説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

岩の上に家を建てる

2013-08-27 23:15:17 | 説教要旨
2013年7月7日  説教要旨  マタイの福音書7章24~29節
(24~25)ここはマタイ5~7章の山上の垂訓のまとめのところでとても重要です。そしてこの山上の垂訓で語られたことを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることがでる、とイエスは言われ、そして人生の歩みを家を建てることになぞらえて語られました。人生においては雨が降って洪水が押し寄せたり、風が吹きつけたりなど一重二重三重といろいろな問題が許されます。そしてこの問題、困難は神を信じ従う人にも従わない人にも同じように許されるのです。岩の上に家を建てた人は、洪水が押し寄せ風が吹きつけても倒れませんでした。ルカの福音書の方には‘地面を深く掘り下げ’とあります。地上の下には岩盤があり基礎がしっかりしているので倒れないのです。「岩」とはイエスのみことば、神のみこころ、イエスご自身です。そこに土台がある人は揺るぎません。
今は特別な時代です。ヨーロッパが一つとなり、大きな災害が頻発し、飢饉、疫病、経済問題など黙示録に書かれていることが成就してきています。‘堅い土台の上に家を建てる’ことは、この困難な時代においてとても重要です。(26)「砂」とは変わりやすい好み、頼りにならない人の判断、変わっていく良心…などで、これらのキリスト以外のものに土台を置くとき空しさを刈り取ります。健康、家族、人間関係、経済などを真に支えているのは神であることを覚えましょう。(27)“みな”とあるので、神のことばを行う人は100%守られ、行わない人は100%倒れます。困難な時代においてますますこのことは白黒はっきりとしてきます。砂の上でも、嵐の前は立っているのです。十字架を信じたら救われますが“信じたら岩の上に建てた”ということでなく、“信じたら岩の上に建てる権利をもらった”ということです。救われていてもノンクリスチャンと同じように歩むなら、砂の上に建てた人と同じです。揺るがない神のことばを信仰もって受け入れ、握り、従うことが大きなポイントです。語られたことがすぐに成就しない時は神に信頼する訓練の時であり、信仰の立て上げの時であることを覚えましょう。(28~29)イエス・キリストの権威は神から来る権威です。ペテロがイエスにことばを求め、そして「来なさい」と語られました。そのイエスのことばに従いペテロが踏み出した時、水の上を歩くという奇蹟を見ました。これからさらに不安と恐れの時代となって行く中で、家族や友人に対して私たちは神のことばを語る必要があります。その人は生かされ、救われてくるのです。
時代は大きく変わってきていることを覚え、イエス・キリストに土台を置き、主により頼み主の勝利を見ていきましょう。(文責・木本)




神の平安

2013-08-27 12:00:07 | 聖書の言葉
わたしは、あなたがたに平安を残します。
わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。

ヨハネの福音書 14:27




希望

2013-08-26 19:24:54 | 聖書の言葉
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
―主の御告げ―
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

エレミヤ書 29:11




狭い門

2013-08-26 12:30:30 | 説教要旨
2013年6月30日  説教要旨  マタイの福音書7章13~23節
(13~14)聖書で言う“狭い門”とは、裏口、裏門という意味で、うらぶれていて誰も通りたくない寂しい冴えない門のことです。反対に“広い門”とは、大きく華やかで誰もが通りたいと思う門であり、そしてそれは滅びに至る門です。これは世の門とキリストの門の対比として書かれていて、多くの人がその広い門、世の門から入って行くとイエスは語られました。世の門を選ぶと滅びです。つまりキリストを信じるか信じないかの選びなのです。キリストを信じたら人生がつまらなくなる、不自由になると思いますが、実は祝福の人生となりいのちに至る歩みとなります。「入りなさい」⇒「はっきりとした決断をもって入るべきこと」と主は強く語っておられます。それはいのちに至る門なのです。(ヨハネ10:7)
そしてクリスチャンになっても神のことばに従うか従わないかの選びがあります。信仰によって狭い門から入ると恵みの中に入れられ守られます。“わたしが門であり良い牧者である”と語られたイエスに従う時、人生は祝福されるのです。
(15~20)救われていなくて教会の中で活動している偽預言者がいます。実によって彼らを見分けなさいと神は語っておられます。良い行いをしているから良いというわけではありません。本当に実が結ばれているか、人々が救われているか、イエス・キリストに熱心になっているかを見る必要があります。
(21~23)イエスの名によって預言をしたり悪霊を追い出すなど、わざが起きてもそれが神からのものかどうかを見分け注意しなければなりません。神は私たちクリスチャンを愛しておられるので、この時偽預言者に言われたように「わたしはあなたがたを全然知らない」とは言われません。終わりの時代、クリスチャンだと偽って教会に入ってくる働き人がいるので見分ける必要があります(聖霊か人かサタンか)。
“狭い門”はいのちに至る門であることを覚えましょう。(文責・木本)