ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『勝てないアメリカ』

2012-10-18 09:27:50 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『勝てないアメリカ』という本を読んだ。
サブタイトルには「対テロ戦争の日常」となっており、著者は大治朋子という女性である。岩波新書だ。
この著者、奥付によると2006年から2010年まで毎日新聞のワシントン支局の特派員であったというのだから相当な強者と考えなければならない。
我々、日本人は1945年、あの第2次世界大戦が終了した以降、武力行使ということを一切してこなかった世界的に見て稀有な国だと思う。
しかし、世界の人々は、皆公平に同じ時間を共有しているわけで、我々日本人も、アメリカ人も、中国人も、イギリス人も、フランス人も、同じ時間を共有していることに代わりはない。
その中で、日本だけが戦後67年間、戦争という事態を体験してこなかった。
これは非常に恵まれた環境に置かれたということであるが、この状態は我々の努力のみで築き上げたものではなく、周辺諸国の理解があればこそ、継続できた状態である。
だからと言って、戦後の日本と周辺諸国が何のトラブルもなく平穏であったということではなく、トラブルはあったが武力行使に至る前に我々の側が自重したから、それに至らなかったということだ。
その日本の後ろ盾になっていたのは、言うまでもなく日米安保条約であって、日本の周辺諸国は、日本に対してトラブルを吹っ掛けてはみたものの、我々の側が泰然としていたので、それ以上のエスカレーションをしなかったというわけだ。
ところが政権交代して、民主党が政権を握ると、アメリカとの関係が希薄になるというか、アメリカとの関係を軽視する風潮が跋扈して、鳩山由紀夫などはまさしくそれを態度で示してしまった。
だから、中国も、韓国も、台湾も、ロシアもその間隙に楔を打ち込もうとして、今までにない対日アクションを採ったのである。
今の日本の政治家、民主党にしろ自民党にしろ、今の日本人の大部分の人が戦後生まれの世代だと思う。戦争というものを自らの体験として感知している人はほとんどいない。
1945年以来、戦争が終わって、兵隊として出征していた人が帰還してまず最初にしたことは子作りだったと想像するが、その時に出来た子供が今は67歳前後になっているのである。
今の日本人で、戦争というものを真に理解している人は皆無と言ってもいいと思うが、こうなると戦争について語るという行為は、盲人が像を撫ぜるようなもので、各人各様の解釈になっている。
歴史から学ぶという意味で、我々は過去の事例研究は怠りないが、今の日本では「戦争を研究する」というだけで、軍国主義者という烙印を押しかねない。
「自分の国は自分で守りましょう」と言うと「軍国主義者」という。
「自分の国を愛しましょう」と言うと「右翼」という。
「祖国のために殉じた人を敬いましょう」と言うと「近隣諸国を刺激する」という。
事の本質を掘り下げて研究し、理解しようと努めると、それを感情論に転嫁して、世論を煽り、平和念仏さえ唱えていれば安泰だ、というように世間をミスリードしている。
戦争ということは人類の業なわけで、人間がこの地球上に複数存在する限り、人と人の諍いというのは根絶できないものである。
人類の歴史は戦争の歴史であったわけで、それが無くせれればこんな有難いことはないが、この地球上に人が生まれて以来、それは今日まで連綿と続いてきたのである。
それは人間の本質であって、人が人として、人の集団で社会というものを構成している限り、戦争、あるいは武力行使というものは避けて通れない道である。
人が近代化した生活の中で学問を身に付け教養知性が豊かになると、こういう人間の本来の古典的な在り様を、野蛮な生態とみなすようになって、そういう視点で人の生存競争を眺めることになる。
それで近代化したアメリカ軍の兵装と、アフガニスタンのアルカイダやタリバンという勢力と対比してみると、アメリカはこういう野蛮人の勢力を未だに一掃し切れていない。
だから日本のジャーナリストとしては、無責任にも「アメリカは一体何をしているのか!」という論旨になるのである。
正規軍と正規軍の戦いならば一瞬にしてアメリカ側の勝利になるが、敵の存在というものが極めて不明確で、誰が敵で誰が味方かという事がさっぱりわからない状態では、近代兵器もその真価を発揮しきれない。そもそもテロとの戦いというのは戦争ではない。
戦争でない事に軍を投入しているということである。
シビリアン・コントロール下の軍隊の使用は、戦争だけではなく、災害派遣も立派な軍隊の使用であり、治安維持も立派な軍の仕事の一部であることは論を待たない。
アメリカという国、国民、アメリカ人という人種は、極めて開けっぴろげな人々で、求められれば隠すということはしない人々であって、手続きを経れば大方のものが閲覧できると思うが、これと同じことが中国、北朝鮮、ロシア、アルカイダ、タリバンという組織にあてはまるであろうか。
この本の著者も、取材できる所で取材しているわけで、そんな記事ならば誰でも書ける筈だ。
取材先でも真実ならば批判記事でもOKであったということが、先に述べた地域でも同じように通用するであろうか。
日本のジャーナリスとしてテロの根絶を願うならば、テロ集団の無差別テロの阻止、抑止、廃絶に向けて論を張るべきであって、そういう方向に努力しているアメリカに対しては、支援こそすべきであるが、後ろから弓を引く行為は厳に慎むべきだと思う。
イスラム教徒の過激派のアメリカに対するテロ行為というのは9・11事件のみならず、その前にも後にも頻繁にあるわけで、そのテロに対してアメリカは果敢と戦っている。
だから、世界の諸国家はこのアメリカを支援すべきだと思う。
ベトナム戦争の時のアメリカは、共産主義の北から南へのドミノ倒し風の浸透、侵攻に対して、それを阻止しようと南ベトナム政府を支援したが、南ベトナム政府が限りなく堕落していたので、それを支えきれずに撤退という終末に至った。
ここでもアメリカは、共産主義者の南への浸透など放置して、世界の警察官ぶらなくてもよかったということが言える。
9・11事件に対する対応は、これとは逆にアメリカ本土に於いて、アメリカの象徴でもあったWTCビルが、こともあろうに旅客機を突入させて崩壊したということから、アメリカの面子に正面から挑戦したようなもので、イスラムの過激派を放置するわけにはいかなかったと思う。
その首謀者としてオサマビンラデインが浮上したとき、アフガニスタンも、パキスタンも、イラク、イランも、オサマビンラデインの身柄をアメリカに引き渡せば事なきを得たが、イスラム原理主義者たちはそうしなかった。
ここで問題となるのが世界の知識人の知見の相違である。
特に我々日本人として、これをどういう風に見るかという踏み絵を迫られたが、日本のメデイアはこぞってアメリカの不合理のみを突く論調であった。
つまり、アメリカに対する非難、悪口、誹謗中傷はいくら大声で叫んでも人畜無害、誰も何も傷つかないが、イスラム原理主義については、そもそもその本質さえきちんと掌握していないわけで、安易な論調としてアメリカ批判のみが横行するということだと思う。
高価な装甲車を前線に投入しても、アメリカ兵の犠牲を救えないのは、アメリカのこの戦争への整合性が間違っているからだという論調で、アメリカ政府批判に繋がっているが、テロリスト達の非合理、不整合、論理矛盾には何一つ言及していない。
アフガニスタンのイスラム原理主義者もアメリカの善良な市民も、天から与えられた時間は皆平等で均一であったにもかかわらず、両者の間でこれほどの貧富の格差が生じたのは、それぞれの人々の個々の問題であった。
アメリカ人は宗教よりもプラグマチシズムを優先させ、宗教原理を無視して経済発展を目指したのであり、イスラム原理主義者たちは宗教の原理を自らの生活改善よりも優先させた結果である。
その結果に鑑みて「その格差が許せない」という論理は矛盾そのものである。
アメリカも、ヨーロッパも、日本も、中国も、今日あるのは、それぞれの民族のそれぞれの人々の努力の結果であって、「その格差が許せない」という論理は自己矛盾の最たるものでしかない。
日本の知識階層は、世界の混迷をこういう視点では見ずに、「先進国の繁栄は後進個国の犠牲の上にある」という論理で迫ってくる。
如何なる先進国もかつては未熟な国であったわけで、それを国民の創意を合わせて克服したからこそ、今日があるわけで、その中には血で血を洗う抗争、つまり戦争という試練も当然含まれている。
今の日本の知識階層は、67年間も血で血を洗う抗争を目の当たりにしていないので、その概念のみで語っているため、その論拠が非常に感情的に成り下がっている。
テロとの戦争でも、アメリカを非難することは実に安易なことであって、その安易なことばかりを声高に叫んでも一歩も前進はない。
毎日新聞という日本の巨大メデイアのワシントン特派員として、アメリカ軍の施設を取材することは、先方の理解を得やすいことであろうが、その対極のテロをする側のアルカイダやタリバンの基地や、主要人物へのインタビューがありうるかと言えば、それはありえないわけで、情報はただただ高い方から低い方へ自然に流れているだけである。
仮にアルカイダやタリバンの主要人物とのインタビューが成功したとしても、テロを思い留まらせる説得はできないだろうと思う。
イラク戦争の時、日本からもサダム・フセインに対して数多くに人が説得に向かったが、彼は聞く耳を持たなかったではないか。
私個人の考えとしては、アメリカは世界の警察官の役目をもう放棄すべきだと思う。
アフガニスタンのことはもう現地の人に任せて、現地がどうなろうともアメリカはタッチせずに、放置しておくべきだと思う。
そうしておいて、そういう地域からアメリカに入ってくる人を締め出して、入国を許さない措置を採るべきだと思う。
9・11事件の前にもWTCビルは2度も爆弾テロにあっているわけで、そういう措置はやろうと思えば可能だと考えられる。
太平洋戦争の時、アメリカは在米日本人を全部収容所に入れた実績を持っているではないか。
当然、これをすれば人種差別という批判が湧きあがるであろうが、テロとの戦争において、アメリカの青年の命と経費のことを勘案すれば、その非難を敢えて蒙る整合性と説得力は力を持つと思う。
アメリカの政治も良い事ばかりではなかったわけで、同じことでも視点を変えて眺めると、まるで逆の価値観であったりするが、それでもアメリカは良い国だと思う。
前にも述べたが、人類の持つ時間は全ての人に平等なわけで、アメリカ人や日本人に多く、アフガニスタンやパキスタンの人々に少なかったわけではない。
にもかかわらず、こういう格差が生じたということは、それぞれの民族の自助努力の結果にすぎない。
それをアメリカの所為にするということは、論理的に間違っているが、それを論理的に説き、整合性を秩序立てて説明しても、彼らは聞く耳を持たないわけで、例のイスラム原理主義に惑わされて、理性的な判断をしようとしないのである。
人が生きるためには宗教も必要ではあろうが、人間の精神が架空の絵空事に埋没してしまって、人間の脳による判断を拒否するようになってしまえば、それ以上の進化はありえない。
この本の著者はアメリカ兵の死亡者、死者には敬虔な同情を寄せて、「そうならないためにはどうすればいいか」と模索しているが、相手、つまりアルカイダやタリバンの方は、アメリカ兵を一人でも多く殺して、自分が死ぬことが聖戦なわけで、それを推奨しているのであるから、「死ぬのが可哀そう」などという価値観は最初から存在していない。
人がいくら死のうと、それは敬虔なイスラムの神への奉仕なわけで、大いに崇められる行為となっているのである。
アメリカはこういう狂信的な人々と戦っているわけで、だとすればアメリカはもうこの戦いから手を引いて、彼らを自分たちの側に引き入れないことを真剣に考えたらどうだと言いたい。
誰かが言っていたが、文明の衰退は、内側の内部崩壊によってもたらされると。確かにそうだと思う。
仮に、今、アメリカが中近東の人々を入国させないという措置をとったとしたら、アメリカ内部の知識階層の人々がこぞってその措置に反対するにちがいない。
その時のお題目は、多分、人権侵害あるいは人権抑圧というスローガンを掲げての反対だろうが、そうするとアメリカ国民の選択肢は、イスラム原理主義に同調するテロリストを国内に抱えて、テロに怯えながらの生活を国民が選択せざるをえないということになる。
半世紀前は共産主義者の共産革命の恐怖におびえ、21世紀のアメリカは再びテロリストのテロに怯えながらの生活ということになるが、そういう生活から脱却しようとすると、教養知性豊かな知識人が、そういう政府の措置に反対するという構図だ。
文化の衰退は、教養人がその教養と知性でもって人間が本来持っている生存のための知恵を封殺することによって起きるに違いない。
今の地球上に生息している知識人、あるいは教養知性あふれた物わかりの良い善良な人々は、人間の命は世界中で同じ価値だと思っている。
アフガニスタンやパキスタンで、イスラム原理主義に洗脳された若者の命も、中国の奥地で農業にいそしむ若者の命も、日本の電車の中で化粧をする若者の命も、全部等価だと思っているが、現実はそうではない。
アメリカの青年の命は極めて高いので、アメリカは何千万もする装甲車を開発しているのである。
アフガニスタンやパキスタンの若者は、牛や犬の命並みに安価なので、自分の体に爆弾を巻いて自爆テロに走るのである。
極めて安価な値段で自爆テロを実行するのであって、その延長線上に道路わきに爆弾を仕掛けてアメリカ兵のみならず自国の人間も殺傷しているのである。決して人の命が等価であるわけがない。
ただこういう地域からは正確な情報が入ってこないので、何時、誰が、どぅいう風にして死んだか、何もデータがないので、統計に表れていないし、こちら側の死者の数は誰も意に介していないということだ。
我々がテレビのニュース映像で見る限り、この地域の風情というのは、砂漠か山岳地帯でとても裕福な農業地帯とも思えないが、こういう地域で生きてきた人たちが未開人であったとしても何ら不思議ではない。
しかし、こういう地域に住む人々でも、先進国の文化に接した人たちは、その文化や富の格差に大いに不満を感じるわけで、そこにイスラム原理主義が入り込むと、先進国に対するテロということになるのである。
アフガニスタンやパキスタン、はたまたイラン、イラクなどという国々は、基本的には近代的な主権国家足り得ていない。
所詮は、べドウインの集合体、もっと端的に言えば、映画の西部劇に登場するインデアンと同じであるが、21世紀の世界の知性は、そういう言い方、見方、扱い方をしておらず、一応は近代化した先進国の人間と同じように対応している。
問題は此処にあるわけ、一応は一人前の主権国家と同じ扱いをして、その地の人々を近代化した民主的な思考の持ち主とみなすから、現実との乖離が埋められないのである。
世の知識人が、野蛮人を文化的で民主的な人間と同一視することは、自己の知性と教養の奢りであって、現実を素直に直視することは、自分自身が野蛮人に成り下がったという意識にさいなまれるからである。
だからこういう地域にアメリカが鬼が島の鬼退治のように出っぱると、主権侵害ということになってしまうのであって、こういう国には主権の概念そのものが存在していないにもかかわらず、誰かが知恵を付けて、利益誘導を図ろうとするからアメリカのテロ撲滅も思うように進まないのである。