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染屋太郎大夫時忠邸址についてNO63(西6)

2019-03-30 07:28:01 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 染屋太郎大夫時忠は、藤原鎌足の孫の孫(やしゃご)にあたり、奈良東大寺の良弁(ろうべん)僧正の父で、文武天皇のとき(697~707年)から、聖武天皇の神亀年中(724~728年)の間、鎌倉に住み、関東八か国の総追捕使(そうついぶし)となって関東をしずめた。
 別名として由比の長者と言われていたと伝えられるが、その事蹟についてははっきりしていない。このあたりの南に、長者久保という地名が残っているが、そこが時忠の邸のあとであると言われている。
 なお、甘縄神明宮の別当である甘縄院は、この時忠がひらいたものであるという。
 {参考}
 染屋太郎大夫時忠
 「塔の辻」の碑のところで、説明しているので、ここは略す。
 時忠の屋敷近くに、「長者塔」と呼ばれる多層塔があった。
 甘縄神明宮
 頼朝が鎌倉に入るより、はるか昔に、この地に鎮座していたのが、この甘縄神明神社であって、祭神は、天照大御神と四柱の配祀がある。
 社伝では、天平年中に勧請したといっている。「甘縄寺神明宮縁起略」によると、さらに古く、和銅三年(710年)に僧行基が草創したとあり、染屋時忠が山上に神明宮を、山下に円徳寺を建てたと記している。
 また、別伝では、源頼義が当地に下向したとき、平直方の女を娶って、当社に祈って八幡太郎義家が生まれたという伝承もある。直方は染屋時忠の婿であったという。
 源頼朝、政子も、よく参拝したことが吾妻鏡に見えている。源朝挙兵以来、忠実に仕えて来た安達藤九郎盛長は、この神明宮の守護を仰せつかって、社前に屋敷を賜っていたので、代々ここに住んでいた。
 甘縄の「甘」は海女(あま)のこと、「縄」は漁の縄をいうと伝えていることから、このあたりは、一帯に漁村で、その漁師たちの信仰をあつめていたものと思われる。
 鎌倉の人口
 天下の覇府として栄えた頃の鎌倉には、どのくらいの人口があったろうか。
 川上多助氏は、いくつかの史料によって推定しているので、その一、二をあげてみる。
 建長四年九月三十日、幕府は鎌倉中で酒を売る事を禁じ、民家にある酒壺を調べたら、37、274の壺があったと吾妻鏡が記している。毎戸三、四壺の持壺と見て、約1万戸の民家があったろうというのである。この根拠で1戸5人以上と推定すれば、5万を越える人が住んでいたことになる。
 永仁元年(1293年)4月の大地震で、山が崩れ、家がつぶれて23、024人の死者が出たという別の史料から推定すると、かなりの人口であったという。これによれば、10万人は住んでいたように思う。
 ちなみに、今の鎌倉市は、その頃の4倍以上に地域がひろがっていて、現在人口約17万人である。当時の鎌倉の市中の人口密度、繁華殷賑のほどが偲ばれるようである。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(染屋太郎大夫時忠邸址の碑)

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