2016年9月4日 説教要旨
ローマ人への手紙6章1~11節
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのだったら、罪の中に留まって何が悪いという間違った屁理屈に対し、パウロはバプテスマのことを挙げて説明し反論しています。バプテスマとは、水に浸すというギリシャ語の名詞形バプテスマに由来していて、キリストを信じる時に霊的に一つとされ、一体となり、古い自我の罪がキリストの十字架と死と共に滅ぼされて死んだこと、そしてキリストが死者に中からよみがえられたように、新しいいのちが与えられた自分がキリストと共によみがえったことを象徴する儀式です。つまり、キリストと一つになることによって、キリストの死と復活にあずかる、つまり、十字架に死んで復活されたように、古い自分に死んで、新しい歩みをすることを現わすことなのです。
パウロは私たちキリストを信じる者は神の前に一度死んだ者であり、キリストの新しいいのちが与えられているのだから、罪に留まるのはまったく愚かな考えであると言っているのです。私たちは罪の中に留まろうなどという屁理屈を言わなかったとしても、自分が死(霊的・実際的)んだ者であり、新しいいのちに生かされているものであることを自覚する必要があります。私たちの罪はキリストの十字架の贖いによって赦されており、この赦しは完全です。確かに肉体にあるうちはクリスチャンになっても罪を犯し続ける存在であり、日々、悔い改めをすることは重要です。しかし、もう根本的に立場が変わってしまっていることを捉え、キリストに信頼し、すべてのことを感謝し、主に従う信仰の歩みをしていきましょう。私たちは今、罪と死の支配から、義と御霊の支配に移されています。