説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

2016年9月4日 説教要旨 

2016-09-23 20:39:11 | 説教要旨
2016年9月4日 説教要旨 
ローマ人への手紙6章1~11節

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのだったら、罪の中に留まって何が悪いという間違った屁理屈に対し、パウロはバプテスマのことを挙げて説明し反論しています。バプテスマとは、水に浸すというギリシャ語の名詞形バプテスマに由来していて、キリストを信じる時に霊的に一つとされ、一体となり、古い自我の罪がキリストの十字架と死と共に滅ぼされて死んだこと、そしてキリストが死者に中からよみがえられたように、新しいいのちが与えられた自分がキリストと共によみがえったことを象徴する儀式です。つまり、キリストと一つになることによって、キリストの死と復活にあずかる、つまり、十字架に死んで復活されたように、古い自分に死んで、新しい歩みをすることを現わすことなのです。
パウロは私たちキリストを信じる者は神の前に一度死んだ者であり、キリストの新しいいのちが与えられているのだから、罪に留まるのはまったく愚かな考えであると言っているのです。私たちは罪の中に留まろうなどという屁理屈を言わなかったとしても、自分が死(霊的・実際的)んだ者であり、新しいいのちに生かされているものであることを自覚する必要があります。私たちの罪はキリストの十字架の贖いによって赦されており、この赦しは完全です。確かに肉体にあるうちはクリスチャンになっても罪を犯し続ける存在であり、日々、悔い改めをすることは重要です。しかし、もう根本的に立場が変わってしまっていることを捉え、キリストに信頼し、すべてのことを感謝し、主に従う信仰の歩みをしていきましょう。私たちは今、罪と死の支配から、義と御霊の支配に移されています。


2016年8月28日 説教要旨

2016-09-20 20:37:28 | 説教要旨
2016年8月28日 説教要旨 
ローマ人への手紙5章16~21節

「さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。」これはアダムによって全人類に罪が入り、その結果死が支配するようになったことです。また、イエス・キリストによって、多くの違反、つまりアダムから受け継いだ原罪だけでなく、私たち個々が犯す、過去・現在・未来の罪も含めて赦され義と認められるようになったのです。神は義なる方であり、罪に対してはさばかれます。しかし、同時に神は愛とあわれみの方であり、罪人の私たち、私たちのそのままを愛して下さり、キリストによる救いを与えて下さいました。十字架は神の義と愛が結ばれた出来事でした。キリストを信じた者は罪が赦されるだけでなく、義と認められます。義と認めるとは法律用語であり、全く罪が無い者という判決がくだったことなのです。ですから、私たちは信じてからも罪を犯しますが、立場はまったく変わってしまったということを覚えて下さい。
聖書は「アダムにある者」と「キリストにある者」という二つの立場を言っています。律法の下にいる者と、恵みの下にいる者です。生まれつきの私たちは罪人であり、律法を行えません。しかし、キリストを信じる者は罪を悔い改め、赦され、主の愛とあわれみによって赦しと祝福の中、恵みの中を歩む者とされました。神は私たちが自分の義に立つことではなく、罪を認め、神に信頼し、恵みの中を歩むことを願っておられます。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」エペソ2:4~7