ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『戦後史の正体』

2012-10-11 08:16:30 | Weblog
妻の買い物のお供で入ったスーパーの本屋さんで、『戦後史の正体』という本を見つけたら無性に読みたくなった。
根が貧乏性なので、いくら好きな本と言えども、衝動買いすることはまずないが、この時ばかりはそれをしてしまった。
読み始めてみると、興味が尽きない記述が次から次へと出てきたが、冒頭に「今迄の戦後史とはいささか趣を異にする」と高らかに謳い上げている部分がいささか傲慢にも見える。
本を著すということであれば、人と違う意見の開陳であってこそ行為の意味付けがあるわけで、それをわざわざ勿体ぶって宣言されると、逆に興ざめの心境になる。
著者は1943年生まれで、私と同世代であるが、防衛大学の教授を務めただけあって、資料の分析はそつなくまとめているが、ものの考え方の基底は、私とはずいぶん異なる視点を持っている。
私が思い浮かべる人の在り様とは、自然の摂理に極めて忠実に従って生きることだと考える。
というのは、人間は自らの煩悩を超えて人のために尽くすということはありえないと考えているからである。
人が煩悩の内側で生きるということは、極めて自然に近い生き方と言えるが、人が物事を考えて、理性や知性を備えるようになると、この煩悩を克服とする衝動に駆られ、知的生活、知的な立ち居振る舞いというのは自然から極力遠ざかろうとする思考である。
人は基本的に身近な人間を愛し、助け、慈しみ、保護し、無償の愛を差し伸べるにやぶさかではないが、自分と敵対する相手には、これと反対のことをするのも生きとし生きる人間として、当然の振る舞いである。
人が生きるということは、生まれ落ちた場所での人間集団の中で生育し、その生育の過程では、自分の身の回りの集団の影響を大いに受けて生育するわけで、そこに固有の思考能力が醸成されるのも、極々自然の成り行きでしかない。
そういう視点からこの地球上に生きる人々を眺めると、この地球上に住むそれぞれの民族には、それぞれに固有の文化があり、固有の生活習慣があり、固有の思考回路が存在するわけで、それをひっくるめて民族性という言葉で言いあらわされる。
それぞれの民族がそれぞれに固有の考え方をするのも、その民族の過去の歴史がそうなさしめているわけで、個々の人間の意識的な作為でないことは十分考えられる。
当然のこと、人間の集合体には、自然発生的にリーダーができるわけで、このリーダーの存在は、集合体、つまり群れの利益を代弁する部分もあるが、リーダー個人の欲求の場合も充分にありうる。
この地球上で、それぞれの民族がそれぞれに生きるということは、究極の生存競争ということになる。
生存競争を生き抜くということは、自然の摂理に素直に順応して生きるということに他ならず、そこでは他を侵食、侵略、制圧することの是非は問われていないし、問えれない問題である。
やらなければやられてしまう世界である。食うか食われるかの世界である。
他を犯すことが良いか悪いかなど考えている暇などないわけで、考える前に敵を倒さねば、自分が倒されてしまうのである。
こういう中を生き抜いてきたそれぞれの民族は、それぞれに生き抜く術を心得ているわけで、それが民族性というもので、それぞれの民族の固有の思考方法であり、思考回路である。
この本の記述は、日本の敗戦から説き始めているが、戦後の混乱期を統治してきた吉田茂首相に対して、非常に厳しい観察眼を差し向けている。
今年の秋口に入ってから、NHKテレビでは『負けて勝つ』と題する吉田茂を主題としたドラマが放映されたが、このドラマでは吉田茂は甘い評価で描かれている。
ところがこの本では、吉田茂を対米追従者のグループに入れているが、その点私としては大いに疑問を感じる。
そもそも戦後の占領下の日本政治において、時の為政者を対米自主外交組と対米追従組という分け方はありえないはずだ。
あの1945年、昭和20年の9月から1951年の講和条約までの間に、日本にとってアメリカに変わりうる外国、連合軍側の国がありえたであろうか。
アメリカに変わって、ソビエット連邦がアメリカの代わりに成りうるであろうか。
中華民国がアメリカに代わりうるか。
中華人民共和国はまだ誕生もしていないではないか。
アメリカの占領政策が日本人のため、日本民族のためでないことは当然のことで、その為にアメリカは対日戦をしたのであって、アメリカの対日占領政策がアメリカの国益のためであったことは当然のことである。
アメリカが日本人のために占領政策を実施していると思うほど陳腐な思考もまたとないではないか。
1945年、昭和20年の日本という国家の在り様を、真に自分の目で見た人にとって、民族の誇りも名誉も自尊心もありうるはずもなく、我々は完膚なきまでに完全に敗北したのである。
私が不思議でならないのは、あの現状を目の当たりにしても、尚、徹底抗戦を称えた同胞の存在である。
戦の専門家、軍人の中の高官が、あの時点でもなお徹底抗戦を称える心境というのは実に不可解千万なことだが、誰もその不可解さに言及していない。
そういう人をも「国に殉じた人」と唱えてやまないが、冗談ではない、あの時点で戦争を止めなければそれこそ民族の殲滅に至ってしまうにもかかわらず、それを理解しきれていない同胞がいたことが不思議でならない。
戦後史の中で、日米安保条約を巡って国論を二分する大闘争が展開されたことは周知の事実であるが、この時の反体制側の闘争の趣旨は、時の為政者、岸信介がいけないという論旨であって、日米安保条約の中身を読んで、その内容に反対していたわけではない。
総理大臣が岸信介だからいけないという内容であったが、こんなバカな話があって良いものだろうか。
旧安保と新安保を読み比べてみれば、明らかに新安保の方が日本の国益にかなっているのに、そういう論点を見ずして、為政者が気に入らないので、条約そのものに反対だという論理が、大人の考えることであろうか。
結局、あの安保闘争というのは、物事の本質をいささかも真剣に考察することなく、ただただ反対派のプロパガンダに踊らされて、日本中が北から南まで大騒動に巻き込まれただけの事象にすぎない。
こういう中味の無い事を、一部の扇動者に煽られて、から騒ぎする風潮は、我々の民族の軽重浮薄な性癖であって、日露戦争の後のポーツマス条約への不信感や、関東大震災の後の朝鮮人襲撃のデマなど、数えれば切がないくらい我々の歴史の中には存在する。
話を戻して、1945年、昭和20年の東京の現状を目の当たりにして、なおも徹底抗戦を主張する戦争のプロフェッショナルの精神構造は一体どうなっていたのであろう。
普通の大人ならば、軍人でなくとも、あの焼け野原の東京の姿を一目見れば、もう我々の側に交戦能力が微塵も存在していないことは一目瞭然と理解できるはずである。
そして、いよいよ占領軍・勝者の軍隊の上陸・進駐が避けられないという現実を自覚すると、当時の行政の要職にあった人々は、真っ先にセックスのことを思い浮かべて、その対策に追われて特殊慰安施設の建設に邁進した事実を我々は今どう考えたらいいのであろう。
あの焼け野原の東京の中で、軍隊イコール慰安婦と連想をする我が同胞の精神構造をどういう風に理解したらいいのであろう。
この時の当局の言い分も、「日本女性の貞操を野蛮なアメリカ兵から守る」というもので、言葉だけは実に立派だが、そういう発想しか思い浮かばない日本当局の思考をどう考えたらいいのであろう。
昭和16年、日本がABCD包囲網に囲まれて、その結果としてハワイの真珠湾に先制攻撃をし、その奇襲攻撃成功の第一報をラジオで聞いた日本人は、その大部分の人が大喝采を送って、著名人、有名人の多くも「胸の中のもやもやが一瞬に消えて、清々した気持ちを味わった」と述べている。
日本海軍の真珠湾攻撃の成功は、これほど国民の支持を得た大事業であったが、戦争が終わってみると、あの大成功も上辺だけの表層的なものでしかなく、戦争の進化はそれから3年半の長期戦に移って、結果的には我々の側の敗北になってしまった。
戦争の責任という話になると、昭和天皇の戦争責任に話が一気に行ってしまうが、真珠湾奇襲攻撃の成功に浮かれた我が同胞の立ち居振る舞いも決して忘れてはならない。
昭和初期の日本人の中でも、その時点でアメリカの実態を知っている人は大勢いたと思う。
特に海軍兵学校や陸軍士官学校を出た若手の将校連中は、研修とか主張という名目で、アメリカを実際に見た人も大勢いたと思う。
当時は飛行機があまり一般化していなかったので、当然、船での渡航ということになろうが、港に一歩足を踏み入れた時に、カルチャーショックを受けないような人間であったとしたならば、わざわざ渡航するまでもない人物と考えなければならない。
感受性の優れた人ならば、港で船から一歩足を踏み出した時、今ならば飛行機のタラップを降りた時点で、カルチャーショックを受けないような人ならば、外国にまで来る意味がない。
我々日本人と西洋人では、特にアメリカ人では、それぞれの一挙手一投足にカルチャーギャップがあるはずで、それを肌で感知しない、あるいは感知できない人ならば、外国人と交わることはしてはならない。
私は戦後、進駐軍に占領されていた小牧基地の傍で育って、パンパンとGIと10輪トラックの中で成人に達したが、年に一度のフレンドシップデイには基地の中の入ることができた。
ゲートを入るや否や、大きなカルチャーギャップを味わった。
それは発想の段階から大きな違いがあって、具体的にはアメリカ軍のジープを見れば一目瞭然で、ジープという車は、完全に機能一辺倒で余分なものは一切備えていないが、我々の発想ではそういう事は想定さえしえないに違いない。
屋根もドアも布(キャンパス地)で出来ていて、戦闘の時にはそれを取っ払ってしまう、という発想は我々には思い浮かばない思考だと思う。
この本の著者は、日本とアメリカはお互いに主権を尊重し合う対等の関係を夢見ているが、今迄もこれからも、日本とアメリカは対等の関係にはなりえない。
アメリカは自国の国益のために日本を使うし、日本もアメリカと同盟を組ながら、アメリカの国益のおこぼれを追いかけるということになる。
我々日本人は、国際社会の中を上手に泳ぎまわって、自分たちの国益を増殖させるという発想がもともとないわけで、額に汗して黙々と働けばきっと何時かは周りも認めてくれるだろう、という他力本願な思考であって、アメリカの後をくっついていくほかない。
中国には中国の歴史始まって以来連綿と中華思想というのがある。
アメリカには、建国以来連綿と人種差別という潜在意識から抜けきれていない。
我々日本人は、有史以来、モノ作りには長けているが政治的には大人に成り切れていない。
第2次世界大戦が終わった時点で、世界中が共産主義の猛威に晒された。
日本でも占領軍の指導で、思想信条の自由が保障されて、日本共産党も合法的に活動できるようになったが、共産主義者の使命というのは、共産主義革命を成すことにあるわけで、その前段階として既成の秩序や規範、価値観の破壊ということがある。
これを普通の社会生活の中で実施されると、社会は大混乱に陥るが、共産党からすれば、それが目的なのだから収拾がつかなくなるのは当然の帰結である。
だけれども、戦後67年間という長いスパンで日本の初等教育の現場を共産党員が占拠して、日本の古来からの美徳をことごとく誹謗中傷したので、次世代においては昔の価値観が通用しなくなって、日本人のモラルは極限にまで低下してしまった。
最近、電車やバスに乗るとハンデイーのある人専用のシートが確保されている。
如何にも「障碍者を大事にしていますよ」と言わんばかりであるが、そういう措置をしなければならないほど、人々の心が荒んでいることを示しているわけで、人々の心に真の優しさがあれば、わざわざ優先席など設けなくとも自然に席を譲る行為ができるはずだ。
人々の心に真の優しさが芽生えていないので、いくら優先席を設けても、心ない若者が我が物顔にそれを使うということになるのである。
戦後の初等教育の現場を日教組という共産主義者が席巻したことによって、我々の古い価値観は木端微塵に粉砕されてしまい、それ以降の我が同胞の若い世代が、律儀な若者になる訳がないではないか。
日本の今のこの現実は、対日戦に勝ったアメリカの基本路線でもあったわけで、アメリカは日本をこういうだらしない国にすることが、対日占領政策の終局の目的であった。
アメリカの最も恐れているシナリオは、日本が再び民族の力を結集して、アメリカに歯向かってくる恐れであって、そうあってはならじと、深慮遠謀の策として日教組の活動を野放しにしてきたのである。
アメリカにとって日本ほど恐ろしい民族は他にありえない筈である。
アメリカは戦争の好きな国で、対日戦以降も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争と、絶え間なく戦争をしているが、対日戦ほど真剣に戦争をしたことはない。
そういう意味からしても、アメリカは日本に対していささかも油断してはいない。
その上、彼らには日本人に対する蔑視の感情が見え隠れしており、それを我々は見落としてはならない。
ところが我々の側の政治的感覚は全く稚拙なので、アメリカの本音がどこにあるかさっぱり探り切れていない。
アメリカの本音のみならず、日本を取り巻くあらゆる諸国家の本音も、本来ならば慎重に探って、用意万端整えるべきところが、我々の側にはそういう感覚が全く未発達である。
ここで大事なことはメデイアに対する対応であるが、我々はこれが真に下手で、メデイアを使い切ることがことのほか稚拙である。
メデイアの言うことが真実でないことを十分に心得ておきながら、情報を小出しにして、世情の動向を探りながら、コントロールするという芸当ができない。
日中戦争においても、中華民国の蒋介石は、自分の奥さん宋美鈴の世界的人脈を利用して、アメリカを自分の味方に引き入れたわけで、その点日本は自分の独善的な思い込みで行動を起こすので、世界の誤解を招いてしまうのである。
要は、メデイアを如何に使うかという話であって、メデイアの使い方としては、情報を得るという一方的な使い方と合わせて、如何に偽情報を発信するかという使い方もあるのだが、我々はそういう使い分けが何とも稚拙である。
政府の要人や官僚のトップともなれば、メデイアをインテリヤクザという視点で見るぐらいの度量がいるのだが、何時もいつも、自分の足元をすくわれるのではないかいう恐怖心におびえている風に見える。
メデイアに対する対応は、何も喋らないことで、メデイア側に喋らせるように仕向けるべきである。