馬車道にガス灯の碑があったので、「マイウェーイ」財団法人はまぎん産業文化振興財団、発行 小川是、編集清水照雄を見ると次のようなことが書かれていたので、投稿いたします。
明治3年、フランス人技師プレグランの指導のもとに高島嘉右衛門のガス会社が伊勢山下にガス工場を建設。明治5年9月29日〈陽歴10月31日〉大江橋から馬車道、本通りにかけて、日本初のガス灯が点灯され、居留地にガス灯が点されたのは、日本人街より2年ほど遅れた7年12月のことです。電灯は、明治11年3月25日、工部大学で英国人教師エアトンの指導によりアーク灯が点火されたのが最初で、この日が電気デーに。その後、明治22年に横浜共同電灯会社が設立され、初代社長に高島嘉衛門が就任。翌年には火力発電所の建設や電柱の設置、電線の架設工事が進められ、横浜の夜を明るく照らし出した。
一方、「明治事物起源事典」 著者 湯本豪一 発行 渡辺周一によると、次のようなことが述べられている。
文化の代表ともいえるガス灯の登場に関して、一つのエピソードが伝えられている。カス灯が初めて点ったのは、明治5年(1872)9月29日、場所は横浜である。そして、そのガス灯の建設は、日本人の手で行われたが、そこに至るまでには外国との摩擦と、1人の日本人のガス灯建設に対する執念があったのです。
そもそもガス灯の建設を考えたのは居留地に住む外国人達だった。居留地を明るくしょうと、明治4年12月までにガス灯を建てる計画のもと、イギリス人W・Hスミスを中心に準備を進めていた。一方、明治3年8月には、ドイツのシュルツ・ライス商会もガス灯建設の申請を神奈川県庁に出した。神奈川県は、スミスの申請を却下したが、外国人達のガス灯建設申請に対抗して、「日本社中」というガス灯建設のための会社を創設する動きが日本人の間にでてきた。その中心となったのが、高島嘉衛門である。
高島はひとたび外国人にガスに関する権利を与えると、永久に権利が外国資本に握られてしまうことを憂えて、同志を集めて日本人によるガス灯建設を推進していった。高島らの動きにたいしシュルツ・ライス商会も外務省に働きかけなど強硬な姿勢を崩さかった。遂には、ガス灯設置応募者数の多い方が許可を受けることとなり、「日本社中」が勝利をおさめた。
かくて、高島らは明治3年12月に正式に許可を受けて、フランス人Hペルグランの技術協力を得て横浜の夜空にガス灯をともすことに成功している。
明治7年12月には、東京でも銀座、日本橋にガス灯が点り、やがて全国に普及して行き、ガス灯点灯作業夫が点灯する新しい職業もつくって行った。また、花瓦斯とよばれるような装飾や広告のためのガス灯も作られているが、これはネオンサインの元祖のようなものであった。
明治11年3月25日、工部大学校で英国人教師エアトンの指導によってアーク灯が点火され、これが、日本での最初の電灯点火とされ、この日が電気デーになっている。横浜でも田沼太右衛門らが発起人となり、横浜共同電灯会社の設立が計画され、明治22年7月に出願、11月に関内と居留地を営業区域として許可されて、役員選挙の結果、初代社長には、高島右衛門が就任した、翌年、常磐町1丁目に火力発電所を建設、電柱の設置や架線などの工事が進められ、9月に完成して試験送電を開始して、開業したのは、10月1日からであった。
そして、12月には、関外を営業区域として設立許可を得乍らまだ事業に着手していなかった横浜電灯会社の営業権を吸収している。明治26年から横浜共同電灯株式会社、明治42年には横浜電気株式会社と社名を変え、大正10年には、東京電灯株式会社に合併された。と記載されていましたので、併せて投稿いたします。
(山下通りにあるガス灯のガス灯の生い立ち)
(当時を思わせる風景)
(山下公園入口にあるガス灯)
(同じ)
(馬車道にあるガス灯の碑)
(標示版)
(馬車道のガス灯)
明治3年、フランス人技師プレグランの指導のもとに高島嘉右衛門のガス会社が伊勢山下にガス工場を建設。明治5年9月29日〈陽歴10月31日〉大江橋から馬車道、本通りにかけて、日本初のガス灯が点灯され、居留地にガス灯が点されたのは、日本人街より2年ほど遅れた7年12月のことです。電灯は、明治11年3月25日、工部大学で英国人教師エアトンの指導によりアーク灯が点火されたのが最初で、この日が電気デーに。その後、明治22年に横浜共同電灯会社が設立され、初代社長に高島嘉衛門が就任。翌年には火力発電所の建設や電柱の設置、電線の架設工事が進められ、横浜の夜を明るく照らし出した。
一方、「明治事物起源事典」 著者 湯本豪一 発行 渡辺周一によると、次のようなことが述べられている。
文化の代表ともいえるガス灯の登場に関して、一つのエピソードが伝えられている。カス灯が初めて点ったのは、明治5年(1872)9月29日、場所は横浜である。そして、そのガス灯の建設は、日本人の手で行われたが、そこに至るまでには外国との摩擦と、1人の日本人のガス灯建設に対する執念があったのです。
そもそもガス灯の建設を考えたのは居留地に住む外国人達だった。居留地を明るくしょうと、明治4年12月までにガス灯を建てる計画のもと、イギリス人W・Hスミスを中心に準備を進めていた。一方、明治3年8月には、ドイツのシュルツ・ライス商会もガス灯建設の申請を神奈川県庁に出した。神奈川県は、スミスの申請を却下したが、外国人達のガス灯建設申請に対抗して、「日本社中」というガス灯建設のための会社を創設する動きが日本人の間にでてきた。その中心となったのが、高島嘉衛門である。
高島はひとたび外国人にガスに関する権利を与えると、永久に権利が外国資本に握られてしまうことを憂えて、同志を集めて日本人によるガス灯建設を推進していった。高島らの動きにたいしシュルツ・ライス商会も外務省に働きかけなど強硬な姿勢を崩さかった。遂には、ガス灯設置応募者数の多い方が許可を受けることとなり、「日本社中」が勝利をおさめた。
かくて、高島らは明治3年12月に正式に許可を受けて、フランス人Hペルグランの技術協力を得て横浜の夜空にガス灯をともすことに成功している。
明治7年12月には、東京でも銀座、日本橋にガス灯が点り、やがて全国に普及して行き、ガス灯点灯作業夫が点灯する新しい職業もつくって行った。また、花瓦斯とよばれるような装飾や広告のためのガス灯も作られているが、これはネオンサインの元祖のようなものであった。
明治11年3月25日、工部大学校で英国人教師エアトンの指導によってアーク灯が点火され、これが、日本での最初の電灯点火とされ、この日が電気デーになっている。横浜でも田沼太右衛門らが発起人となり、横浜共同電灯会社の設立が計画され、明治22年7月に出願、11月に関内と居留地を営業区域として許可されて、役員選挙の結果、初代社長には、高島右衛門が就任した、翌年、常磐町1丁目に火力発電所を建設、電柱の設置や架線などの工事が進められ、9月に完成して試験送電を開始して、開業したのは、10月1日からであった。
そして、12月には、関外を営業区域として設立許可を得乍らまだ事業に着手していなかった横浜電灯会社の営業権を吸収している。明治26年から横浜共同電灯株式会社、明治42年には横浜電気株式会社と社名を変え、大正10年には、東京電灯株式会社に合併された。と記載されていましたので、併せて投稿いたします。
(山下通りにあるガス灯のガス灯の生い立ち)
(当時を思わせる風景)
(山下公園入口にあるガス灯)
(同じ)
(馬車道にあるガス灯の碑)
(標示版)
(馬車道のガス灯)