ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「日本人はなぜ海外で通用しないのか?」

2012-07-06 07:01:02 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「日本人はなぜ海外で通用しないのか?」という本を読んだ。
この本も新刊書のコーナーから借りてきたので新刊のほやほやである。
先に読んだ、「超・底力」とは真逆の表題で、これらの本が並んで展示してあった。
我々、日本民族の潜在能力も確かに目を見張るものがあると思うが、我が同胞の海外での活躍のシーンがあまり評価されないのも真実だと思う。
しかし、海外で我々の同胞が相手からどう思われているのか気にすることも、我々同胞の特質ではなかろうか。
時々、中国人が過去の日本の業績を非難するアクションを起こすが、彼らは自分たちの同胞、つまり中国人が日本で如何なる悪事を働いても、いささかも良心の呵責に感ずることはないわけで、それが彼らの国民性の大きな特徴でもある。
彼らは自分の国内に50もの民族を抱え込んでいるので、我々日本人の認識で言う「同胞」という概念が確立し切れないのも無理からぬことかもしれない。
彼らは自分の祖国という概念を持っていないので、世界中に分散しているが、行った先々で自分たちのテリトリーを形成し中華街を作り、リトルワールドを形造る。
ところが我々は、先方から「日本人が中国の地で悪行三昧をした」と言われると、心の底から贖罪の気持ちに苛まれて、良心の呵責に耐えきれずに先方の言いなりになってしまう。
そういうことが度重なって、中国をはじめとするアジアの人々は、日本に対する対応の仕方を学んでしまって、日本に対応するときは、歴史問題をぶつければ譲歩が得られるということを学習してしまった。
日本人が海外で活躍できないというのは、言葉の問題もさることながら、我々の民族としての生き様も、大きく影響し合っていると思う。
というのは、今も申したように、外交下手というか、我々の固有の倫理感が、自分で自分の手を縛るという自虐的な思考に至っている面がある。
先にも述べたように、中国をはじめとするアジアの人たちから、「日本は過去に我々を侵略した」と言われると、それを真っ正直に正面から受け入れて、真に生真面目にそれを受け入れようとする。
口先三寸で、饒舌に、そして能弁に自説を押し通して、相手を煙に巻くという芸当ができない。
巨大な資金を持っていても、ニューヨークタイムズの紙面を金で買って、自己の主張、正当性を世界に向けてアピールするという芸当ができない。
日本は第2次世界大戦後、憲法で戦争放棄を謳っているので、相手の主張を武力でもって跳ね返すことはできないが、そうであればこそ言論でもって自分の意見を主張して、相手の非を暴き、国際世論に訴えて、自分の正当性を世界に知らしめるという行動をとるべきであるが、そうはしない。
世界の中で生き抜くということは、生き馬の目を抜くような熾烈な生存競争を掻い潜るということである。
そこでは善意や、好意や、良心は何の役にもならないが、我々はあくまでも我々の倫理感に依拠した価値観の中で生きようとする。
この我々の価値観は天地神明に誓って「良い事」だ、世界に対して普遍的な「善だ」という思い込みは、ある意味で我々の独善でもある。
昨年の東日本大震災でも、内外から大きな支援を仰いだことは事実であるが、基本的には我々自身の復興への努力があったわけで、それは同胞内の助け合いに他ならない。
これも我々が海で囲まれた同質性の極めて高い民族であるが故の一側面であって、我々は危機に瀕すると、内側に固く結束する民族性を持っている。
アジアの日本以外の諸民族は、それぞれにヨーロパ先進国の植民地にされたが、日本は戦争で敗北したとはいうものの植民地になったことはない。
しかし、彼らは植民地になったことで、宗主国の言語を安易に受け入れて、自分たちの言語を捨てて、相手国の言語を引き入れた。
我々は戦争でアメリカに敗北し、国土はアメリカに占領されたが、言語までアメリカ化したわけではなく、日本古来の言語を維持し続けた。
ところが21世紀という時代になると、これが裏目に出て、言語がアメリカ化しなかったが故に、グローバル化に立ち遅れそうになってしまったのである。
21世紀における地球上で、先進的な文化を享受しようとすると、どうしても英語を抜きにはあり得ないわけで、英語の不得意な我々は、どうしても後塵を被るということになってしまう。
英語が不得意なままでは先端の文化についていけないということは、我々も十分に判っているので、その部分を何とか克服しようと官民上げて努力しているが、その成果は思わしくない。
21世紀の地球がグローバル化して、ヒト、モノ、金が国境を自由に超えて行き来するようになれば、当然のこと、英語が共通言語になりがちであるが、その意味で我々の民族は極めて不利な立場に置かれていることは言うまでもない。
だが、人間の意志というのは言葉だけで通じ合えるものではないと思う。
ボデイー・ランゲージという言葉があるように、意思の疎通という意味では、心の内のことも態度やしぐさで表現することも可能である。
会話の中の単語を全部逐一翻訳しなくとも、通じ合える部分は多々あると思うが、その意味からすると、我々が外国人と対峙したときに、日本人としてどういうメンタリテイーで相手と向き合っているのか、ということはかなり重要なポイントだと思う。
この本の趣旨は、日本人が海外で働くには如何なるスキルを得ればいいか、を説きあかそうとしているが、この発想は、日本は後進国だから先進国の中で金を稼ぐためのノウハウを説こうとしている。
だが、そのためには語学の習得が必須であると説いているのである。
そもそも今の日本の若者は、これまでの我が同胞が潜在的にもっていた上昇思考、西洋列強に追い付き追い越せ、歯をくいしばっても頑張るという、一昔前のガッツな精神を持っていない。
失われた20年と言いつつも、日本はあまりにも恵まれているので、何もしなくても生きることが可能な有難い世の中になったということだ。
アメリカへの留学生がアジア諸国の中で激減したのが日本だといわれているが、無理もない話だと思う。
今の我々の置かれた状況は、居ながらにしてどんな勉強でもできるわけで、何も苦労してアメリカなどにいかなくても、自宅でいくらでも高度な知識の習得は可能である。
我々の日本民族は、明治維新を経て、太平洋戦争を経て、戦後の復興を経て、今日に至っているが、我々が変わったと同じように世界もそれなりに進化しており、その進化の度合いには大きなバラツキがあることも厳然たる事実である。
こういう多種多様な世界の中で、日本人が活躍しているニュースを聞くと、同胞としては鼻の高い思いがするが、こういう発想こそ日本人の狭量なところなのであろう。
世界のあちこちで飛行機が墜落すると、ただちに「邦人が乗っていたかどうか」が報じられるが、ここにも我が同胞の心の狭さが垣間見えてくる。
我々は、この狭い四つの島から飛び出して、世界という大地で活躍している、我が同胞の存在を我がことのよう嬉しく思っているわけだ。
その意味で、今の若者は自分の国の外に出て自分の可能性に挑戦してみよう、と考える覇気のある人が少なくなったことは間違いないであろう。
それは少子化傾向の中で、大事に大事に育てられたので、冒険ということを体験しておらず、自分の限界に挑戦してみるということを知らないからだと思う。
我々の子供のころは、家の周りのフィールドがすべて冒険の場であって、冒険しすぎて親や近所の大人に叱られて育ったものだが、今のアスファルト・ジャングルではそんなことを望むべくもない。
幼少のころからゲームに夢中であれば、成人になってもその延長でしかないことは言うまでもない。
そういう子供が大学に入って、「さあ海外に留学せよ」といっても、誰も手を上げないのは当然だろうと思う。
我々は今あまりにも恵まれた環境の中に置かれていると思う。
不況だ不況だと言いながらも、人々は生きているわけで、生活保護を受けながらパチンコで暇つぶしできている世の中にいるのである。
私自身、定年退職後、職にも就かず年期で生活できているわけで、贅沢さえしなければこれで十分である。
年金が年々目減りしてはいるが、死ぬまでにゼロになるということはないであろう。
日本がこういう社会を作り上げたのは、我々の前の世代が一生懸命努力した結果を、今、次世代としての我々が享受しているわけで、前の世代の日本は、まさしくモノ作り立国であった。
日本国内でモノを作って、それを輸出することで国が成り立っていた。
その結果として日本は豊かになり、豊になれば人件費が高騰し、製造業は国際競争力を削がれて、海外に生産拠点を移さざるを得なくなった。
ここで海外で通用する日本人の存在がクローズアップされるようになったが、人件費が高くなったので、労賃の安いアジアに工場を移す、という発想は極めて安易で、知恵のない思考だと思う。
究極の金儲け主義そのもので、自分たちの歴史をいささかも顧みることのない、無学文盲の発想である。
ただただ人件費の削減という目の前の課題のみに目を奪われて、日本の過去の振る舞いについていささかも考察した節が見当たらないし、相手、特に中国に対する認識をいささかも考察したように見えない。
ここにある思考は、ただただ儲かれば良い、相手に対する思いも、自分のしている行為の不合理さも、そういう内省の気持ちが少しも見られないわけで、エコノミック・アニマルの実態そのものの姿でしかない。
我々日本人のモノの考え方は、どうしても戦略的思考に欠けて、対処療法的な思考になってしまいがちである。
日本が経済復興をなして、その結果として人件費が高騰したのだから、人件費の安いところを探して、そこに工場を移すという発想は、水が低い方に流れるのと同じで、極めて自然に近い発想で、誰でも彼でも、子供でも思いつく思考であって、それをそのままストレートに実践するのでは、大人としてモノを考察する思考回路が丸々抜け落ちているではないか。
人間として、モノを考えるという行為が丸々抜け落ちていて、知恵の存在がいささかも感じられないではないか。
これでは戦略的思考の対極にある、つけ刃式、あるいは泥縄式の対処療法そのものではないか。
ここで日本人として考えねばならなかったことは、我々の人件費の高騰を如何に克服するか、という思考であった筈である。
人件費の高い社会というのは、ある意味で成熟度の高い社会ということも言えるわけで、その成熟度というのは、福祉が充実しているということと同義語であって、働かなくても食わせてもらえるということである。
然し、日本の人件費の高騰で、日本の製造業がアジアに工場を移したことは、アジアの人に雇用を与え、生活のレベルアップを図り、モノ作りのノウハウを伝授したことでもあるが、彼らにはそういう意識は微塵も存在していないと思う。
言い方を変えると、日本はアジアへ工場をシフトしたことで、アジアの人々の生活のレベルアップに貢献した、と言うことが可能であるが、こういう視点にたつと、日本人の世界の中の存在感は実に偉大で大きなものがあるように思える。
アジアの人々の植民地からの解放は、日本が西洋列強のアジアでの軍事力をことごとく削いでしまったことにある。
フランス、イギリス、オランダという旧宗主国のアジアでの基盤を、日本が根こそぎ破壊したことによって、これらの国々は曲がりなりにも独立ができたわけで、そういう国々に日本は再び工場を作り、現地の人々の雇用を確保し、現金収入を得る方策を講じたわけで、結果として日本の存在がアジア諸国の自立を促したといえる。
とはいうものの、我々は中国人に対してはおさおさ注意を怠ってはならない。
彼らはかの地で生まれ落ちた時から、日本に対するコンプレックスに苛まれているので、彼らの潜在意識としての対日感情には今後とも注意を怠ってはならない。
前にも言ったように、我々は中国人に対しては、いわれなき贖罪意識にさいなまれているが、先方は先方でいわれなき優越感を持っていることを忘れてはならず、安易に妥協する愚は犯すべきではない。
彼らの言動には細心の注意を払って対応しなければならないが、その最も根源的なことは、彼らには善意や好意や良心でもって対応してはならないということである。
冷静な理性と判断力でもって、厳密に損得勘定を勘案して、策略、計略、陰謀、その他もろもろの手法でもって国益を維持すべきだと思う。
独りよがりの思い込みで彼らに接すれば、それこそ「庇を貸して母屋を盗られる」ということになりかねない。


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