ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『自らの身は顧みず』

2012-10-15 16:02:30 | Weblog
久ぶりに地域の図書館に行って借りてきた本を読んだ。
正確には知らないが恐らく半年ぶりくらい間隔があいていたように思う。
その間、何故本が読めなかったかと言うと、近所の知人が「この本は良い本だから読め」と言って置いていった本があったので、それが重圧となって心の負担になっていた。
図書館でランダムに自分の手で取った本は素直にページが開けるが、人から勧められた本はどんなに良い本でも心の重荷となってしまう。
この度、それを全部読み終えたので、心の負担が払しょくされて、以前のように気楽に自分の好きな本を好きなように読める環境に戻れた。
それで早速手にとった本が、田母神俊雄氏の『自らの身は顧みず』という本であった。
この著者は、航空自衛隊幕僚長であったにもかかわらず、民間企業の懸賞論文に応募した作品が最優秀賞になって、その論文の内容が、「日本は侵略国家であったのか?」という演題で、日本民族の矜持を強調した論旨になっていた。
この部分が「政府の高官でありながら、自虐史観に協調していないのでけしからん」と言うわけで解任された経緯がある。
この解任の経緯はいささか幼児じみた政治的判断であって、本人が怒るのも致し方ない部分がある。
本人の言い分によれば、上司の職業的判断でなされた行為である以上、その分は甘んじて受けざるを得ないが、論文の趣旨を撤回する気はさらさらないというものだ。
彼のこの論文は、普通の日本人、普通に日本で生きてきた日本人ならば、当然の考え方であって、日本の政府要人の諸外国に阿った発言よりは数等ましである、と私個人は思う。
だが民間企業の企画した懸賞論文に、現職の肩書のままで応募するという神経は、正直私には解せない部分がある。
この民間企業というのが、アバグル―プと称するホテルチェーンらしく、そのトップが航空自衛隊小松基地の後援会組織のトップということでもあり、本人とこのトップの間に親密な関係であるとなれば、懸賞論文の審査も厳正に行われたかどうかも怪しくなる。
自分たちのお仲間の後援会の企画した懸賞論文に応募して、最優秀賞であったと言われても、お手盛りの茶番劇ではないかと思われても仕方がない。
しかも、公募と言いながら官職氏名を名乗っての応募であるとするならば、最初からデキレースのようなもので、仲間内のナアナアの猿芝居と思われても致し方ない。
ただし、彼のこの論文の論旨は、私の感覚からすれば正当なもので、日本人と日本民族の矜持としては極々当たり前のことを述べている。
問題は、この彼の論文の論旨をシビリアン・コントロールへの逸脱と考える世間一般の認識の方がよほど弊害が大きい。
この彼の論文を読んで、彼を危険人物と考える発想そのものが、よほど危険なわけで、こういう人ほどシビリアン・コントロールの真の意味そのものを真に理解していない。
まさしく盲人が像を撫ぜている図であって、足を触った人や、腹を触った人や、尻尾を触った人が、それぞれに自分の間違った感触から抜け切れないで、全体像を見失っている図である。
この時の防衛大臣が浜田靖一で、こういう政府の要員であっても、事の善悪、良し悪し、国を愛するという具体的な立ち居振る舞いについて確たる信念を持っていないことが如実に表れている。
実に恐ろしい事は、こういうスケープ・ゴートに仕立て上げられると、周りの人は皆足並みを揃えて水に落ちた犬を叩く側に回るという現実である。
裸の王様に対して、「王様は裸ですよ!」という真実を述べる勇気のある人が一人もいない。
戦前の美濃部達吉の『天皇機関説』の弁明も、斉藤隆夫の粛軍演説も、論理においては何ら問題はないにもかかわらず、時流に合わないという実に滑稽な理由によって排斥されている。
そして、その排斥の論旨も、そもそも元の論文に瑕疵がないのだから、非常にあいまいな理由付けでしかなく、ただただその場に居合わせた人の保身でしかない。
昨今の中学生のいじめ問題では、傍観者の存在が問題となっているが、まさしく美濃部達吉や斉藤隆夫の排斥というのは、政治家のいじめそのものでしかない。
この田母神俊雄氏の幕僚長解任の問題も、この手の事例であろうが、実に由々しき問題だと思う。
主権国家のトップともなれば、基本的には軍事知識の豊富な人の方が国民としては安心できるはずである。
しかし、我々日本人というのは、戦後67年間も戦争ということを真摯に考えて来ていない。
我々は自らの憲法で戦争を放棄しているので、日本の周辺の国々が日本に対して武力行使をすることはありえないと思い込んでいるが、こういう一方的な独善的な思い込みほど危険なものはありえない。
日米戦を始める前の我々のアメリカ人に対する認識は、「人前で平気でキスをするような軟弱な奴らは、大和魂の一撃で瞬時にして戦意を失うに違いない」というものであったが、この我々の側の思い込みは当たっていたであろうか。
あの戦争を振り返ってみると、昭和初期の時代は、軍人が威張り散らして、政治家は小さくなって保身ばかりに汲々していたと考えらえているが、軍人が威張った背景には、政治家の腐敗、堕落、不甲斐なさがあったのではなかろうか。
政友会と憲政会の2大政党の議会政治の運用があまりにも稚拙であったので、それに我慢ならない軍人が直接それを司どることを画策しようとしたのが、軍事、軍部の独断専横ということにつながったのではなかろうか。
この政党政治の腐敗堕落は今も立派に生きているわけで、その理由として考えられることは、真に国のことを考えている政治家がいないということである。
戦後67年間、連合軍、特にアメリカのウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムに首までどっぷりと遣って、民族の誇りも、名誉も、矜持も何一つ持ち合わせていない戦後の日本人である限り、日本再生はありえない。
田母神航空幕僚長が民間企業の懸賞論文に、業務あるいは職責に関係のない一般論としての文章を応募すること自体は、シビリアン・コントロールとは何の関係もない事であって、それが理由で解任ということであれば完全に間違っている。
問題は、その部分の違和感を感じ取れない世間の側の政治感覚である。
太平洋を挟んで日本とアメリカは対極にあるのだが、アメリカにとっての日本は、常に頭を押さえつけておくべき存在であって、日本の隆盛に関んしては如何なるイシューも許せないという価値観で固まっている。
これは言い方を変えて表現すれば、人種差別であって、黄色人種の日本人に自分たちの上を行かれてなるものか、という深層心理である。
だから昭和初期の時期において、中国で日本が覇権を示せば、中国を支援してそれがフライング・タイガーということになるのである。
アメリカ側から見て、なぜ日本人でなくて中国人をフォローするのかと言えば、中国人ならばアメリカを凌駕する可能性は全くないが、日本人ならばその可能性を充分もっているので、中国人は助け日本人は叩いたのである。
このアメリカの抱いた危惧は、あの太平洋戦争で如何なく見せつけられたので、戦後はその反省に立って日本に対してウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムであったのである。
これを一言で言えば、日本人の魂を抜く政策であって、日本が再びアメリカに立ち向かう、楯突く、挑戦してくることのないように、日本人の精神性を極めて内向的に、自虐的に、贖罪意識を植え付けるように仕向ける施策であったのである。
ところが、主権国家の存在というのは、絶海の孤島のよう大自然の中で屹立するということはありえないわけで、周囲の環境の変化に対応して、好むと好まざると変革しなければならない。
戦争に勝ったアメリカは、日本をアジアの最貧国にしようとしたが、朝鮮半島で共産主義者が大挙して押し寄せてくるという事態に直面して、その計画を捨てざるを得なくなった。
第2次世界大戦後の共産主義者の跋扈は実に由々しき問題であったが、占領初期のアメリカは共産主義に対する認識が極めて甘かった。
結果としてアメリカが後押しをした中華民国は、共産主義者に国土を乗っ取られて、その勢いが余って、朝鮮半島の北半分も共産主義者に席巻されてしまい、その赤化の波は日本にも押し寄せてきた。
こういう状況になってみると、アメリカの対日占領政策も方向転換せざるを得ず、日本を戦争放棄させたままの丸裸では置いておけなくなって、アメリカの国益を踏まえて、日本の再軍備をしなければならなくなってしまった。
ところが日本の再軍備がアメリカの国益に資するものである以上、戦後アメリカの民主化の方針で解放された日本共産党員をはじめとする左翼陣営が、素直に言う事を聞かなくなってしまったのである。
無理もない話で、日本の左翼というのは、限りなく共産党員に近い思考の持ち主で、日本の為政者には徹底的に抵抗することを本旨とし、日本の為政者が保守回帰を目指そうとすると、それに抵抗する思考が作用する。
ところが、このことはとりもなおさず、アメリカの占領政策のウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムを踏襲するということになるのである。
日本の保守勢力の理念は、戦争に負けたとはいえ、日本民族の誇りを持って世界に貢献しようという発想であるが、アメリカの進めようとするウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、この日本の保守勢力の理念のカウンター・パワーとして機能しているのである。
要は、アメリカは日本民族を徹底的に骨抜きにしようとしたのだが、共産主義者の思考する理念も、これと同じ軌跡を歩んでいるのである。
当然といえば当然で、共産主義革命を目指そうとすれば、その前段階として、既存の秩序や、規範や、法体系をご破算にしなければならないわけで、その過程が須らくウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムと同じなのである。
我々日本人というのはどうしてこうも政治下手で外交下手なのであろう。
先の大戦だって、昭和初期の政治家がだらしなかったので、軍人の跋扈を許してしまったわけで、政治家がきちんとシビリアン・コントロールを認識しておれば、軍人の跋扈ということは防げたと思う。
戦前の国会議員、つまり政治家の中でさえ、美濃部達吉や斉藤隆夫を自分たちで苛め抜いて、政界から放り出してしまったわけで、政治がこういう体たらくであれば、純真な軍人、真面目な青年将校が、世直しの旗幟を掲げてテロに走ることも充分にありうる。
だから歴史はその通りの軌跡を歩んだわけで、その遠因は政治と外交の稚拙さの相乗効果で、我々は奈落の底に転がり落ちたのであろう。
この政治家の不甲斐なさは今も立派に生きているわけで、これは一体どういう事なのであろう。
田母神俊雄氏の提灯持ちをする気はないが、彼の解任騒動も政治の稚拙さ、不甲斐なさを見事に露呈しているのであって、美濃部達吉氏や斉藤隆夫氏を糾弾した構図と全く同じではないか。
彼の上司いわゆる防衛省のトップは、シビリアン・コントロールの本質を真に理解していないと思われる。
それはある意味で無理もないところもあって、政治家というのは選挙で選出されるので、極端な話、田中角栄のように大学を出ていなくともなれるが、統合幕僚長ともなると軍事という専門分野ではあるが、組織内の最高学府で研鑽をつんできている。
大学出がすべて偉いというわけではないが、政治家が官僚よりもモノを知らないということは当然だと思う。
官僚は国家公務員試験を受けて官僚になっているが、政治家はそういう関門を一切潜ることなく、選挙という人気投票で選出されているわけで、トータルの知識量としては官僚を超えることができないはずだ。
こういうモノを知らない政治家が、各省庁のトップになるので、政治や外交が混迷の極みに至るのである。
政治家が大臣の椅子に座って、官僚から多少レクチャーを受けたところで、それはあくまでもつけ刃であって、こういう人材が国のかじ取りをしている限り、國そのものがダッチ・ロールになってしまうのである。
昭和の初期の段階でも、政治家がしっかりと信念を持って事に当たれば、軍人が跋扈することはなかったと思う。
確かに軍には統帥権というものがあって、そこには踏み込めなかったことは一面では真実であろうが、政治家ともなれば赤を黒と言いくるめ、白を青と言いくるめるぐらいの芸当がなければ、政治家足り得ない。
美濃部達吉や斉藤隆夫の論旨が問題化したとき、国会議員たるもの全員で彼らをフォローすべきであって、ここで彼らを見捨てて軍国主義者や、右翼に迎合したから、軍人が跋扈するようになったのである。
民主政治というのは突き詰めれば限りなく衆愚政治に近いということであって、田母神俊雄氏をあの状況で解任したということは、解任する側がつまり浜田靖一大臣が大衆に阿ったということである。
彼の発言というより、彼の論旨をそのままにしておくと、中国や韓国の反発を招く恐れがあるから彼を解任するというのであれば、あまりにも腰の引けた対応であり、物事の本質に無知というそしりを受けても仕方がない。
あの状況下で、ああいう措置になったということは、明らかにその危惧を考慮しての対応であったわけで、大臣たるものの資質が真に問われた事例だと言える。
あの状況下で大臣の責任が問われるということは、当然のこと、国民からの突き上げ恐ろしく、火の粉が我が身に降りかかってくることを恐れてのことであるが、こうなると国民の方がシビリアン・コントルールの本質がさっぱり理解していないということに突き当たる。
事実、今の日本の国民で、真にシビリアン・コントロールの意義を理解している人は少ないだろうと思う。
軍、軍部、軍隊というのは、基本的には政治や外交のツールであるべきで、主権国家が地球規模で生存競争を生き抜くためには、このツールを上手に使いこなさなければならない。
だが、戦前の日本では、このツールが統治の主体になってしまったが、戦後の日本では、逆にツールそのものを放棄してしまって、触らないように触らないようにしている。
軍の存在が統治のツールである限り、シビリアン・コントロールは生きているわけで、その意味では北朝鮮も中国もシビリアン・コントロールの国ということが言える。
ただ統治者がそのツールをどういう風に使うかが心配なわけで、その事から考えても、戦前の日本は実に不可解な存在であった。
この本の中で、著者自身が嘆いているが、「日本は良い国だ」といって解任されたが、この席に留まるためには「日本は悪い国だ」と言わなければならないのか、という疑問は切実な問題だと思う。
典型的で究極の自虐史観であるが、どうして我々はこうも自虐的な思考に陥ってしまったのであろう。