説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

手伝いの者は知っていた

2012-10-30 16:16:32 | 説教要旨
2012年10月7日  説教要旨 ヨハネの福音書2章1~11節
公に宣教を開始されたイエスは、最初の奇蹟をこのカナの地で行われました。
(1~3)何日も婚礼が続く中で、ぶどう酒がなくなるということは、とても恥ずかしいことで普通すべてを用意して式を行うのですが、この時ぶどう酒がなくなるという問題が起きてしまいました。(4)「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」これはイエスが十字架に架かる時と対比して言っていることばであって、マリヤを無視しているのではありません。逆に「女の方」というのは尊敬を込めた呼び掛けでした。(5)母マリヤはイエスが何のことを言っているのか理解できませんでしたが、その問題が起こっている中で何か解決してくださるはずと、イエスに対する期待を持っていました。私たちも起こってくる問題の後ろに何か神の計画があると期待する必要があります。マリヤは「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言いました。私たちも主が言われることに従えますようにと日々祈っていきましょう。
(6~7)イエスは大きな水がめに水を満たしなさいと言われました。主のことばは真実で力があります。その主のことばに従う時、恵みが豊かにあらわされます。神のことばを大切にしていきましょう。(8~11)「今くみなさい」というイエスのことば通りに従い、水がめの水を汲んで世話役のところに持って行った時、水がぶどう酒に変わるという奇蹟が起こりました。手伝いの者たちは、その主の奇蹟を見ることができました。“今”と言われるその時に従う時、神のわざが起こります。水を汲んでいる時は何も変わりません。いつまで経っても状態は変わらないのです。しかし、そこで投げ出さず最後まで神に信頼し忍耐もって従うことをなしていく時、神の奇蹟を体験します。不可能なところから神の計画は始まっていきます。問題の中に素晴らしい恵みがあるのです。そして最善の時に神がわざをなされます。一人一人に神の時があります。その「時」はすでに決まっています。そのことを覚え、さらに神のことばに信頼し従っていきましょう。(文責・木本)


将来と希望を与えるためのもの

2012-10-29 20:24:29 | 説教要旨
2012年9月30日  説教要旨 エレミヤ書29章11節
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
神は私たちに計画をもってみちびいておられ、それは幸いのための計画です。
このとき、イスラエルはバビロンに捕囚され、最悪の状況でした。しかし、そのときすでに神は計画を立ててくださっていました。それは70年が満ちる時エルサレムに帰還できるという約束です。
① 神のことばは成就する。しかし、それには時がある。そしてそれは最善の時である。
神は捕囚されている民に家を建てて住み、結婚をして子孫を増やし、その地の祝福を求めよといわれました。今置かれているところで神に仕え、立てられている権威に仕えることを語られました。
② 置かれているところを感謝し、そこの祝福を求め、その立てられている権威に従うこと
神は私たちの群れ、教会、一人ひとりに計画をもって導いておられ、使命を与えておられます。私たちは神からのビジョンを受け取り、神の計画に従って行く必要があります。
③ ビジョンを受ける、使命に生きる時に真の人生の祝福を受ける。


罪を悔い改める

2012-10-29 20:20:55 | 説教要旨
2012年9月23日  説教要旨 ルカの福音書15章11~24節
罪は楽しい、そして罪を犯している時は罪の自覚がなくなり、麻痺していく 11~13、またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
罪には刈り取りがある。また、お金や神さま以外のものに信頼する時に失望させられる
14~16、何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
悔い改めとは罪を認め、方向転換すること。
17~19、しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
神はそのままの私たちを愛して下さっている。また、悔い改める時、罪を赦して下さる20、こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
悔い改めるときに神の与えてくださる恵みは私たちの思いを遥かに超える
21~24、息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。