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全権委任法成立後のナチス・ドイツ(第三帝国)の画一支配化

2024-06-27 23:42:11 | ナチス・ドイツ

 ナチス・ドイツは、1933年3月23日に全権委任法を成立させた後、ワイマール共和国をどのように改変解体し第三帝国を誕生させたのか?

 ドイツの都市や農村のいたるところで政治的熱狂の波と、ナチ党への転向が巻き起こり、新体制に抵抗するものはことごとく改変解体された。ナチ党の曰く「画一支配」をめざす「国民革命」を始めた。強制的に、また自発的に。真摯にドイツ民族としての自覚に目覚めた者や、単にバスに乗り遅れるなと慌てふためいた者、そして、これまで割を食っていた分を世間にお返ししてやろういうナチ党員や、分け前をできるだけ多く分捕ろうという新しい権力者たちがいた。

 政治の世界では、これまでの秩序を根本から覆すような地滑り現象が起きた。民主主義・ブルジョア政党支配下の各州政府は州議会内で与党が多数を占めていなかったので、ナチ党は、中央政府の権限による圧力と、ナチ党の宣伝技術を併せて攻撃した。例えば、警察の指揮権を党員に移譲させた。拒否するとナチ党員の警察官が押しかけ、警察庁舎にカギ十字旗を掲げ、SA指導者を中央政府により特別警察委員に任命し、中央政府に統合した。ナチ党の高官を統監(国会炎上大統領緊急令で各州で公共の安全が維持されない場合、各州の行政権を中央政府が代行するとの規定を根拠に、ヒトラー内閣が派遣した中央政府の代理者)とし、州の全権を奪った。

 SAが「画一支配」への推進役となった。テロの手口は多種多様であった。脅迫、恫喝、犯罪者扱いや誹謗中傷。私生活の領域にまで及び、新聞紙面を使い中傷キャンペーンも展開した。人身に虐待行為を加えたり、屈辱を与えたり、「保護拘束」と称する無法行為も罪悪感なく当然のように行った。こうして指導的地位にある人々に対しては、退職するか年金生活に入るかの道に追い込んだ。又、地方政治を取り仕切る臨時代行者を勝手に指名し、それまで指導的立場にあった人々に汚職容疑でっち上げて取り調べ、辞職へ追い込み、「粛正」「刷新」「整理事業」などと称した。ユダヤ人に対する不法行為を最初に計画したのもSAであった。「ユダヤ系」といわれるデパートのショーウインドウを破壊したり、ユダヤ商店をボイコットしたりした。また、開廷中の法廷に乱入し、ユダヤ人と見られる検事や弁護士を拘束し、SAの秘密収容所に連行した。また、ベルリンのオペラ広場で2万冊の書物を「非ドイツ的図書」として火の中に投じた(焚書)。

 又、証券取引所周辺をSAの部隊がデモ行進し、取引所の全役員の辞職を要求したり、「マルクス主義的」な消費協同組合の食品搬入を阻止する封鎖デモを行ったり、銀行の役員の一員にするよう要求し、受け入れなければ隊員の出動命令を出すと脅したり、国家の敵として人狩りを行い、「臨時強制収容所」と呼んだ倉庫や地下貯炭庫や地下室に連れ込み乱暴の限りを尽くした。一日中立ったままの姿勢で狭いロッカーの中に閉じ込め、自白を強要した。尋問は殴打で始まり殴打で終わった。SAが交替で鉄棒、硬質ゴム製の警棒、ムチで殴り続けた。

 ドイツ国民が画一支配されたのはテロの脅威だけでなく、自発的な服従やヒトラーを救済者とする期待あきらめ日和見主義などもある。ドイツ工業全国同盟非アーリア人の役員を除名したり、各種の組織や利益団体はナチ党員を役員として受け入れ、指導者原理に基づいて組織を再編したり、上記のように「刷新」された役員たちが甘んじてナチ党へ忠誠誓約書を提出した。

 政党労働組合も、ヒトラーに迎合した。ドイツ労働組合総同盟は社会民主党と絶縁ナチ党忠誠誓約書を提出し、中道及び右翼政党は、ナチ党へ合流する動きが強まった。あくまで党や労働組合への忠誠を捨てない党員は強制収容所で命を代償とした。ブルジョア政党には手心を加え、ナチ党国会議員団に所属させたり、ナチ党国会議員と協力する無所属議員として扱った。このような結果、ナチ党はドイツにおける唯一の合法政党となった。

(2022年11月5日投稿)

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