ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『日本、買います』

2012-10-20 08:51:26 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『日本、買います』という本を読んだ。
サブタイトルには「消えていく日本の国土」となっていて、著者は環境省や農林省に在籍した官僚の平野秀樹という人だ。
書かれている内容は極めて深刻なものであるが、我々のような平凡な市民には実感が伴わない。
普通の国民が危機感を持たない、気が付かないところが、この著者が最大の関心を寄せる理由になっていて、日本の国土が外国人の手に渡っている現実を直視すべきだ、と強調することがこの本の論旨である。
外国人が安易に日本の土地を買うことができる、ということは、日本の土地に対する法整備が明治維新の時からいささかも発展していない点にある、というのが大きな要因のようだ。
日本における土地に関しては、公権力の方が個人の私権よりも弱いところに問題があって、公共の福祉よりも、個人の我儘の方が優先されている。
これは自由のはき違いというか、民主主義の過信というか、無知の専横というか、戦後の民主化の結果としての国民の意識の弊害の部分である。
戦前の古い法体系に対して、戦後の民主的な人権意識を安易に覆い被せたので、ここで価値観の錯綜が起きてしまった。
公権力よりも私権の方が強いという事象は、明らかにその基底の部分に、戦後の共産主義の思考が入り込んできているが、共産主義ではそもそも個人の土地所有を否定しており、既成権力に対してはとにかく何でもかんでも徹底抗戦するという態度が引き継がれている。
そして保守VS革新という対立軸でモノを見た場合、革新陣営に身を寄せた方がなんとなく大衆受けするわけで、世の物わかりの良いと思われたい人々は、全てそちらの方向に傾いてしまった。
国家と個人が対立した時、事の論理性を考える前に、国家の側、体制の側、行政サイドのすることなすことはことごとく許し難い行為だ、という出鱈目な論理で個人の権利を優先させたのである。
かつて東京都知事であった美濃部亮吉は、「独りでも反対者がいれば工事を中止する」という論理で、都内のインフラ整備をことごとく遅延させたが、これは民主主義の全面否定と言える。
この言葉は究極のポピリズムの具現であって、世の知識階層というのはその大部分の人がこういう都知事を支援したのである。
この美濃部亮吉は本人も言っているようにマルクス経済学者であって、共産党員に限りなく近い存在である。
共産党員のこの世の存在意義は、既存の秩序の破戒なわけで、公権力よりも私権を優先させるという思考は、立派に現行秩序の破戒に貢献している。
革新勢力にとっては彼らの言う世直しの王道ということになる。
革新勢力の言う世直しと、保守勢力の言う世直しでは、その価値観が正反対なわけで、革新勢力のいう近未来の日本は、普通にいう日本民族というものがこの地球上から消え去って、その空いたところに共産主義のユートピアを建設するというのが彼等の夢であろうが、問題はそれを成す人間の資質である。
美濃部亮吉氏の羨望した共産主義の国家というのは、共産主義では継続的な国家運営はできないということを彼等自身が証明したわけで、それを夢見ていた美濃部亮吉というマルクス経済学者は、夢を喰うバクのような奇妙奇天烈な存在でしかなかったということだ。
ここで考えねばならないことは、彼を東京都知事に推した東京都都民の存在であって、その人たちの思考回路であり、彼らの潜在意識の在り様である。
美濃部氏がマルクス経済学者であったということは、秘密でもなんでもなく、彼の選挙用のセールスポイントであったに違いなかろうが、それに惹かれた都民の側は一体彼の思考のどの部分に魅力を感じていたのであろう。
今にして推測できることは、彼が、「一人でも反対すれば事業を推し進めない」という政治姿勢に共感を覚えたと考えられる。
この彼の言葉は明らかに公権力よりも、個人の権利、私権を優先させる考え方であって、これでは世の中が良くなるわけがないではないか。
少なくとも美濃部亮吉が学者の端くれであったとしたならば、こういう不合理、非合理、我儘、ごね得を説得して、9割がた出来上がった社会的インフラの完成に貢献すべきであって、個人の我儘を助長するような発言は慎むべきだと思う。
ところが彼は限りなく共産党員に近い思考の持ち主だったので、世の常識の逆を行ったのである。
この地球上の如何なる民族、主権国家でも、長い年月の間には良い時もあれば悪い時も交互に打ち寄せてくるのが常態だと思う。
未来永劫、右肩上がりの発展というのはありえないと考えられる。
だから21世紀の初頭という時期において、日本という国とその上で生きている日本民族という人間集団が、文化・文明の下降線をたどっているとしても何ら不思議ではない。
今の日本はそういう状況に陥っているに違いない。
そもそも21世以降の地球上には主権国家というものは存在していないかもしれない。
しかし、概念上の国家はなくなっても、地球の陸地の上には人間は住み続けているはずで、国家はなくとも人はその場に居残っていると考えられる。
人類の誕生から今迄の国家の使命というのは、国民の生命と安全を守るためにあったわけで、国家の枠組みが消滅するということは、大昔の自然の状態に立ち返ったと同じである。
人々は自分の国の保護に頼ることができなくなって、個々にそれぞれの危機に立ち向かわねばならないということである。
こういう状態になることを、戦後の日本の知識人たちは願っていたわけで、今それが実現しつつあることをこの本は指し示している。
私はこの本を読むまで、日本では地籍の掌握は完全に出来上がっていたと思っていた。
バブル経済華やかりし頃、「地上げ」という言葉が行き交って、それな土地の管理が完全に行き渡っていたので、土地の売買に高値が付いた、と理解していたが土地の値段とそれを誰が持つかという話では次元が違うようだ。
この本の言わんとするところは、土地の値段というものが極めて曖昧な基準によって成り立っていて、その曖昧な基準で売買されているということらしい。
曖昧な基準というのは、その面積の大きさに何通りもの見解があって、はっきりと確定しないまま、高額の値段で売り買いされているということらしい。
そういえば、毎年新聞に発表される路線価と課税評価額というのも、同じ土地に対する2重の価値を表示しているということなのであろう。
その時でも、公権力と個人の権利が衝突した場合、個人の権利が優先されて、我儘が通ってしまうというのが現状らしい。
ここで少しでも自分たちの社会を良くしようと考えて発言する人が現れれば結構なことであるが、そういう問題には誰も感知したがらないところに我が同胞の不甲斐なさがある。
更に言えば、こういう目の前の不合理には教養・知性に富んだ知識人が積極的に発言すべきであるが、こういう類の人達は、その全てが革新系であって、自分たちの政府や行政に弓を引くだけの存在であるところが日本の悲劇である。
日本の土地の売買には、外国人が絡んでくる、つまり外国人が日本の土地を買うという事を想定していなかったわけで、そういう事に対する手当てが未整備であった。それはそうだと思う。
明治時代にできた法律に何の手を加えないまま今日にまで来ているので、今の世界的なグルーバル化の波に対応できていないのも無理のない話ではある。
ところが、この外国人が日本の土地を買うということも、表面化した大きな流れではなく、彼らは巧妙にも日本の会社をダミーとして使い、直接的には外国人が土地売買に直接関与している風にはなっていないので、その実態は闇に葬られているに過ぎない。
問題は、このように表面化していない事柄に対して、先行措置をとることの是非が問われているわけで、まだ何も起きていないことに対して予防措置をとることは、我々は非常に臆病だということだ。
昨年の3月11日に東日本が大震災に見舞われて、その経験から鑑みて、多分、来るであろう東南海地震に対する地震対策も思うようには進んでいないみたいだ。
外国人が土地を買いあさる現象も、来るであろうと言われている東南海地震に対しても、その確実性が極めて曖昧なものだから、国民としては半信半疑にならざるを得ない。
地震対策にあまり乗り気になれないのと同じように、外国人が土地を買い占めているからと言って、直ちにその対応策を講じるというのも、理性ではわかるが実際の行動では、そう安易に運ぶものではないことは十分にありうる。
未来を予測してあらかじめ準備を整えておくということは理想ではあるが、そこまで見通せる人は立派な人だと思う。
しかし、素朴に、自分たちの祖国の土は外国人には触らせない、という発想はそうこ難しい事ではないともいえる。
明治時代には外国人が日本の土地を買うことが想定できなかったっとしても、現実に「ガルトネル事件」というのがあったのであれば、それは大きな教訓であったはずなのだから、その時に気が付かねばならなかったはずである。
このことは、我々日本人同胞は、所詮、井戸の中の蛙的発想から抜け切れないということであって、生き馬の目を抜く国際社会では生き抜けないという端的な証明でもある。
我々の発想は、究極の性善説で、「この世に悪人などいるわけない」という発想である。
この本の主題は、日本の国土を外国人、特に中国人が狙っているからというわけで注意を喚起しているが、この地球上の諸悪の根源は、全て中国人の存在に帰する。
彼ら中国人は、そもそも祖国、主権国家、自分の国という国家の概念を持っておらず、いわば究極のコスモポリタンと言うべきだ。
我々は自分の国、自分の祖国という概念があるからこそ、その中身を中国人に買い漁られると、祖国が空洞化するのではないかとそれを恐れているが、中国人は祖国という概念を持たないから、地球上の何処でも生きていけれるので、まさしく究極のコスモポリタンである。
我々日本人、日本民族も、かつては世界最高の経済成長率を達成して、繁栄の頂点を極めたので、後は下り坂を転げ落ちるだけであったとしても不思議ではない。
地球の過去を振り返って眺めてみても、何時までもいつまでも、未来永劫、右肩上がりを続けているところはないわけで、繁栄と衰退はサインカーブ、コサインカーブのように繰り返すものだと思う。
だから日本がこの先、衰退に向かったとしても何ら不思議ではないが、惜しむらくはその遠因のところに共産主義という外来思想に毒された、教養と知性に富んだ知識人、知識階層、大学教授、評論家の存在があったという点が心残りではある。
本来、こういう頭の良い人、頭脳明晰、学術優秀なオピニオン・リーダーたるべき人々は、無知蒙昧な大衆を、自分たちの社会が映える方向にリードすべきであるが、日本の高学歴で立派な知識人であるべき人々は、先の大戦の後遺症として、日本が再びアジアの諸国家に迷惑をかけるのではないか、ということを恐れて、祖国を骨抜きの方向にリードしてきたのである。
自分の祖国を優先的に考える前に、周辺諸国の国益を慮って、自虐的に振る舞ったわけであるが、これは我々の価値観では「謙譲の美徳」であるが、相手にすれば弱みを晒したということになる。
それもひとえに、この世にマルクス主義という似非宗教が生まれたからである。
麻原彰晃のオウム真理教の例を見るまでもなく、高学歴で優秀な人でも、どういうきっかけかわからないが実に安易にイカサマ宗教にのめり込んでしまうのだから、明治以降の日本の近代化の中で、日本の優秀な逸材が共産主義というイカサマ宗教に誘惑されるのも致し方ない面もあったかもしれない。
逆に、優秀であればこそ、その宗教のイカサマにも気が付くべきであったともいえる。
日本の土地に対する法律に大きな瑕疵があったとしても、その瑕疵を暴き、問題化して、是正措置を講ずるように活動すべきは、本来ならば現場の官僚であり、行政であったのではなかろうか。
我々は海に浮かぶ孤島の住人なので、良くも悪くも他との比較で物事を悟る習性があるが、この外国人の土地所有に関しても、余所の国の事例に疎かったので、気が付いたら日本だけが何の規制もなく青天井だったということだ。
我々、自分たちのおかれた地勢的な状況は変えることができないので、これから先も未来永劫、中国とは一衣帯水の隣国という位置関係の中で生きねばならない。
日本と中国の関係は、人類の誕生以来、連綿と交流が続いてきたと思うが、にもかかわらず我々は歴史から何も学んでいないということはどういう事なのであろう。
我々から見て中国は決して甘く見てはならない。
日中友好という文言も、決して油断してはならないし、気を抜いてはならないということを肝に銘じるべきであるが、そこに甘さが見え隠れする。
今、日本から中国に進出している企業の数は2・5万社とも3万社とも言われているが、この企業はこれから先、自分の会社を中国から撤退できないようになっているということだ。
つまり、日本
それを承知して進取した企業は、それはそれなりの考えがあってのことだろうが、普通の常識ではありえない話だと思う。
だが、我々はこういう隣国と、好むと好まざると関わらねばならないということである。
こういう事情を全部承知したうえでの、日中友好であるならば、それはそれなりに筋は通っているが、日本と中国では明らかに価値観の土俵が違っているわけで、この価値観の相違は克服のしようがない。
日本と、中国や韓国以外の外国とでは、普通の話し合い、交渉というのは成り立つ。
話し合いの中で、妥協や譲歩の接点を探り合えるが、中国と韓国とはこういう話し合いが通じないわけで、自分の主張を一方的に押し付けるのみで、話し合いということが成り立たない。
端的に言えば、「人のものは自分のもの、自分のものも自分のもの」というわけで、相手の言い分を聞くという発想が最初からないわけで、盗られる方が悪いという論法である。
日本企業の撤退が許されないということは、実に見事にこの論理を展開していることであって、それこそチャイナ・リスクそのものであるが、それを知らずに進出したとすれば、まさしく盗られた方が悪いという論理が生きているということだ。