説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

からし種の信仰を用いる

2013-08-31 18:21:33 | 説教要旨
2013年7月28日 説教要旨 イザヤ書55章8~11節、マタイの福音書8章23~27節
(イザヤ書55:8~11)神のことばは必ず成就します。力があり、いのちがあり、すべての解決があるその神のことばに従う時、わざがあらわされます。信仰によって神のことばを受け取ることが終わりの時の重要なポイントです。
(第Ⅰヨハネ5:4)信仰を用いる時、世に勝ちます。用いないならば世に負ける状況となります。
(ヤコブ1:2)‘思い込む’のでなく本当に喜びであり祝福なので喜ぶのです。本当の祝福は困難や問題の中にあることを覚えましょう。信仰が勝利をとります。試練の中で喜ぶことをなしていきましょう。
(マタイ8:23~24)イエスと弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っていた時、漁師のペテロたちも対応できないほどの転覆するような嵐に遭いました。(25~27)弟子たちは慌てふためきイエスに助けを求めました。イエスは「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言い、風と湖をしかりつけ嵐を静められました。
この時イエスは「信仰が薄い」と言われました。つまり、信仰が濃くなるようにと言われたのでなく、小さくてもからし種の信仰があればと言われたのです。“からし種の信仰”とは、もっともい小さいのですが、「受けたと信じる」信仰です。告白し、問題に対しこの山は動くと語るのです。問題をノートに書き、これは神が解決すると書きましょう。それは信仰の対応となります。神のことばを受け、それを告白しましょう。漠然とした信仰では問題は動きません。はっきりと神の答えを見たいなら、神のことばを受けて、受けたと信じる信仰を用いなければならないのです。
これから召しと賜物の歩みとなっていく中で嵐がやって来ますが、どんな嵐も主が命じると一瞬で止むことを覚え、さらに信仰を用いて歩んでいきましょう。(文責・木本)


悪霊による病いからの解放

2013-08-30 18:17:49 | 説教要旨
2013年7月21日  説教要旨   マタイの福音書8章14~22節
(14~15)ひどい熱で苦しんでいたペテロのしゅうとめにイエスはふれられ、完全にいやされました。ルカの福音書では「熱をしかりつけられた」とありますので、おそらく悪霊による病だったと思われます。神のいやしのパターンの一つは、触られる、手を置くことです。もちろん神のことばだけでいやすことはお出来になりますが、多くのところで触られました。そして病はいやされ、問題の解決を見ました。現在においてイエス様にふれるのは信仰もって祈り、願うことです。その時神のわざがなされます。祈るか祈らないかで物事は大きく変わります。(16)悪霊につかれた者たちが大勢イエスのところに集まって来ました。イエスはみことばをもって悪霊を追い出されました。病気には一つは悪霊から来るものがあります。病に悪霊が介在している場合が多いのです。みことばに力があります。サタンの誘惑を退ける時もみことばです。(エペソ6:10~17)剣であるみことばによって敵は打ち倒されます。いじめや病、悪習慣など多くの問題の背後にサタンの介在があります。みことばを語りましょう。サタンは逃げ去ります。
(17)「すべての人がいやされた」とあります。それは神の子であること、神性をあらわすものでイザヤ書53章の成就でした。十字架は罪の赦しだけでなくいやしが含まれています。十字架は全人格的なものであることを覚えましょう。(18~20)イエスは上流社会の一員である律法学者に対して“勘違いしてはいけない。弟子になるには十字架を負う歩みとなる。”と語られました。(21~22)イエスの弟子が父の告別式をさせてくださいと言います。これは父から自由になったら、という意味もあります。従う条件が整ったら従うと言った人に、「わたしに従いなさい。」とイエスは言われました。神を第一とする時、十字架を負いますが、それは神の真の祝福の道です。私たちには神に従う力はありませんが、従いたいと思い、願い、「ついて行きたい」と祈る時、その力が与えられます。条件が整ったら従うのでなく、主にそのまま従う道が最善の道であることを覚えましょう。(文責・木本)


わたしの心だ。きよくなれ

2013-08-29 10:10:10 | 説教要旨
2013年7月14日  説教要旨   マタイの福音書8章1~13節
(1~2)ツァラアト(らい病)は今でも大変な病ですが、当時ユダヤ教では汚れた病とされており、人々から隔離されて町はずれに住み、人前では「汚れている」と言わなければならない社会的にもみじめで悲しい苦しい病でした。一人のツァラアトに冒された人が「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とイエスの前にひれ伏しました。彼はイエスの心次第で自分の病は直る、イエスだったらこの苦しみをわかってくださると信じていたのです。(3~4)らい病人を触るとその人も汚れた者となるので触ってはいけない、とされていましたがイエスはあえて直接彼に触れていかれ「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。そしてその瞬間に彼はいやされました。イエスだけは私たちの状況をすべて理解し解決してくださる方です。私たちの問題、困難、悲しみ、苦しみをただ傍観しているのでなく、この地上に来てくださり十字架にかかって私たちの罪のためにいのちを捨ててくださいました。また、沢山のらい病人の中でこの人だけが熱心に神に求め、そしてその求めに神は答えられました。私たちもあきらめず、しつこく神に求めていきましょう。また、神の恵みを受けた時には感謝の捧げ物をし、証をしていくことが主への応答となることを覚えましょう。(5~9)ある百人隊長が、しもべの病をいやして助けてほしいとイエスに懇願しました。ローマ軍という組織の中に生きていた百人隊長は「権威」というものを知っていたので、最高権威のイエスのことばにすべてのものが服従することを知っていました。(ローマ13:1~5)会社や学校、政治においての権威はすべて神によって与えられています。(もちろん国や会社から礼拝に行ってはならないなど、神を否定するように言われる時は従ってはなりません)百人隊長は地上にある権威はすべて神から来ていると知っていました。彼の信仰は日々の生活の中で培われていたのです。(マタイ8:10~13)イエスは百人隊長の信仰に驚かれ、「あなたの信じたとおりになるように。」と言われ、そしてその時にそのしもべはいやされました。らい病人はイエスの心一つでいやされると信じており、また百人隊長は神のことばが与えられたら直ると信じていました。二人に共通することは「信仰」でした。どのようにイエスを信じているかが重要です。聖書を読むことを通し、証を聞くことを通し神を知っていきます。疑いに立たず、主が語られたら必ずそのようになると信じ告白していきましょう。恐れをもっていると恐れの行動となり、信仰をもっていると信仰の行動となります。時代が終わりに向かっている中で、さらに神のことばを受けて歩んでいきましょう。(文責・木本)