知人が善意の押し売り的においていった本で、『ローマ人の物語 Ⅳ』を読み終えた。
今回はシーザ-が今のヨーロッパ全域を制覇する物語であって、『ガリア戦記』そのものの忠実なトレースとみなしていいと思う。
『ガリア戦記』はシーザー自身が自分の陣中日記を認めたとみなしていいと思う。
ところが今こうして難なく物語としてそれを読むことができるが、これも考えてみると実に大変なことだと思う。
何せ2千年以上も前のことで、その時代のことを記録にとどめておくということは実に大変なことだと思う。
当然、本物は消失していて、人づての話が伝わっているに違いないと思うが、それでも大いしたものだと思う。
日本でもこの時期の話は神話と混同されてしまって、真偽のほどは藪の中というケースが多いが、21世紀の我が同胞の中には、「神話はフイックションだから罷りならぬ」といきまいている人がいるが実に子供じみた思考だと思う。
自分たちのルーツを子供に教えるのに、神話と事実を混同して教えるのも馬鹿げたことで、神話は神話として、歴史的事実は事実として分けて教えるべきで、それを無理やり天皇制の話とくっつけようとするからこういう陳腐なことになるのである。
日本という国の始まりを、神話や天皇制とくっつける思考は、明らかにイデオロギーに浸食された思考であって、そんなことに大の大人が振り回されること自体が陳腐なことだ。
この、『ローマ人の物語』の中には元老院という言葉が頻繁に出てくるが、これは私の解釈では今の世界各国の国会・議会のようなものと考えていいと思う。
シーザーがガリアで、いわゆる今日のフランスの地で、戦闘に明け暮れている姿というのは、完全なシビリアン・コントロールが実践されていたということである。
数ある本を乱読してみると「ルビコン川を渡る」というフレーズに行き当たるが、私は恥ずかしながら今までその意味を十分に理解していなかった。
それはまさしく「後に引けない一線を越える」という意味で、シビリアン・コントロールを終わらせて帝政に持っていくという意思の表れだった、ということを今回はじめて知った。
人を統治する手法としては、大勢の知恵を習合して最大公約数を引き出すか、それともたった一人の英雄にすべてを任せてついていくかの二通りしかないと思う。
それぞれに一長一短があるわけで、民主的手法が最良ともいえないと思うが、今の日本の人々にとっては、それ以外の政治的選択はありえないように思う。
シーザーの著した『ガリア戦記』の中に登場する諸民族は、それぞれにヨーロッパの各地に跋扈していた野蛮な部族であって、この時代は地球規模でそういう状態であったに違いない。
文明というのはギリシャとローマにしかなかったわけで、そのローマ人からすれば、ヨーロッパの黒い森の中の住人は野蛮人そのものであったに違いない。
こういう人間の集団を率いるには、聡明なリーダーによる独裁政治の方が効率は良いに違いない。
なんとなれば、意思決定が短絡的で素早い決定ができるので、緊急事態への対応が的確に可能になるが、民主的な政治手法では、その部分に遅れが生じる可能性がある。
この本は、その大部分をシーザー一人の記述で成り立っているが、今から2千年以上前において、たった一人のジュリアス・シーザーについてこれほど克明に書き記すということは実に驚くべきことだと思う。
その彼がヨーロッパ全域を制覇するということは、ある意味でローマの文化を伝搬したということでもあるわけで、今流の言い方をすれば近代化に貢献したということになるであろうが、人間の営みというのは、所詮こういう行為の積み重ねで成り立っているのではないかと思う。
昨今、日本の周辺諸国は、日本に対してさまざまな外交的ジャブ、チョッカイを出して、日本を紛争の渦の中にひき入れようと画策している。
しかし、主権国家がそういう行動をするという背景には、当然のことながら、こちらの対応を予測して行動を起こしているわけで、ただたんに思い付きでしているわけではない。
相手の行動を細心の注意を払って観測して、十分に勝算が望めるという目途がついたときに行動を起こしているのである。
日本周辺の諸国が、日本に対して外交的なジャブを繰り出してきたのは、言うまでもなく民主党政権になって、鳩山由紀夫がアメリカの存在を無視するかのような発言をしたことによって、アメリカと日本の関係がぎくしゃくして、そこにくさびを打ち込んで、双方がお互いに離反するように画策しているのである。
鳩山由紀夫の一時的な人気取りの施策としての「良い恰好シイ」のパフォーマンスと見たロシア、韓国、中国という国々は、鳩山由紀夫が政権の座にいる間に、日米同盟を無効にしようと考えたわけで、金持ちのボンボンの幼稚で、無知で、世間知らずの思考見透かされていたということに他ならない。
この本の中ではジュリアス・スシーザーはまだローマの共和制の下でのシビリアン・コントロール下での活躍であったが、いよいよルビコン川を渡ることによって、帝政ローマに移っていくことになる。
この本が今までの過程で縷々述べている中にも、共和制、いわゆる元老院の決定にも判断の間違いが数多くなることを示しているが、共和制というか、民主的というか、数多くの意見を聞いたうえで事を決するというシステムには大きな欠陥がある。
時間と金が掛かることは言うまでもないが、もう一つ責任の所在が不明確で、失敗の責任をだれに負わすかという問題がある。
結果オーライで事が成功したときは、英雄に祭り上げられるが、失敗したときの責任を明確にすることは甚だ難しい。
これが帝政下の独裁政治であれば、ことは簡単であるが、民主政治で皆が寄ってたかって決めたことが失敗となった場合、責任の所在は極めて曖昧にならざるを得ない。
ローマ人が野蛮なガリア諸民族を次々に平定して、それに成功したシーザーが祖国に凱旋しようとした時、それをローマの人々はあまり歓迎しなかったわけで、そこでシーザーはルビコン川を渡るか渡るまいか迷った挙句、渡ってしまったので、その後のローマは帝政になったということである。
ところが、この時、なに故にローマの人々は素直にシーザーの功績を称えなかったのか、ということである。
浅薄な私が推察するに、やはりこういう場合、成功者に対するやっかみの心理が作用するのではないかと思う。
我々の身近な例にたとえれば、湾岸戦争の戦後処理でイラクに派遣した自衛隊が、立派な実績を上げて引き揚げてくるのに、日本の議会が冷ややかな目で眺めている図だと思う。
現地の苦労を考えたこともない銃後の人々が、軽薄な理想主義を金科玉条として、その画餅のような理想に反するからと、血と汗を流した人々を冷遇した構図ではないかと思う。
この時のローマ市民は、ローマ市民であるが故に兵役を担い、税を負担しなければならなかったが、この負担を担わなくてもいい階層もいたわけで、その分発言権もなかったようだ。
しかし、統治するものとされる側の確執は、いつの世もついて回るわけで、その中で大勢の人の意見を汲み取る施策は、良い事の代表のように思われているが、この思い込みが往々にして道を誤るもととなっている。
大衆、民衆の求めるものは、自分たちが得することのみで、自分たちの負担になることは極力回避しようと願っているものである。
人間の心理として当然すぎるほど当然のことである。
しかし、為政者、統治側としては、配下の全員、国民の全部、市民の大部分の期待に応えねばならないが、そう好都合なことばかりではないわけで、時には負担を強いることも出てくるが、統治される側としては、それは我慢らないわけで、不信任ということになる。
これは2千年前も今日もいささかも変わらず、民主党政権の、特に、鳩山由紀夫には、その部分が理解不可能であったが故に、周辺諸国から外交的なボデイー・ブローを見舞われたのである。
「普天間基地を少なくとも県外に移設する」などという茶番がありうるわけがないが、それが判らないということこそが、如何に本人がダメ人間かということを端的に表している。
そういう発言をすることで、彼は国民の人気を得ようと、出来もしない美辞麗句を並べてはみたものの、彼のパフォーマンスは誰の目にも人寄せパンダ以下の評価でしかなかったということだ。
そもそも大衆に受けようとする魂胆が、いやらしく、卑屈で、足元を見透かされているにもかかわらず、本人のみがそれに気が付いていない図である。
彼は金持ちのボンボンであるが故に、大衆の深層心理を真から理解することなく、表層的な流れに翻弄された構図であろうが、高等教育を受けた身で、政治家でありながら、それに気が付かないということは、人間として致命的な欠陥である。
今回はシーザ-が今のヨーロッパ全域を制覇する物語であって、『ガリア戦記』そのものの忠実なトレースとみなしていいと思う。
『ガリア戦記』はシーザー自身が自分の陣中日記を認めたとみなしていいと思う。
ところが今こうして難なく物語としてそれを読むことができるが、これも考えてみると実に大変なことだと思う。
何せ2千年以上も前のことで、その時代のことを記録にとどめておくということは実に大変なことだと思う。
当然、本物は消失していて、人づての話が伝わっているに違いないと思うが、それでも大いしたものだと思う。
日本でもこの時期の話は神話と混同されてしまって、真偽のほどは藪の中というケースが多いが、21世紀の我が同胞の中には、「神話はフイックションだから罷りならぬ」といきまいている人がいるが実に子供じみた思考だと思う。
自分たちのルーツを子供に教えるのに、神話と事実を混同して教えるのも馬鹿げたことで、神話は神話として、歴史的事実は事実として分けて教えるべきで、それを無理やり天皇制の話とくっつけようとするからこういう陳腐なことになるのである。
日本という国の始まりを、神話や天皇制とくっつける思考は、明らかにイデオロギーに浸食された思考であって、そんなことに大の大人が振り回されること自体が陳腐なことだ。
この、『ローマ人の物語』の中には元老院という言葉が頻繁に出てくるが、これは私の解釈では今の世界各国の国会・議会のようなものと考えていいと思う。
シーザーがガリアで、いわゆる今日のフランスの地で、戦闘に明け暮れている姿というのは、完全なシビリアン・コントロールが実践されていたということである。
数ある本を乱読してみると「ルビコン川を渡る」というフレーズに行き当たるが、私は恥ずかしながら今までその意味を十分に理解していなかった。
それはまさしく「後に引けない一線を越える」という意味で、シビリアン・コントロールを終わらせて帝政に持っていくという意思の表れだった、ということを今回はじめて知った。
人を統治する手法としては、大勢の知恵を習合して最大公約数を引き出すか、それともたった一人の英雄にすべてを任せてついていくかの二通りしかないと思う。
それぞれに一長一短があるわけで、民主的手法が最良ともいえないと思うが、今の日本の人々にとっては、それ以外の政治的選択はありえないように思う。
シーザーの著した『ガリア戦記』の中に登場する諸民族は、それぞれにヨーロッパの各地に跋扈していた野蛮な部族であって、この時代は地球規模でそういう状態であったに違いない。
文明というのはギリシャとローマにしかなかったわけで、そのローマ人からすれば、ヨーロッパの黒い森の中の住人は野蛮人そのものであったに違いない。
こういう人間の集団を率いるには、聡明なリーダーによる独裁政治の方が効率は良いに違いない。
なんとなれば、意思決定が短絡的で素早い決定ができるので、緊急事態への対応が的確に可能になるが、民主的な政治手法では、その部分に遅れが生じる可能性がある。
この本は、その大部分をシーザー一人の記述で成り立っているが、今から2千年以上前において、たった一人のジュリアス・シーザーについてこれほど克明に書き記すということは実に驚くべきことだと思う。
その彼がヨーロッパ全域を制覇するということは、ある意味でローマの文化を伝搬したということでもあるわけで、今流の言い方をすれば近代化に貢献したということになるであろうが、人間の営みというのは、所詮こういう行為の積み重ねで成り立っているのではないかと思う。
昨今、日本の周辺諸国は、日本に対してさまざまな外交的ジャブ、チョッカイを出して、日本を紛争の渦の中にひき入れようと画策している。
しかし、主権国家がそういう行動をするという背景には、当然のことながら、こちらの対応を予測して行動を起こしているわけで、ただたんに思い付きでしているわけではない。
相手の行動を細心の注意を払って観測して、十分に勝算が望めるという目途がついたときに行動を起こしているのである。
日本周辺の諸国が、日本に対して外交的なジャブを繰り出してきたのは、言うまでもなく民主党政権になって、鳩山由紀夫がアメリカの存在を無視するかのような発言をしたことによって、アメリカと日本の関係がぎくしゃくして、そこにくさびを打ち込んで、双方がお互いに離反するように画策しているのである。
鳩山由紀夫の一時的な人気取りの施策としての「良い恰好シイ」のパフォーマンスと見たロシア、韓国、中国という国々は、鳩山由紀夫が政権の座にいる間に、日米同盟を無効にしようと考えたわけで、金持ちのボンボンの幼稚で、無知で、世間知らずの思考見透かされていたということに他ならない。
この本の中ではジュリアス・スシーザーはまだローマの共和制の下でのシビリアン・コントロール下での活躍であったが、いよいよルビコン川を渡ることによって、帝政ローマに移っていくことになる。
この本が今までの過程で縷々述べている中にも、共和制、いわゆる元老院の決定にも判断の間違いが数多くなることを示しているが、共和制というか、民主的というか、数多くの意見を聞いたうえで事を決するというシステムには大きな欠陥がある。
時間と金が掛かることは言うまでもないが、もう一つ責任の所在が不明確で、失敗の責任をだれに負わすかという問題がある。
結果オーライで事が成功したときは、英雄に祭り上げられるが、失敗したときの責任を明確にすることは甚だ難しい。
これが帝政下の独裁政治であれば、ことは簡単であるが、民主政治で皆が寄ってたかって決めたことが失敗となった場合、責任の所在は極めて曖昧にならざるを得ない。
ローマ人が野蛮なガリア諸民族を次々に平定して、それに成功したシーザーが祖国に凱旋しようとした時、それをローマの人々はあまり歓迎しなかったわけで、そこでシーザーはルビコン川を渡るか渡るまいか迷った挙句、渡ってしまったので、その後のローマは帝政になったということである。
ところが、この時、なに故にローマの人々は素直にシーザーの功績を称えなかったのか、ということである。
浅薄な私が推察するに、やはりこういう場合、成功者に対するやっかみの心理が作用するのではないかと思う。
我々の身近な例にたとえれば、湾岸戦争の戦後処理でイラクに派遣した自衛隊が、立派な実績を上げて引き揚げてくるのに、日本の議会が冷ややかな目で眺めている図だと思う。
現地の苦労を考えたこともない銃後の人々が、軽薄な理想主義を金科玉条として、その画餅のような理想に反するからと、血と汗を流した人々を冷遇した構図ではないかと思う。
この時のローマ市民は、ローマ市民であるが故に兵役を担い、税を負担しなければならなかったが、この負担を担わなくてもいい階層もいたわけで、その分発言権もなかったようだ。
しかし、統治するものとされる側の確執は、いつの世もついて回るわけで、その中で大勢の人の意見を汲み取る施策は、良い事の代表のように思われているが、この思い込みが往々にして道を誤るもととなっている。
大衆、民衆の求めるものは、自分たちが得することのみで、自分たちの負担になることは極力回避しようと願っているものである。
人間の心理として当然すぎるほど当然のことである。
しかし、為政者、統治側としては、配下の全員、国民の全部、市民の大部分の期待に応えねばならないが、そう好都合なことばかりではないわけで、時には負担を強いることも出てくるが、統治される側としては、それは我慢らないわけで、不信任ということになる。
これは2千年前も今日もいささかも変わらず、民主党政権の、特に、鳩山由紀夫には、その部分が理解不可能であったが故に、周辺諸国から外交的なボデイー・ブローを見舞われたのである。
「普天間基地を少なくとも県外に移設する」などという茶番がありうるわけがないが、それが判らないということこそが、如何に本人がダメ人間かということを端的に表している。
そういう発言をすることで、彼は国民の人気を得ようと、出来もしない美辞麗句を並べてはみたものの、彼のパフォーマンスは誰の目にも人寄せパンダ以下の評価でしかなかったということだ。
そもそも大衆に受けようとする魂胆が、いやらしく、卑屈で、足元を見透かされているにもかかわらず、本人のみがそれに気が付いていない図である。
彼は金持ちのボンボンであるが故に、大衆の深層心理を真から理解することなく、表層的な流れに翻弄された構図であろうが、高等教育を受けた身で、政治家でありながら、それに気が付かないということは、人間として致命的な欠陥である。