今日は、三ツ沢公園へ行ってきました。この公園は、横浜市営地下鉄三ツ沢上町から南に1キロ程の丘陵地にある公園で、「ニッパツ三ツ沢球技場」陸上競技場、補助競技場、テニスコート3ケ所、野球場、子供の遊び場3ケ所、自由広場、馬術練習場、そして、公園の名前のとおり丘陵地のため、沢があり清水が何処からともなく湧き出ていて、その斜面には、7.80年は有に超えると思われる桜が植樹され、その合間を縫って散策道(トリムコース)が四方八方へと繋がり、花見の時期にはさぞ見事に咲き誇るものと思われます。
この公園は、HPによると昭和24年に10月に公園東側地区にバレーボールコートを整備し、第4回国民体育大会(東京大会)のバレボール会場として使用されると同時に三ツ沢公園として開園したとされている。また、昭和26年には、陸上競技場が完成し、日米対抗陸上競技大会を開催、昭和昭和30年には、第10回神奈川県で行われた国民体育大会のメイン会場として整備された競技場となっていました。このためか、現在もNPO法人横浜市馬術協会のパンフレットによれば、人と馬をとおして思いやりの心や動物愛護の精神育むことを目的に活動を行っているとあり、主なものは、馬との触れあいとして、乗馬教室や厩舎の清掃・手入れ、馬に触れゲーム等を行い心身の健康、動物愛護の精神を学び併せて、職業体験なども受け入れ幅広い活動を行い、月1回のペースで無料の乗馬会行いるとありました。
前述の「ニッパツ三ツ沢球技場」は、ネーミングライツを導入し、横浜市の代表的企業からの入札より、日本発条株式会社が同競技場を落札したことから、平成20年3月から、「ニッパツ三ツ沢球技場」として産声を上げたとパンフレットに掲載されていましが、球場の歴史は、昭和30年の国民体育大会当時の仕様は、ラクビー会場、昭和39年の東京オリンピックの際には、サッカ―会場に生まれ変わり、以後、54年のワールドユースサッカー、平成5年からJリーグ開幕となって横浜Fマリノスのホームスタジアムとして、今日に至っている様であります。
このほか、公園の北東端に、戦没者慰霊塔を昭和38年3月に建てられていて、その内容は、西南戦争以来、第二次世界大戦に至る戦争犠牲者2万人余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔となっていました。 その二基の塔は、門を象徴しており、左の塔は18mで上部を欠いであり、下部には「昭和20年」の5字を浮き堀し、大戦での大きな犠牲と破壊を現している。右の塔は、25mで新生日本が雄々しく将来に向かって発展する姿を表したものとなっていました。 このことについてもHPには、昭和14年護国神社外苑が創建され、同16~18年にかけて外苑に防空緑地整備事業で緑地化を図ったが、昭和20年の大空襲の際に、護国神社の完成をまたず消失したとなっており、戦没者慰霊塔との関係が理解できました。
一方、公園に正面入りから暫く進むと左側に、横浜市基準水準点があるのにビックリでありました。普通市の庁舎付近の庭等にあるものと思っていたら、三ツ沢公園にあるとは、思いも依らなかったところであります。そこには、海面447.76m、東経139°36′32”.96・北緯35°28’0.25”となっていました。
昨今、新聞を賑わしているEP細胞、IPS細胞、STAP細胞のように、これが「常識」・・・・・はないに、気付かされ帰宅いたしました。
(三ツ沢公園入口附近)
(ニッパツ三ツ沢競技場)
(同見取り図)
(陸上競技場)
(同じ陸上競技場)
(補助競技場)
(テニスコート)
(野球場)
(子供広場)
(馬術訓練場)
(同じ)
(馬運搬車)
(平和記念塔)
(戦没者慰霊塔)
(慰霊塔の内容)
(清水)
(散策道)
(散策道)
(散策道)
(池)
(散策道)
(横浜市の基準点)
(基準点の位置表示内容)
この公園は、HPによると昭和24年に10月に公園東側地区にバレーボールコートを整備し、第4回国民体育大会(東京大会)のバレボール会場として使用されると同時に三ツ沢公園として開園したとされている。また、昭和26年には、陸上競技場が完成し、日米対抗陸上競技大会を開催、昭和昭和30年には、第10回神奈川県で行われた国民体育大会のメイン会場として整備された競技場となっていました。このためか、現在もNPO法人横浜市馬術協会のパンフレットによれば、人と馬をとおして思いやりの心や動物愛護の精神育むことを目的に活動を行っているとあり、主なものは、馬との触れあいとして、乗馬教室や厩舎の清掃・手入れ、馬に触れゲーム等を行い心身の健康、動物愛護の精神を学び併せて、職業体験なども受け入れ幅広い活動を行い、月1回のペースで無料の乗馬会行いるとありました。
前述の「ニッパツ三ツ沢球技場」は、ネーミングライツを導入し、横浜市の代表的企業からの入札より、日本発条株式会社が同競技場を落札したことから、平成20年3月から、「ニッパツ三ツ沢球技場」として産声を上げたとパンフレットに掲載されていましが、球場の歴史は、昭和30年の国民体育大会当時の仕様は、ラクビー会場、昭和39年の東京オリンピックの際には、サッカ―会場に生まれ変わり、以後、54年のワールドユースサッカー、平成5年からJリーグ開幕となって横浜Fマリノスのホームスタジアムとして、今日に至っている様であります。
このほか、公園の北東端に、戦没者慰霊塔を昭和38年3月に建てられていて、その内容は、西南戦争以来、第二次世界大戦に至る戦争犠牲者2万人余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔となっていました。 その二基の塔は、門を象徴しており、左の塔は18mで上部を欠いであり、下部には「昭和20年」の5字を浮き堀し、大戦での大きな犠牲と破壊を現している。右の塔は、25mで新生日本が雄々しく将来に向かって発展する姿を表したものとなっていました。 このことについてもHPには、昭和14年護国神社外苑が創建され、同16~18年にかけて外苑に防空緑地整備事業で緑地化を図ったが、昭和20年の大空襲の際に、護国神社の完成をまたず消失したとなっており、戦没者慰霊塔との関係が理解できました。
一方、公園に正面入りから暫く進むと左側に、横浜市基準水準点があるのにビックリでありました。普通市の庁舎付近の庭等にあるものと思っていたら、三ツ沢公園にあるとは、思いも依らなかったところであります。そこには、海面447.76m、東経139°36′32”.96・北緯35°28’0.25”となっていました。
昨今、新聞を賑わしているEP細胞、IPS細胞、STAP細胞のように、これが「常識」・・・・・はないに、気付かされ帰宅いたしました。
(三ツ沢公園入口附近)
(ニッパツ三ツ沢競技場)
(同見取り図)
(陸上競技場)
(同じ陸上競技場)
(補助競技場)
(テニスコート)
(野球場)
(子供広場)
(馬術訓練場)
(同じ)
(馬運搬車)
(平和記念塔)
(戦没者慰霊塔)
(慰霊塔の内容)
(清水)
(散策道)
(散策道)
(散策道)
(池)
(散策道)
(横浜市の基準点)
(基準点の位置表示内容)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます