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大倉山公園にて

2014-02-09 09:38:44 | 日記
 今日は、大倉山公園に行ってきました、この公園は、東横線大倉山駅の改札口を出て、進行方向左側を線路沿いに緩やかな坂を北西方向に歩いて8分程のところにあります。
 公園は、南北に細長く最初に見えてくるのが、左に「大倉山記念館」次いで100m程歩くと右側に管理棟が見えて、更に、50m程進むと扇形の斜面から窪地に向かって、梅林を一望に見る事ができ、あずま屋が3箇所配置されています。
 梅の花は、種類がいろいろとあるため、一斉に咲く事はない模様で、管理人の方の話によると早い種類のは、1月の初めから咲始め、見頃は、2月20日頃との事であります。公園のポスターによると「大倉山観梅会」は2月下旬から3月の上旬にかけて開催するとありました。
 梅の木々は、非常に手入れが行き届いていて、それぞれの枝が競合する事なく、木の特徴を生かし見事に剪定されているのに感心しました。
 近所に住んでいると云う方の話によると、以前に、剪定が充実し過ぎて木の野性的魅力が失われている様な気がすると剪定の方に質問をしたところ、木々の特徴と古木との代替わりの際に、新しい苗を植える種類なども勘案して剪定していると云う説明を受けて、納得されたと話されていました。
 公園の沿革は、パンフレットが無かったので、ネットで調べると昭和6年に東横線開通に合わせて、用地を買収整備し、乗客誘致のために梅を植えて公開したことから始まったとありました。当時は、14種類1000本を数えた模様でありますが、現在は、30種類程で200本程が公園内に植栽されているとあります。また、東京急行電鉄から横浜市が買収したのは、昭和62年で面積は1.1haとなっていました。
 一方、園内にある「横浜市大倉山記念館」であるが、パンフレットによれば、横浜市有形文化財に指定されている模様であります。
 その沿革は、大倉邦彦氏が創設者で、氏は、佐賀県生まれ中学まで佐賀県で教育を受け、明治36年に上海の東亜同文書院商務科に入り卒業して、明治39年に、親が経営する会社「大倉洋紙商行天津出張所」に入社し、大正7年同社の社長に就任、その後、紙関連会社3社の社長を兼務する傍ら、自身でも異業種3社を創業するなど幅広く事業を展開しつつ、人の精神について興味をもち、東京帝国大学の聴講生として哲学を研究され、東洋大学学長就任の経験を持ち、精神文化事業を昭和4年から同37年まで活動し、自身の感想録などの著書を含め数拾冊発行し、「大倉精神文化研究所」を設立して、自身の創案を縦横242㎝角に「日本精神文化曼荼羅」を創案、それは、聖徳太子を円の中心に配置し、上左に「毘沙門天」上右に「持国天」下左に「広目天」下右に「増長天」円の周囲に右回りに順次「空海」「栄西」「親鸞」…最後に「最澄」を配置、これは、もろもろの仏や菩薩が輪をなして大日如来を取り囲み、その衆生済度を助けるさまを象徴的に示し、円は無限の悟りの世界を表しているそうであり、実物は、現在図書館閲覧室に掲げられています。研究所の建物は、昭和7年に「大倉山精神文化研究所を建てられ、それらが横浜市に引き継がれ今日に至っている。
 更に、パンフレットによれば、文献の収蔵も盛んに行われ「貴重書」約340冊「古文書古記録影写副本」約760冊「大名榊原家文庫」約4000冊この他、1万有余冊を「大倉精神文化研究所付属図書館」にコレクションとして収納され、当館の職員方の説明によれば、一般の方々にも貸し出をしているそうであります。一時期、国立図書館の支部図書館時代があったようであります。人は、「一芸に秀でている人はすべてに通ずる」を思い出して帰宅しました。

(公園へと繋がる通称エルム通り)

(公園全体の入口附近)

(公園見取り図)

(梅林園入口)

(公園散一望)

(剪定の色々)

(厳しい環境に耐え頑張る梅達)

(剪定の色々)

(剪定の色々)

(池に繋がるセセラギ)

(公園の池と枝垂れ梅まだ蕾)

(満開の梅の花)

(同梅の花)

(読書にふける観風者)

(散策路)

(散策路)

(蕾の梅とあずま屋)

(公園の展望台の木に樹生するコケ類の一種)

(展望台の地面の変化に対応する松の根)

(横浜市大倉山記念館正面 旧大倉精神文化研究所本館 当時459,356円18銭 年表によると現在単価10億相当)

(本館内部 吹き抜けの階段)

(本館の広場には三笠の宮様が植樹した松 幼児達の遊園場)

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