静かな劇場 

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直感的に言っても、死後を否定できないのでは?

2009-11-16 20:14:43 | Weblog
仏教で、死んだあとを「後生」といいます。

因果の道理など真理ではないと公言する人は、「後生なんてどうでもいい、くだらない」とさえ言っているようです。その人が思うとおり、因果の道理が真理ではないのなら、確かに「後生なんてどうでもいい」ことかもしれません。
しかし、因果の道理が真理であれば、後生は決して「どうでもいい」ことではないのです。


さて、

多くの人は「後生」について、全くの無頓着に生きております。でも何かの拍子に、心の中をフッとよぎる瞬間があります。

たとえば、それは親しい人が亡くなった時です。

死ねばすべてが終わり。永遠の「無」。だから後生など考えたところで仕方がない。普段からそう考え、「理」の上で、死後の無を十分納得しているつもりの人でも、いざ親しい人を亡くしてみると、「冥福を祈ります」という言葉が、つい口をついて出てきます。

さて、この「冥福を祈る」とはどういう意味でしょう。

冥福とは「冥土」の「幸福」ということで、冥土とは死後の世界のことです。

つまり、平生、いくら死後をナンセンスだと否定している人でも、いざ親しい人に死なれてみると、平生の信条はどこへやらで、亡くなった人の、「冥土(死後)の幸せ」をしっかり祈ってしまうのです。

心というものは複雑で、理性では死後を否定し、迷信として片付けようとするのですが、私達の心の奥には、死後の世界を否定しきれないものがあるのです。死後の存在を、心のどこかでは受け入れているのです。

その心が、親しい人の死に接した時、「冥福を祈ります」と言わせているのです。そういう心情になっているからこそ言うのであり、心に全然ないことは、普通、言わないものです。

それは儀礼的に、習慣として言っているだけだ、と言い張る人もありますが、「冥福を祈る」時の語りぶりは、だれしも一片の儀礼や習慣ではすまされない、神妙なものがあります。

心底から死後を納得していないなら、あんな大真面目な顔で「冥福」を祈ったりできるものではありません。

たとえば、アフリカの未開の村に行ったところ、雨乞いの踊りをやっていたとします。確かにここは雨がほしい局面でも、だからといって現代人が未開の人と一緒になって雨乞いの踊りをするものでしょうか。

踊ったところで100パーセント雨降りとは関係ない、と完全に納得している現代人にとって、雨乞い踊りなど阿呆らしくてできるものではありません。それでもやらねばならないとなったら、かなり恥ずかしい思いでやると思います。

同様に、死後などないと100パーセント納得しているなら、神妙に冥福を祈るはずもないし、慰霊祭など馬鹿馬鹿しくて参加しないでしょう。

つまり

★私たちは、心のどこかで後生の存在を受け入れています。


次に、死んだ人に対して幸福を祈ったり、慰霊祭つまり死者の霊を慰める、という意味について考えてみます。

私たちはどんな時、他人を慰めたり、幸せを願うものでしょうか?
それは不幸な状況に置かれている人を見た時だと思います。

たとえば、災害で家族を亡くした子供を見れば、慰めもし、幸せになってほしいとも思うでしょう。

でも、年収が1億、六本木ヒルズに住み、外車を何台も乗り回し、いつも美女に囲まれて、という人を慰めようとか、幸福になってほしいなどと思うでしょうか?
そういう気にはなれないと思います。

ということは、私たちは死者に対して、共通したある感情を抱いていることにはならないでしょうか。

つまり死んだ人は、何か苦しい状況に置かれているのではないか?慰めなければならないほど、辛い目にあっているのではないか?という感情です。

だから慰霊祭などが成立するのであり、そこに集まって皆で死者の冥福を祈るのです。

★私たちは、死者が何か苦しい状況にあるような気がしている。


ここまでは、他人の死に向き合った時の、私たちが抱く感情でした。

問題は、自分の死と向き合った時です。
親しい人が死んだ時も、無になったと思えず、しかもどこかで苦しんでいるような気もする。

だとするならば、

★その心は、そのまま自分の死に直面した時にも出てきます。

つまり平生、死後はないという信念を持っていようと、いよいよ自分の番がくると、死んで無になると、信じきれないものがあるのです。 「後生なんてどうでもいい、くだらない」と言っている人でもそれは例外ではありません。

もし、死ねば無になるということがハッキリしているのなら、それはそれで心の持ちようもあり、受け入れることも可能と思います。大半の人は、そう信じて自己の死を受け入れようとしているのだと思われます。

しかしそれは「死ねばすべて終わる、無になる」ということを前提とした信念であり、受容であります。

ところが、上記のごとく、その前提が、いよいよ臨終には揺らぐのです。肉体の死後どうなるか?どこか暗いところへ、たった一人出かけねばならないのではなかろうか?それはどこなのか?何も分からない。分からないけれど、後生へと運ばれていく。その不安、恐ろしさ、不気味さは計り知れず、どんな科学的知識をもってしても、

「死んだらどうなるのか?」

これが押さえようのない衝動となって心を占有していきます。


それまで「きっと意味がある」「これこそリアル」と信じてやってきた、もろもろの世間事が、ことごとく自分にとっての意味を失い、世界から現実感が消えていき、バラバラのモザイクを眺めているよう感じになっていきます。
そして今から往く「後生」こそが、本当の意味でリアルな、人生最大事であることに気づきます。

でも、それでは遅いのです。
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