説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

2016年10月23日 説教箇所 

2016-10-30 08:44:59 | 説教要旨
2016年10月23日 説教箇所 
ローマ人への手紙8章18~27節

(18)天国に対する希望があるので、今の時のいろいろの苦しみは取るに足りないと言っています。神はわかっておられて試練や問題も許されます。天に目を向け、信仰の対応を取ることがポイントです。神は解決も用意しておられます。
(19~20)人間だけでなく被造物すべても天国を待ち望んでいます。人類に罪が入って来た時から、のろわれたもの(創世記3:17~19)となっているからです。(21~22)しかし、天国は神の支配のある世界で全く違います。イザヤ書にもそのことが記されています。(イザヤ11:6~9)
(23)キリストを信じた者はすでに神の子とされていますが、ここでは完全な者となることを言っています。天に帰る時に、罪に苦しんだり、誘惑されることもなく、完全な者となります。また、私たちは御霊の体が与えられます。年を取らない、強い、天で永遠に生きれる、壁を通り抜けられる、瞬間移動できる等、復活されたイエスさまと同じ機能の体が与えられていきますが、それを待ち望んでいるとパウロは言っています。
(24~25)目に見える望みは、望みではないのです。もし、まだ見ていないもの、天国や復活の体を待ち望んでいることが真の希望(のぞみ)です。私たちは必ず完全な者となるのですから、そのことを信仰告白していきましょう。
(26~27)御霊(聖霊)が弱い私たちを助けてくださいます。聖霊(ギリシャ語でパラクレートス)のことばの意味は、友として「そばに呼ばれた者」「弁護して下さる方」という意味です。実際的には異言で祈る時のことを言っています。信者の内に聖霊がおられますが、同時に「聖霊に満たされなさい」(エペソ書)と言っています。聖霊のバプテスマを受けていない方は是非求めることをお勧めします。また、与えられている方はさらに用いていきましょう。祈りは言葉の祈りが中心ですが、異言の祈りも重要です。神さまの助けと愛を深く体験します。

2016年10月2日 説教要旨 

2016-10-21 12:39:08 | 説教要旨
2016年10月2日 説教要旨 
ローマ人への手紙7章18~8章2節

「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」パウロは自分の中にある罪の存在とその力について述べています。人間の意志よりも強い力として自分の内に宿っている罪があるということです。私たちは自分の意志で律法を行うことはできません。律法は正しく良いものであり、神が与えた完全なおきてですが、私たちを救うことはできないのです。律法はまさに私たちをキリストに導く、養育係なのです。(ガラテヤ3:24)
ですから「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」私たちが自分の力で律法を行なおうとしたり、従おうとするとき、罪の原理が働き、罪の実を結んでいってしまいます。これは「原理」とあるように、法則なのです。ですから、クリスチャンになっても肉で行おうとすると罪の実を結んでしまいます。神は私たちが罪人であり、罪の力に勝てない者であるために、イエス・キリストを送ってくださいました。神は私たちに自分の意志や力で頑張れと言ってはおられません。御霊に従うことを求めているのです。ですから、信仰を用い、キリストの体である教会に繋がり、罪は悔い改め、すべてのことを感謝し、神に聞き従っていくとき、御霊の実を結び、律法を全うする者へと変えて行って下さるのです。私たちはかつて律法と結ばれて(結婚して)いましたが、今はキリストと結ばれています。ですから、いま私たちは恵みの下にいるのです。私たちの罪よりも神の愛の方が強いのです。また、わしたちの問題よりも神の愛の方が大きく、解決をすることができるのです。