説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

信仰が中心  神の前に悔い改める

2013-05-09 09:42:09 | 説教要旨
2013年4月21日  説教要旨 マタイの福音書3章1~17節
(1~4)ここはイエスが公に現れる前、バプテスマのヨハネが現れて悔い改めのバプテスマを説いたところです。そしてそれは400年前に預言者イザヤを通して語られた預言の成就でした。ヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と、時が変わったこと、イエスが来られる時が来て再臨が近づいたことを語りました。今世界で多発している地震やテロなどを見るとき終わりの時が近づいていることがわかります。「時」は重要です。今私たちも終わりの時代の使命があることを覚えていきましょう。神との関係の入口は“悔い改め”です。悔い改めとは後悔することでなく、心の向きを変えるということ、神に心を向けていくことです。「通られる道をまっすぐにせよ。」私たちは罪があるので人生の道が曲がってしまいますが、神は罪を赦し、救いを与え新しい人生を与え続けてくださいます。(5~6)ユダヤ全土から多くの人々がヨハネのところに来て自分の罪を告白し、バプテスマを受けました。今の洗礼のバプテスマでなく、それは悔い改めのバプテスマでした。
(7~10)パリサイ人やサドカイ人たちは、神の前に悔い改めるためにヨハネのところに来たのではありませんでした。アブラハムの子孫だと自負していた彼らにヨハネは「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と語りました。イエスの系図が聖書に出て来ますが、それは「血縁」でなく「信仰による」ということをあらわしています。(11~12)“イエスは聖霊のバプテスマを授けられる。これから聖霊による働きが起こる”、そして、“イエスが来られた時にイエスを信じるのか信じないのか、そのことをはっきりとしなくてはならなくなる、信じない時さばきがある”とヨハネは語りました。(13~15)罪のないイエスが来られバプテスマを受けられました。
イエスは100%神であり、100%人でした。私たちの身代わりとなって罰を受けるために、私たちと同じように肉体を持ち、同じように洗礼を受けられたのです。悲しみ、苦しみの人として低くなって歩んでくださったイエスは私たちの問題、苦しみ、悲しみすべてを知っておられます。(16~17)イエスがおられ、聖霊が鳩のように下られ、そして天から父なる神の声が聞こえました。こはとても重要なところで、三位一体の神のことがあらわされています。私たちはこのことを“理解する”というのでなく、“信じる”ことです。この三位一体を否定するのが異端です。そしてここからイエスの本格的宣教が始まりました。私たちも本格的な働きの前に低くされ整えられますが、それは新しい歩みが始まるポイントであることを覚え、歩んでいきましょう。(文責・木本)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿