から導き出された定理もすべて間違いということになり、歴史ある幾何学体系も一瞬にして、真理の座から降ろされることになります。

しかし、ユークリッド幾何学は、私たちの生活実感と一致し、不都合も生じなかったので、長く真理の座に君臨し、永久にその座に居続けると信じられてきました。

ところが、その信念を揺るがす学問上の大事件が起きたのです。

1830年頃、数学者のガウスが、「平面上に、絶対に交わらない2本の線(平行線)を引くことができる」という誰もが正しさを疑わなかった「公理」の一つを、「平行線も交わる」という公理に置き換えてみたところ、別に矛盾は生ぜず、まったく新しい幾何学体系が作られることを発見してしまったのです。

この幾何学は、非ユークリッド幾何学と呼ばれ、簡単にいえば「歪んだ紙の上に書いた図形」を取り扱うものであり、三角形の内角の和は180度にはなりません。

でもそれは観念上の空論のようにも思われていたのですが、その後、相対性理論による空間の歪みの発見により、むしろ現実的なのは非ユークリッド幾何学の公理であり、「自明」に思えたユークリッド幾何学の公理のほうが、実際は「ただの思い込み」だったことが明らかになってきたのです。

これは学問をやっている人々にとって、非常にショッキングなことでした。

幾何学のみならず、数学、哲学、ありとあらゆる学問は、ある一定の公理(=証明は不可能だが、正しいとする暗黙の了解)をもとにして、論理的に組み立てて体系化されたものです。

ところがその公理自体の正しさは、誰も確かめようがないのです。

こうなると、あらゆる学問の理論体系は「絶対的な真理の記述」ではなくなり、「ある一定の公理を正しいと仮定し、それをもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」とみなされるようになっていきました。

さらにゲーデルという人が「不完全性定理」として、

「我々が、どんなに公理を選択して、矛盾のない理論体系を構築しようとも、その理論体系の無矛盾を自分の理論体系の中で証明することは不可能であるため、選んだ公理が本当に正しいのか証明することは、絶対にできません」

と述べることによって、理論体系の「絶対的な正しさ」を立証することは、完全にトドメをさされたのです。


ただし、これは「絶対的な真理を立証することは不可能」ということであって、「絶対的な真理など存在しない」ということまで意味しているのではありせん。(この辺を混濁している人が多いのです)

さて、話を仏教にもどすと、

仏教の根幹は因果の道理です。これを、一般の諸学問になぞらえて言うならば、仏教は「因果の道理」を公理とした教えの体系ともいえるでしょう(究極的には「阿弥陀仏の本願」と言うべきなのでしょうが、話が広がって混乱するのを避けるため、因果の道理と申しておきます)。

したがって、因果の道理は「公理」のような位置づけなのですから、「合理的・理性的な科学の方法をもって確かめられるものではないわけです」などと言うこと自体、意味がないのです。
そんなことを言うのなら、あらゆる学問の理論体系にケチをつけて回らねばなりません。


結局のところ、議論の焦点は「因果の道理」が常に成り立つという根本的な公理を認めるかどうかであり、そもそも公理の本質が「証明不可能な暗黙の了解」であるのですから、その公理を受け容れるかどうかは個人の問題です。

「仏教を信じること」 と 「幾何学を信じること」は、証明不可能な公理を受け容れているという点では、本質的に同じです。

だとするならば、「科学的、論理的に証明できないことを、真理と思いこんでいる人たち」との理由で、仏法を信ずる私たちをことさら非難するのなら、同じ理屈で、自分を含む全人類を非難しなければならなくなるでしょう。

因果の道理など、
>合理的・理性的な科学の方法をもって
>確かめられるものではないわけです

こんなことを言って、因果の道理にケチをつけてもしょうがないことで、初めから非難のポイントがずれていることがお分かりでしょう。

問題は、仏智を体得されたお釈迦さまの教説を信じるか、どうか。

それは、あなたが決めればいいことです。

ただし、「信じない」と言っている人の9割9分は、因果の道理を誤解しているので、それでは「信じない」と言っても意味ないことだから、少しでもその誤解が解けるよう、ここに書き続けているのです。(つづく)



科学と思い込みは違うのか?

2009-11-10 19:06:36 | Weblog
こういう非難があります。

因果の道理を宇宙の真理だとか言うけど、そう考えればつじつまが合うってだけの話で、科学的に立証したわけでも何でもなかろう。そもそも反証しようもない理論なんだから、少しも科学的とは言えない。「真理」と言ったって「ただの思い込み」だよ。そんなもん信じたい奴だけが信じていればいいのさ。

こんな言葉遣いをするかどうかは別として、言わんとしているのはこういうことのようです。


こういう意見は、素朴に「科学=真理」と信じている人たちには、説得力を持つのかもしれませんが、科学の現場においては、実はもうかなり古めかしい主張になっています。


あるサイトには、

 反証される可能性がある状態で行われるテストに耐えてはじめて、一つの理論が事実によって裏付けられたと言えるのです。その点、因果の道理はそういう科学の方法で裏付けられないから、ただの思い込みにすぎないことになります。

というようなことが書かれていました。

「反証」とは簡単に言えば、ある理論に対して、観察や実験を行い、それが間違っている証拠を突きつけることです。この人に主張によれば、「反証される可能性がある状態で行われるテストに耐えてはじめて」科学的真理のお墨付きが得られるということです。これはカール・ポパーという科学者の説に基づいて言っているのだと思います。

このサイトの主によれば、反証される可能性のないものは、例えば、「神が存在する」というような主張は、実験による証明も、反証もしようがありません。こういう科学的な裏づけの取りようのないものは、ただの思い込みとみなそう。こういうことなのです。
反証される可能性があるかどうかが、科学的な主張か、ただの思い込みか、を峻別する確実な物差しということです。


このサイトが書かれた時代?は、これで結構、通用したのかもしれせんが、科学理論というのは、次から次と変わっていきます。

科学をして真理たらしめてきた大前提、すなわち「客観的存在」とか「論理的思考」というもの自体に疑惑の目が向けられているのが昨今の哲学や科学の状況であります。(これについてはあとで詳述します)
つまり、客観的存在、論理的思考というもの自体が、「ただの思い込み」の所産。そう看破されて以来、観察や実験によって成り立つ一切の科学理論が、思い込みの上に成立した不確かなもの、という事態に陥ってしまったのです。

ということは、先述のサイトの人の言葉でいえば、「事実によって裏付けられたと言えるのです」という部分が、今やほとんど意味をなさなくなってしまったのです。              

どんな権威あると思われてきた科学理論も、「ただのの思い込み」の上に成り立っていることが暴露されたわけですから、もはや「ただの思い込み」という言葉自体が不要になったともいえます。

なぜなら「ただの思い込み」の対極にあるはずの、「一切の思い込みを排除した科学理論」なるものが消滅してしまったのですから。

これからは、「ただの思い込み」などという言葉は使わず、普通に「信ずる」と言えばいいのです。

科学も、因果の道理も「信ずる」ものなのです。「信ずる」という点において、科学者と仏法者の間に、明確な違いはありません。

因果の道理は信ずるものです。そして信ずべきものなのです。

(つづく)




因果の道理は思い込みと立証しました?

2009-11-09 17:07:25 | Weblog
以前、書いたことですが、間違いやすいところなので、もう一度、書きます。


◆釈尊はじめ十方諸仏が、廃悪修善を説かれたのは、

 因果の道理が宇宙の真理であるから、ではなく、

 弥陀の十九の願意を開顕し、十八願に相応させる

 ためであったのである。



仏教の根幹たる因果の道理を、宇宙の真理とは全然思っていない人には、上記のことよりもまず、因果の道理をとことん、納得するまで話すことが必要だと思います。

しかし、因果の道理を一応、真理として認め、その結論が廃悪修善となることを理解はしても、そんなことを説いていると、仏法の救いから遠ざかると思っている人があります。そんな人には、上記のことをよく理解してもらわねばならないと思います。

でも一度に、あれもこれも話せないので、まず、前者のような人に的を絞って、まだまだ、粛々と因果の道理について書いていくつもりです。


なぜ、因果の道理を真理と受け入れられないのか?
それにも必ず理由があるはずです。

まず、因果の道理とは異なる見解が、その人の心にしっかり根を下ろしているという事実を見定めねばなりません。そのうえで、その因果の道理をはねつける見解がどんなもので、それが信ずべきものかどうかを吟味してみる、そういう手順で話をしていきたいと思います。


ある人は、「科学の手法によって、因果の道理を真理と呼ぶのはただの思い込みであると立証しました」と言っていました。
この人の場合、科学や合理性というものが「真理」に置き換わっているのでしょう。
だとすれば、科学的で、合理的なものこそ「真理」と呼ぶに値するという見解自体が、実は「ただの思い込み」であることに気づいていただけば、それでいいのだと思います。

そういうことは、私がここで新たに論陣を張らずとも、すでに多くの科学者、哲学者が気づいて種々に指摘していることなので、それらを紹介すれば済むことなのだと思います。

それについては明日以降に譲ります。(つづく)





善を勧めないということは悪を勧めているのか

2009-11-08 23:19:14 | Weblog
善を勧めてはいけないという主張が、浄土真宗の人たちの中にあります。
それで本当に浄土真宗と言えるかどうかは別として、事実としてそういう人たちがいるということです。

それでは、悪を勧めるのですか?と聞き返すと、
そんなことは言っていない。すべてにおいて善の勧めを否定しているわけではない、世間法(道徳倫理)上、善を勧めるのは当然のことだ、
というようなことを言ってくるようです。

仏法は、道徳や倫理と目的とするところが違います。当然、ここは仏法上の話です。
「道徳倫理上、善は勧めるが、仏法上、善を勧めてはならない。なぜならば救いから遠ざかるから」。
こういう主張だとするならば、果たしてそれは本当に仏法と言えるのかどうか?


もう一つ言うと、この人たちは、
「私たちは善は勧めないが、決して悪を勧めているわけではない」
と考えているようですが、それは通らぬ話です。

もちろんこの人たちが、人殺しや窃盗などの悪を勧めているなどとは思いません。
ただ、【善を勧めない】ということ自体、これは悪なのです。
人殺しや窃盗のような悪とは違うものの、善を妨げる行為は悪になります。

これを極端な言いがかりのように思う人もあるかもしれませんが、落ち着いて考えれば、そういう結論になるのではないでしょうか。

例えば、被災地に救援物質を届けることが【善】だとすると、それを妨げたり、遅らせたりするのは【悪】だと誰しも思うでしょう。

理屈は同じです。
善を勧めている人を「間違っている」と非難するならば、それは「【善を勧めない】ことを勧めている」ということになります。それはつまり「善を妨げ、滞らせる【悪】を勧めている」ことにならないでしょうか。


そもそも「善を勧めてはいけない」という言葉自体、たいへん奇妙な日本語なのです。
勧めてはいけないようなものを、なぜ善と呼ぶのか?
勧めてはいけないものなら、それは悪ではないのか?
これが一般的な言語感覚ではないでしょうか。

それを仏法の教えとして堂々と主張されるということは、仏教で善と教えられているものは、実は救いから遠ざける悪なのだ、という解釈なのかもしれません。

もしそうだとするならば、こういうことになります。

仏法で勧められている【善】、たとえば布施(親切)や忍辱(忍耐)や精進(努力)などは、道徳倫理上、勧めるのはいいが、仏法上、本当は勧めてはならない(なぜなら救いから遠ざかってしまう)。仏法上【善】と教えられているものは、実は決して勧めてはならない悪だから、「【善】は勧めてはならない」というのが真実の仏法なのだ。

なんというややこしい主張なのでしょう。

海に入って、まだ足のつく腰の辺りまでしか水につかっていない者が、オレは海を知ったのだと言っているようなもので、自分の体験と一知半解の教学で仏法を思い思いに語ってきた結果が、こういう教義の大混乱を招いたように思います。

五百年前、やはり大混乱していた浄土真宗の教義を正しく統一し、真宗再興を成し遂げられた蓮如上人の時代、教えは人から人へ爆発的な勢いで伝わり、次々と大きな寺院が建立されていきましたが、そういう歴史的事実は、「真宗に善の勧めなどない」という教えから出てきたものなのか。昨日も書きましたように、仏敵信長の蹂躙に身を捨てて抵抗し、「抜き難し南無六字の城」と、儒教の学者をして感嘆せしめた真宗門徒の熱情は、善など勧めるものではないという人たちの間から生まれ来るものなのでしょうか。
考えれば誰でも分かることだと思います。


つまるところ、善の勧めに対して非難があるのは、
善の勧めを、「善をすればそのうち助かる」ということだと誤解したところから出てきたものと思われます。


善が勧められているのは、そういう理由からではありません。





素朴な疑問

2009-11-06 21:24:18 | Weblog
善をすれば助かると言えば、「捨自帰他(自力を捨てて他力に帰せよ)」の親鸞聖人の教えに反しますので、それは非難されて当然です。ところが、善をすれば助かるとは一言も言っていないのに、善を勧めること自体、今日の浄土真宗においては「間違いだ」と言われ、弾劾されてしまいます。

いや、善は勧めてもいいが、それは世間法(道徳や倫理)上のことであって、非難するのはあくまで仏法上のことだ、こういうふうに考えているようです。

その是非はともかく、まず、浄土真宗がこういう現状であるということです。

「それはおかしいのではないか?」と思うのですが、そのおかしさを明らかにするのは簡単ではないのです。
普通に考えれば、善を勧めて非難されるような宗教など異様なのですが、なぜか今日の浄土真宗内では、そういう異様な主張が「正しい見解」として堂々とまかり通るのです。これでは真宗に元気がなくなり、衰滅していくのも道理ではないでしょうか。

それはそれとして、なぜこうなるのか。

善の勧めを非難する人は、因果の道理を真理とは信じていないように思われます。
多分、ここがシャツのボタンの掛け違い。ここの狂いが全体を狂わせていると思うのです。つまり因果の道理を根幹とする仏教の全体像というか、大きな山を見誤っています。

いや、中には因果の道理は真理だと信じている、と言われる方もあるかもしれません。しかし、そのうえで善の勧めを非難しているとするなら、因果の道理は、一体、何のために説かれたのでしょう?聞いてみたくなります。

釈尊一代の教えを一言で言い表したのが、以下の言葉といわれます。

諸悪莫作(もろもろの悪を為すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善を行い奉れ)
自浄其意(自らその心を浄めて)
是諸仏教(これが諸仏の教えである)

これは善因善果 悪因悪果 自因自果の因果の道理から導かれる、当然の結論でしょう。

これを「説いてはいけない」とか、「救いとは関係ない、あくまで世間法でのことに限る」というのであれば、釈尊45年間の教説は何だったのかということになります。仏法の救いとは関係のない、世間法(道徳や倫理)の教えを釈尊は延々と説き続けられたということでしょうか。

また、上記の言葉に、「自浄其意(自らその心を浄めて)」とあります。上辺ばかり善人ではだめですよ、心から光に向かって(賢善精進の相)醜悪であってはなりませんよ、との戒めは、世間法に必要でしょうか?外側だけでもきちんとしていれば、内心どんなことを思おうといいではないですか。誰に迷惑のかかるわけでもなし。問題にする必要もないですし、また問題にもできません。

釈尊が45年間のほとんど、因果の道理を明らかになされ、廃悪修善を説かれ、身口意の三業が善に向かうよう勧められ、その中でも特に心を重視せられたのには、深い理由があったはずです。
なのにそれを、世間法として説かれたのだ、とか、救いから遠ざけることをあえて説かれた、とか、そういうことは普通、考えにくいのではありませんか。

そもそも親鸞聖人が、釈尊に向かって「善など勧めるものではない。救いから遠ざかる」と、苦言を呈することなど考えられるでしょうか?これを縁に、よくよく振り返っていただきたいと思います。

(つづく)




おろそかにしていいはずはない

2009-11-05 20:18:47 | Weblog
これまで述べてきたように、因果の道理は仏教の根幹をなす教えです。

その因果の道理が真理とはいえない、とか、そんなことを教えていたら救いから遠ざかる、などと言っていては、本来、仏法にならないのです。

真理とはいえないと言う人には、真理だと納得するまでよく聞いていただきたいです。何度も聞いたことだから、これ以上聞く気はない、と言われるのなら、では人間の運命は何によって決まるのか、釈尊に代わって本当のところを教えていただきたいと思います。

また、そんなことを説いていたら救いから遠ざかる、というのなら、そんな救いから遠ざけるようなことを、なぜ釈尊は45年間の大半を使って説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。

また、昨日、書かせていただきました中国の善導大師には、
「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
<外から見える言葉遣いや行為だけでなく、内(心)も光に向かって(賢善精進の相)醜悪であってはならない>という有名なお言葉もあります。

善導大師はここで、内と外の不一致を戒められ、身口意の三業が善に向かうよう勧められているのです。

これら善の勧めは、道徳倫理上の意味合いで言われているのではないのは明らかでしょう。
以前書きましたように、道徳倫理では、その目的からいって、外に賢善精進の相を現じておればいいので、内と外の不一致までは問題にしないのです。

だとすれば善導大師のこのお勧めは、当然、仏法の教えそのものでありましょう。
それを「そんなこと教えても救いから遠ざけるだけだ」といわれる人は、それでは善導大師が悪いことになってしまいますから、文句があるなら善導大師に言っていただきたいと思います。

しかし親鸞学徒なら、

善導大師と同心され、私たちに向かって「ともに同心に」と呼びかけてくださっている親鸞聖人が、それには「ただこの高僧の説を信ずべし」とおっしゃる高僧・善導大師の教えなのですから、おろそかにしていいはずはないのですが……。


以前書きました、内観法のような手法で出会える「本当の私」、またそこで得られる自己解放のような喜び、そういう境地に到達するのが目的なら、善の勧めはいらないのかもしれません。どこかに閉じこもって一人悶々とやっておられたらいいのだと思います。でもそういう方法で出会える「本当の私」とは、人それぞれのもので、仏教でいわれる真実の自己とは異なります。救われたと言っても、永遠の生命の救いとは、次元が違うのです。


迷いやすいところだから、用心しなければなりません。

自身は現に

2009-11-04 19:01:23 | Weblog
お釈迦さまは、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
とありますように、過去世、現在世、未来世の三世を貫く永遠の生命を明らかにされました。その永遠の生命のうえに、因果の道理は説かれているので、これを三世因果の道理といわれます。そこが仏教の大きな特色です。

さらに、
「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」(因果経)
と説かれ、過去の自己、未来の自己を知りたければ、現在の自己を徹見せよ、現在の自己が明らかになれば、すべて明らかになると教えられています。

中国の善導大師という方は、この釈尊の教説通り、現在の自己を徹見せられ、
「自身は現に是、罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」
とおっしゃっています。

「自身は現に」とありますから、ここは現在の自己をおっしゃられたものでしょう。
それは「罪悪生死の凡夫(罪や悪のかたまりの人間)」と徹見せられています。
そして「昿劫よりこのかた(果てしない過去から今まで)」の自己を、「常に没し常に流転(絶えず迷い苦しみ続けている)」と言われ、
これから先(未来)の自己も、「出離の縁(助かる縁)有ること無し」と断定しておられます。

なぜ、そんな遠い過去や未来の自己がハッキリ分かられたのかといえば、それは釈尊の教説通りです。三世因果の道理を深信せられた故のお言葉でしょう。

この善導大師のお言葉は、親鸞聖人も『教行信証』に引用せられていますから、聖人もまた同じ心であられたことになります。

仏教でいわれる真実の自己とは、こういう自己のことです。
内観などで出会える「本当の自分」とは、人それぞれのもので、仏教で明らかにされている自己とは違うのです。

とはいえ、言葉で表されたものは、いろいろに解釈されます。
こんな決定的な善導大師のお言葉でさえも、それぞれの知恵、才覚、経験、学問のレベルで、それぞれに解釈されていきます。すでに同心?あるいは簡単に同心できると思っている方が少なくないのに驚かされます。
それが本当に同心といえるのか、いえないのか、心のことなので第三者には確めようもありません。

だからこそ、親鸞聖人が『正信偈』の最後に、
「道俗時衆共同心」(すべての人よ、この親鸞と同じ心になってほしい)と呼びかけられたあと、
「唯可信斯高僧説」(ただこの高僧の教えを信じなさい)とおっしゃっているように、道を誤らぬよう、善導大師を含む高僧方の真実の教えをよく聞き、従わせていただくことが大事であると、お勧めになっているのです。

では、善導大師はどのようなことを教えられたか。
因果の道理など真理ではないとか、因果の道理など説くものではないとか、そういうことは教えられなかったはずです。
(つづく)

紛らわしい?本当の自分

2009-11-03 20:00:30 | Weblog
内観という精神修養の道場があります。これは一種の自己反省法であり、そこでも「本当の自分に出会える」とうたわれています。
そこでは、内観道場に籠もり、1週間ほど集中的に自己を見つめさせられるのだそうです。

すると、外ばかり向いていた目が内に向き、他人を恨んだり妬んだり、他人の評価ばかり気にしていた自分が、やっと自己を客観視できるようになる。それまで感情に支配されて見えなかったものが見えるようになり、新しい自己を発見をする。そうすると、それまでのわだかまりが解消し、自分自身を受け入れられてコンプレックスからも解放される。こうしてしばしば劇的な人生観の転換を起こすこともある、ということです。

内観には宗教色は無く、一つの心理療法として確立し、精神的な疾患を好転させるのに一定の効果をあげているようですから、内観自体をあれこれいうつもりはありません。

ただ、申し上げておきたいのは、仏教で知らされる真実の自己とは、内観することで出会えるという「本当の自分」とは、全く次元を異にするものだということです。

さらに言えば、この内観とは、浄土真宗で異安心といわれるグループの「身調べ」から発生したものといわれます。詳細はここには書きませんが、随分、危険な香りのする話ではありませんか。


お釈迦さまは、因果の道理を明らかにされました。そして、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
とあるように、過去世、現在世、未来世の三世を貫く永遠の生命を説いておられます。
さらに、
「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」(因果経)
と説かれ、過去の自己、未来の自己を知りたければ、現在の自己を徹見せよ、と教えられています。

では現在の自己とはいかなるものか?

そこでお釈迦さまが勧められていることこそ重要ではありませんか。
少なくともそれは内観のようなものではありません。

因果の道理から導かれる当然の結論が、廃悪修善(悪をやめ、善を修めよ)です。
廃悪修善といいましても、道徳倫理でいわれるところの廃悪修善とは異なります。
道徳倫理では、体や口の行いこそが重要で、心は無罪放免、問題とはされません。しかし仏教で説かれる廃悪修善は、反対に心こそが重要で、問題とされることは2、3日前、ここにも書きました。

さて、

未来の自己を知りたければ、現在の自己を徹見せよ、と説かれたのも釈尊。
成道されて45年間、そのほとんど廃悪修善を説き続けられたのも釈尊です。

後生(死後)は万人の100パーセント確実な未来です。自分のこれから行く先ではありませんか。
その後生が一大事なのか、それとも一大事ではないのか、これほどの大問題、ハッキリさせるのに廃悪修善を説くのは間違っているのでしょうか。
間違っていると言うのなら、それは釈尊の間違いでしょう。
また、もっと近道があると言うのなら、その人は釈尊以上の先生なのだと思われます。

廃悪修善を説く以外に、どうやって自惚れ強い私たちに、自己の姿を知らしむことができるのでしょう?
自己を知らずして、どうして我が身の後生の一大事が問題となるでしょう?

親鸞聖人のみ教えを一言で言えば、捨自帰他(自力を捨てて他力に帰せよ)です。
でも、後生の一大事が問題にもなっていない人には、自力も他力も、問題となりようもないのではありませんか。
だからここで、粛々と因果の道理を書き続けているのです。

さて、真実の自己を知らされたように言いながら、廃悪修善を説くことを非難している人たちは、おそらく、内観で知らされるような自己と、真実の自己とを混濁しているのだと思われます。
(つづく)

押し込められた思い

2009-11-02 19:55:02 | Weblog
■男心は哀しい

 彼は、サラリーマンである。
 ひそかに彼が見くだしていたBが、人事異動で、同期から、初めて課長に昇進した。
 彼は、ショックを受けた。
 だが彼は、Bにかけよって、
「おい、おめでとう。よかった、よかった」
と、肩をたたいて握手を求めた。
 負けたくやしさを、無理にがまんして、まったく平気なように演技する。
 さらに、おきざられ組は、当然のように集まってBの祝賀会を催す。
 お互いに、ヤセがまんしたことを、他人に知られたくないという思いは同じである。
 屈辱を自覚するのが怖いのだ。ある線まででくいとめたい。男心は哀しいではないか。

(『光に向かって100の花束』ヤセがまんではすまなくなる)

■自分自身が分からなくなる

人間だれしも、職場や家庭、その他いろいろな場面で、他人の目を意識し、自分の思いにウソをついて演技をしています。その演技が積もり積もってくると、自分自身でも、自分の本当の思いがどこら辺にあるのか分からなくなってしまうことがあります。
強迫観念的に「あるべき自分」に縛られて、「ありたい自分」を押し殺していると、いくら一生懸命やっていても自分の人生を生きているという実感が沸かず、充実感もなくなり、だんだん無気力になっていきます。こういう人は、表面的には無気力で大人しくしていますが、内面には恐るべき怒りのパワーを日々鬱積しており、それが臨界点に達すると突如爆発し、自分を縛り、押し込めてきたと思われる一切(本人がそう思いこんでいる場合が多いのですが)に、人が変わったように反逆の刃を向けることがあります。
要するに、キレる、ということです。

■怒りは無謀に始まり、後悔に終わるものだ

一旦、怒りを爆発させてしまった人をたしなめることは難しいです。
だれしも経験あることですが、怒りにまかせて言ったこと、やったことで、あとになって「あの時、ああ言ってよかった、あのようにしてよかった」と思えることがあったでしょうか?

恐らくないでしょう。大概は後悔です。

怒り狂っている時は、自分こそが正義で、間違っているのはアイツだとしか思えないものです。だからその時は、今の己を貫ければ、あとはどうなっても構わない!とさえ思えるのでが、怒りが収まれば、焼け野原にぽつねんと立つ自己を発見するのみです。

でも覆水盆に帰らず。一旦、口から出てしまったことは、もう元には戻せませんから、言ってしまった手前、引くに引けず、とことん行き着くべき所まで行ってしまうものです。それが恐いです。


■ではどうすれば?

まずは怒りをためないことでしょう。
そのためには、押し殺している自分の思いに、まず自分自身がよく耳を澄ますことだと思います。だれかがそれを受けとめないと、行き場を失ったその心は、いびつな形で爆発する可能性があるからです。

どんな思いであろうと、それが自分の正直な思いならば、頭ごなしに否定したり、押し殺さずに、まずは自分自身がそれをしっかり受け止めてやる。その上で、その思いは因果の道理に照らしてどうだろうか?と自問してみるべきではないでしょうか。どう自問するか、それは今までここに書いてきた通りです。
そういう中で、自身の愚かさを知らされ、怒りや不満も収まり、因果の道理にかなった道筋が自ずと見えてくると思うのです。

因果の道理が納得できないなら、まずは納得できるまで聞かれることです。
納得できないという人は、必ず誤解があるのです。だからまずその誤解を解く。それはとても大切なことです。
因果の道理など真理とは言えないと公言する人には、分かってほしかったです。自分の愚かさに気づくこともなければ、この先、ことあるごとに爆発し、ブレーキの壊れた弾丸列車のように、行き着くところまで行ってしまうのですから。

次回は、押し殺している自分の思いに気づかせ、それを解放することを目的とし、それがあたかも仏教の救いであるかのように言う人たちがありますので、それについて触れたいと思います。
仏教の真の救いとはそんなものではありませんし、真実の自己とはそういうものでもないのです。(つづく)

因果の道理を説くと、救いから遠ざかる??(2)

2009-11-01 18:06:21 | Weblog
昨日からの続きです。
まだ昨日のブログを未読の方は、そちらを読んでから御覧下さい。


昔、中国に、何時も樹上で坐禅瞑想していた鳥彙(うか)禅師という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天がその樹の下を通り、一つ冷やかしてやろうと思った。
「そこの坊さんよ、そんな高い木の上で目をつむっていては、危ないではないか」
 鳥彙禅師すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
 この坊主、相当偉い奴かも知れぬと見てとった白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」
と訊くと、
「私は鳥彙という名もなき坊主だ」
 これが有名な鳥彙禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いい処で貴僧に会った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」
と頭を下げた。

鳥彙禅師は即座に、

諸悪莫作(もろもろの悪を為すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善を行い奉れ)
自浄其意(自らその心を浄めて)
是諸仏教(これが諸仏の教えである)

と答えた。

 白楽天、いささか呆れ顔で、
「そんなこと位なら、三歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥彙すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。


「仏教とは一言で言えばどんな教えか?」という白楽天の問いに対する鳥彙禅師の答えが、
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
この話からも分かりますように、釈尊45年間の教えの99パーセントは廃悪修善なのです。

もし、仏法の救いと善の勧め(廃悪修善)が無関係、あるいは反って遠ざけるものだとするならば、なぜ釈尊は45年間の大半かけて、このことを説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。

さらに鳥彙禅師は
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と言っています。
これは、理屈は子供でも納得できる単純明快なことでも、その通り実行が難しい。悪を止めようとしても止められず、善を行おうとしても行えないということでしょう。

なぜそういうことになるのか?

それは私たちの本性が、悪性だからではありませんか。
根っからの悪性の者に、廃悪修善を説いて、簡単に実行できる道理もありません。
「八十の翁も行うこと難し」とは、そのことを意味しているのでしょう。

廃悪修善は、道徳倫理でも説くことかもしれませんが、昨日書きましたように、道徳倫理で勧められる善は、専ら身業と口業に限られるのに対し、仏教では心(意業)を最も重んじます。
鳥彙禅師も、「自浄其意(自らその心を浄めて)」と言っているではありませんか。

だから、仏教における廃悪修善の教え導きがあってこそ、はじめて己の心に目が向くのではありませんか。
このほかに、己の心に目を向けさせるどんな方法があるというのでしょう。

だれしも自惚れ強くできているので、己をそんな悪性の者とは思ってはおりません。口では「悪性の者です」などと殊勝そうに言ってはいても、心の中では全然……。そんな横着なしたたか者に、己の真価を知らせるのに、因果の道理を明らかにし、廃悪修善を説く以上の方法があるのでしょうか?
他にないから、釈尊は45年間、説き続けられたのではなかったでしょうか。

もしこれ以上の方法があると言うなら、きっとその人は釈尊以上の先生なのでしょう。そういうのは〃珍しき法門〃だと思われます。

因果の道理をいくら説いて聞かせても、ほとんどが白楽天のように、「廃悪修善?もう分かった、分かった、それよりもっと大事な話があるだろう」という聞き方をするのです。

そんな不遜な心で、己の真実が知らされたり、仏意を正しく理解できるものなら苦労はありません。(つづく)