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高浜虚子の碑について

2015-03-21 08:48:31 | 日記
 三渓園外苑の中央付近の池の畔に、高浜虚子の碑がありましたので、「郷土俳人シリーズ③高浜虚子人と作品」発行者 今井瑠璃男により、以下に記述投稿いたします。
 高浜虚子は、愛媛県松山市長町新丁三番地(現在の港町四丁目)生まれ、本名は高浜清と命名されました。父は、松山藩の文書係(祐筆)を務め、柳生流の剣客でもあった。
 清は、男兄弟ばかりの末子五男であり、すぐ上の兄との年齢差が14歳も年の差がありました。虚子の生家は、俳人である正岡子規の家と背中合わせの家であった。しかし、清が生まれてすぐに一家は、風早郡別府村西ノ下(現在の北条市西ノ下)へ移転し、父、自ら鍬を持ち百姓を始めたが、清の兄たちは皆百姓をするのを嫌い松山に戻って行ってしまった。
 父は、8年間頑張ったが、遂に清を連れて松山に戻ったのです。清は、その時初めて松山城を見たので、城下の人達からみると田舎者であった。しかし、彼は、住み慣れた西ノ下で同じ様に帰農した4軒の家が並んだその原風景は、その後の清の見方や感じ方の基本をなす風景となって、清の俳句に現れていた。
 清が松山に戻ったのは、明治14年、その翌年、その頃初めて、正岡子規を見かけている。それは、中学生の仲間とバッティグをやっているところを通りかかった東京帰りの4、5人の書生たちが、そのバッティグに加わり、中心人物らしい書生が打ったそのボールが清の前に来たので、拾って球を投げつけると「失敬」と云ってその球を受けてしまった。その「失敬」と云う言葉が何となく心を引き付けた。
 清の中学時代のニックネームは、「聖人」と呼ばれていて、真面目な学生だった。5年生頃から文学に興味を持ち始めた。中央では、坪内逍遥、山田美妙、岡崎紅葉、幸田露伴、森鴎外等の人々があらわれたときであった。
 同級生の河東兵五郎(後の碧梧桐)は、東京の文科大学(現在の東京大学文学部)に進み碧梧桐が俳諧の本を読んでいるのを見かけ話しかけた。碧梧桐は、文学を研究し、俳句も作っている正岡子規のことを話した。清は、交遊を求めてみたくなり、碧梧桐を介して手紙を出して、正岡子規と交際が始まった。
 その後、清から、子規に雅号を依頼したところ、受けた子規が考えてくれたのは、「虚子」であった。本名の「清」の読み(きょし)に別字をあてた滑稽さが、この雅号の眼目だと言い、また(清)と虚はほぼ同じ意味であることを、この雅号を推薦する理由にしている。
こうして、子規と出会ったことで、この世に高浜虚子なる人物が出現することになったのである。しかし、子規に兄事しながらも虚子には、子規に対する違和感が少なからずもあった。
 子規に接触するにつれて兄事する気持ちは強くなるのだが、その一方で折角東京へ出て、大学にまで行って文学を専攻している子規が、俳句に熱心だと言うのでは、あまりにも小さいと思って、そのことに少々不満足を感じて、やがて子規に対しいろいろと反発となって表れる。
 虚子は、俳句は小さい、俳句より大きな文芸に関わりたい。虚子の思いはある意味その時代を象徴する考えだった。つまり、瞬間的な思いの表現しか出来ずそんな小さな詩型は「明治という新時代」には相応しくないと言うのであった。
 初めて、複雑で体系的な思想の表現が可能となる『新体詩抄』が示唆したこのような考えには、近代のリアリズムによる小説の方向を示した坪内逍遥も賛成し、俳句などの日本の詩歌は未開の世のものと決めつけている。子規と出合った虚子もまた俳句は小さい、もっと大きな文芸とは小説のことだ、こんな風に虚子は、極めて近代的な青年であった。
 明治25年京都第三高等中学校に入学、碧梧桐も同じ高等中学入学するが、虚子は退学するつもりで、上京しとりあえず子規の家に同居した。だが、周囲のものは、冷ややかな目で皮肉な調子で突き放す始末をされて、結局半年で、虚子は復学した。
 その頃、学制の改革があり、碧梧桐ともに仙台の第二高等学校へ転校を命ぜられて、仙台に移って、1ケ月後に退学してしまったことを子規に強硬に反対される。しかし、虚子は、大文学者を夢見て上京した。
 この続きは、次回投稿することをお約束して一先ず閉じます。

(三渓園見取図)

(高浜虚子の碑)

(同じ) 


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