ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『米中百年戦争』

2013-02-22 08:05:47 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『米中百年戦争』という本を読んだ。
サブタイトルには「新・冷戦構造と日本の命運」となっている。
著者は春原剛と書いて「すのはらつよし」と読むらしいが、相当に難解な名前だ。
名前が難解だからと言って、作品の評価とは何の関係もないが、この作品、実に読み憎い本であった。
活字が小さくて、センテンスの切れ目が少なく、実に重苦しい文章であった。
内容的には冷戦が終結した後でのアメリカと中国の関係が克明に記されているが、その記述が余りにも克明すぎるので、読むものがついていけれない。
米ソの冷戦が終結した以上、「次に世界制覇の舞台に登場するのは中国だ!」という意識は中国人自身が既に自覚していると思う。
旧ソビエット連邦でも中華人民共和国でも、自由主義陣営に対して強気の外交交渉に出てこれるのは、彼らには国の責任として自国民の生命財産を庇護するという概念が無いので、国家指導者の意のままに戦争をする自由があるからである。
自分の国の人々に対して、彼らの生命と財産に責任を負わなくてもいいというのであれば、国の指導者は全ての権利を預託されたようなもので、何をやっても許されるということになり、事実そうなっている。
ところが民主国家では戦争をするには国民の負託を考えねばならず、「如何なる国難でも戦争するまでのことはない」と国民が判断すれば、それ以上のことは出来ないが、旧ソ連や中共ではそういう機能は確立されていない。
昨年の中国の代表者会議で次の指導者が周近平になったと伝え聞いているが、彼は1953年生まれ、日本の年号で言えば昭和28年生まれで、60歳という年だ。
明らかにアジア大陸で日本が敗退した後になって、国民党政権と中国共産党の内戦で勝敗が決し、アジア大陸の大分部を共産主義者が席巻した後に生を受けた世代であって、中国革命の第2世代、あるいは第3世代ではないかと思う。
だとすると新しい中国の指導者は、革命前の事象については全く馴染みが無いわけで、古い価値観に対していささかの理解度は無く、有るのは新しい共産主義に順応した新しい価値観のみである。
この地球上に誕生した人類は、基本的にはみな同じ生活様式を持っていたに違いない。
穀物を栽培するか、あるいは獲物を追いかけて狩りをするかの違いはあっても、人というものは一人では生きれないという点については皆同じだと思う。
一人では生きられないので、人が寄り集まって社会が出来るのだが、社会が出来ればその中では秩序が形成される。
最初は単純な秩序だったろうと思うが、そのうちに人間の数が多くなって社会が複雑化してくると、その秩序を成文化したり、慣用化したり、躾けになったり、習慣になったり、モラルになったりしたしたわけで、それは一つの文化を形成することになる。
そういう歴史の積み重ねの結果として、世襲制に依拠した金持ちと、年がら年中貧乏暇なしで働きづめの階層が出来てきた。
そうすると「こんな人間社会はおかしいではないか」という発想が出てきて、それが共産主義というもので、言うまでもなくマルクスとエンゲルスがそれを学問的に系統立てたが、その言っていることは真に立派な事であって、何人もそれに異議を差し挟めないほど見事な論旨であった。
しかし、いくら立派な思想でも、それを司る人間が煩悩に犯されておれば、それは絵に描いた餅になってしまうわけで、理性的な思考をする人は、あまりにも立派な理想を掲げた共産主義には同調しなかった。
そういう立派な思想に身も心も投げ打って飛び込んで行った人は、基本的に心が清らかで、その上純真で、穢れを知らず、思い込んだら一直線に突き進むタイプの人たちであった。
人類誕生から19世紀までの歴史的時間の中で、人間の世俗的な世界は貧富の差が極端に大きくなってしまって、地球上には不公平感が蔓延してしまったが、丁度その時に忽然と沸いて出てきたのが共産主義という考え方で、その考えのもとに地球規模で革命で以て世直しをする機運が昂揚してきた。
こういう新しい考え方も、最初は裕福な貴族の善意で以て無知蒙昧な貧しい人々に説かれたが、その世直しの為には金持ちを殺してもいい、階級の上の者は殺してもいい、組織のトップは殺してもいい、古いモラルや規範は守らなくてもいい、と教えられた無知蒙昧は群衆は、その教えられた通りの行動を起こしたのである。
その教えを厳格に遵守したのが、無知蒙昧な烏合の衆としての民衆であり大衆であって、理性的に自分の脳で物事を考える人は、こういうバカな人々によって悉く粛清されてしまった。
そういう革命が起きたのが旧ソビエットと中国であったわけで、こういう国々が革命に成功したということは、普通にモノを考えることのできる人間よりも、無知蒙昧な群衆の方が多かったということを如実に示している。
そしてこういう愚昧な民衆や大衆が、資産家や、銀行家や、農村の長的な指導者を全部殺してしまったので、社会が正常に回らなくなってしまった。
つまりそういうレベルの人を全部殺してしまったので、ここで価値観が断絶してしまって、昔のモノの考え方が通じなくなってしまった。
だが、昔も今も人の生き様というのはそう極端に変わるものではなく、強いモノにはすり寄って、ゴマを擦りながら生きるという、生活の知恵はそう安易に変わるものではない。
革命が成功したということは、そのことによって昔の価値観が全否定されたことで、その事は人間としての普通の処世訓が意味をなさなくなったということである。
だが人々は生き続けねばならないわけで、倫理観はここで一旦断絶してしまったが、共産主義者にとっては昔の倫理観は諸悪の根源であったが、それに代わるものが見つからなかったので、世の中は支離滅裂になってしまった。
ところが共産屙主義を受け入れなかった人々は、今日に至っても、尚、人間誕生以来の精神性に重きを置いているわけで、新しい共産主義の価値観とは相いれないのである。
だから共産主義でない世界では1+1は2であり、2+2は4であるが、中国を筆頭とする共産主義の人々では1+1が3であり、2+2は5になっているのである。
我々は自由主義の世界に住んでいるので、1+1は2で、2+2は4という認識で生きているが、彼らは1+1が3で、2+2が5の世界に生きているので、同じ価値観を共有できないのである。
その上、人権意識も希薄なので、国民が死のうが生きようがその国の指導者はあまり意に介さない。
毛沢東が言ったとされているように、原爆で1億や2億が死んでも、中国にはあと10億の人間がいるという感覚である。
国民がいくら死のうが意に介さないのであれば、何時でも何処でも戦争が出来るわけで、その意味では日本もアメリカも中国が直接武力に訴えて来るような政策は何が何でも避けねばならないことは言うまでもない。
共産主義で以て我々と同じ価値観を持ち合わせていないという点と、国民が少々死んでも意に介さないという二つの面で、自由主義陣営も迂闊には相手の挑発に乗れないことは言うまでもない。
中国人の発想は、共産主義という怪物と言うべきか宗教と言うべきか、そういう彼らのモノの考え方の前にも、中国人の独特の発想にも大いに違和感があった。
それは中国人というのがネイティブ・エイジアン。アジアの先住民という部分である。
南北アメリカ大陸にはもともとネイティブな人々は住んでいて、そこにヨーロッパから移民として新しい人々が渡ってきて、そこでもともとあった文明は接木されたように、新しい環境の下ですくすくと伸びたのが今のアメリカンカルチャーである。
ところがアジアではヨーロッパ人は移民してきたわけではなく、ただ単に富の草刈り場に徹し切ってしまった。
ネイティブ・エイジアンの方もヨーロッパ文明を拒否する方向に作用して、近代化を遅れさせてしまった。
中国人というのはまさしくネイティブ・エイジアンであって、アメリカ大陸であればネイティブ・アメリカン、いわゆるインデイアンであって、その生態はまさしくそれと同じではないか。
ネイティブ・アメリカンもネイティブ・エイジアンも人類学上ではモンゴロイド系であって、親戚同士のようなものではないか。
そういう視点で中国人を眺めてみれば、十分に納得のできる部分があるように思えるではないか。
新大陸のアメリカに渡ったヨーロッパの人々は、いわゆるヨーロッパを食い潰した人たちで、もうこれ以上生きる場所が見つからないので、自ら生き延びんがために大西洋を渡ったわけで、その意味でいわば怖いもの知らずであった。
とはいうもののヨーロッパの従来の思考を全部捨て去ったわけではなく、その意味では共産主義革命とは明らかに異質な思考であったが、新天地に来たという意味で、過去のモノの考え方には捉われることなく、思ったことを思った通りに実践できる、という思考のリストラクチャーは有り得たと思う。
つまり、古いヨーロッパで人々を支配していた習慣とか、因習、仕来たり、既成概念や信仰に束縛されることは無いわけで、自分の思ったことを思った通りに実践できたに違いない。
これは言い方を変えれば下からの変革なわけで、民主主義の基底を成した思考であったが、古代からの歴史が連綿と続いた民族では、こういう発想の転換が極めて困難で、どうしても歴史というものを引きづり込んでしまう。
その意味では、我々の国も1945年昭和20年において大きなエポックを迎えて、ここで我々の歴史は一旦途切れてしまった。
この時に我々の国も共産主義の国になる条件は全部で揃っていたが、それを阻止したのはほかならぬアメリカであった。
尤もアメリカが日本の天皇性を継続したのは、日本の為という訳ではなく、アメリカの為であったことは知って置くべきであるが、結果として我々は古代からの天皇制をそのまま引き継いでいることになる。
中国というよりもアジア大陸では、日本の天皇制のようなシステムを持った国というか民族は、生まれては消え消えては生まれていたわけで、その地に生まれ出でた人々は、自分たちの君主なり領袖つまり指導者に対していささかも信がおけなかったにちがいない。
いくら協力してもいつ裏切られるかわからないわけで、それは民を治める側も同じ気持ちを持っていたに違いない。
だからこの地に住む人々は、自分自身の心しか信じるモノを持たなかったわけで、私の言い方で表現すれば究極の個人主義ということになる。
だから地球規模で以て1+1は2であり、2+2は4であるという論理を無視して、自分たちの論理を押し付けてくるのである。
こういう論理展開をしてくる相手に対して、どういう説得の方法・仕方があるというのだろう。
この発想の矛盾は台湾の存在に集約されているわけで、蒋介石の国民党軍が毛沢東の八路軍に追われて台湾に渡って、中国本土では中華人民共和国という新しい国家が誕生したのならば、台湾は旧の中華民国のままにしておいても良さそうなのに、それを許さないという発想は、いかにもシナ人らしい頑迷な思考と言える。
毛沢東という新しい皇帝の極めて個人的な覇権主義の表れであって、その中には自分たちの民族あるいは自分たちと同じ同胞という意識は全く存在せず、自分に敵対する敵という意識に過ぎない。
彼らは共産主義という思考でアジアの大部分、中国という国土を席巻したが、統治という意味では、秦の始皇帝や清朝の西太后と同じレベルの発想でしかない。
共産主義という考え方の中には、マルクスやエンゲルスが心血を注いで考え抜いた、生きる人間集団の理想の生き方が描かれている筈であるが、それを掲げて革命を成した人々は、既存の勢力を殺してしまった暁には,自分たちの立ち居振る舞いも自分たちが抹殺した人達と同じことをしていた、ということに気が付かなかったのである。
中国共産党がアジア大陸を席巻して、蒋介石の国民党政府は台湾に逃げたので、中国というのは中華人民共和国と中華民国という二つになったわけであるが、中華人民共和国は余所の国が台湾、中華民国と付き合うことを忌み嫌うわけで、この部分が中国人の独特の思考回路だ。
第2次世界大戦の前まではイギリス、フランス、オランダという国々はアジアに植民地を持っていた。
そこに日本軍が侵攻して、旧宗主国の軍事的パワーバランス粉々に打ち砕いてしまったので、戦後それらの国々は独立を確保した。
この時に、旧宗主国、イギリス、フランス、オランダが、旧植民地の独立を認めず武力で脅している構図であるが、こんなことは第2次世界大戦後の世界で通用するはずもないが、中国はそれをしているという訳だ。
世界は中国の存在に相当怯えているのではないかと思う。
国連の常任理事国には当初中国が入っていたが、この時の中国は蒋介石の中華民国であって、毛沢東の中華人民共和国ではないはずである。
ところが知らぬ間に、中華人民共和国が常任理事国になり、台湾・中華民国は除外されてしまった。
こんなバカな話もないと思うが、この時の国連というのは一体何をしていたのであろう。
この事は、国連の常任理事国の在り方を再検討すべきということを示唆していると思う。
旧ソビエット連邦が崩壊してロシアが常任理事国になるというのも筋の通らない話だと思う。
いくら立派で理想的な思考でも、それを実践するのは人間であって、人間であるからこそ、その人の持つ煩悩でその人の行動がコントロールされることになり、それがその他の大勢の人の不満を集約することにもなりかねないわけで、その際に時の権力者が如何なる行動に出るかによって、民主化の度合いを測るバロメータになりうる。
昨今の中国の勢いは計り知れないものがあって、アメリカと肩を並べるまでになってきている。
最も新しいニュースでは、中国の軍部の情報機関がアメリカのコンピュータに対してサイバー攻撃を仕掛けているということまで流されている。
十分にありうる話であるが、ここで我々は肝に銘じて知っておかねばならないことは、中国という国は自国民の生命財産にいささかの懸念も抱いておらず、それらを守るという意思がないので、国民の犠牲を極力回避するという意思を全く持っていないということである。
国民が少々殺されても、国威を前面に出すことを優先させ、国土の拡大を目指し、世界に覇権を示すことに現を抜かすということである。
相手が戦争も辞さない覚悟でいれば、まさしく怖いものは何もないということで、相手にこう開き直られると、我々としては手も足も出ないということになってしまう。
話し合いと言ったとところで、価値観が根本的に違っているもの同士でいくら話し合ってみたところで、無に無を重ねるだけで妥協点が見つけだせるわけが無い。
我々は無用な殺傷は極力回避しようと、出来るかぎりの努力を重ねようとしているが、相手は自国の犠牲を顧みることもなく、押せ押せムードで押し切って来るので、こちら側としては手の施しようもないということになる。


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