「理由」9月17日
同志社大教授浜矩子氏が、『グローバル化が生む格差 関心の高まりの裏側は』という表題でコラムを書かれていました。その中で浜氏は、『一様に心配しているのは、端的にいえば、国々における体制の不安定化だ~(中略)~だがそれがなければいいのか。人々がおとなしくその憤まんをのみ込んで、声をあげずにいる限り問題はないのか』と書かれています。
EUやIMFのリーダーたちが、グローバル化の進展によって生じる格差問題について懸念の念を表明していることを肯定的に受け止めながらも、リーダーたちが心配しているのは、一人一人の市民の暮らしではなく、体制の動揺なのではないか、その場合、実は一人一人の悩みや苦しみには目が向いていないのではないか、と指摘しているのです。
似たようなケースはあらゆる分野で見ることができます。学校教育の場合も例外ではありません。学校教育の本質は言うまでもなく、今各学校で学んでいる子供たちの「幸せ」の実現です。「幸せ」のイメージは、人様々であり、微妙に異なっているのは当然ですが、将来国民として必要な知識や技能を獲得すること、その中には共感性、前向きな向上心、寛容な心、強い責任感などの心の面も含まれるでしょう。
さらに、いくら必要な知識や技能の獲得とは言っても、外的な力によって強制的に教え込まれる、敢えて言えばサーカスの動物の調教や訓練的な学校生活を肯定する人はほとんどいないはずです。規律ある中で自主的に学び、成長や達成の実感、喜びを味わうことができるようなシステムを求めていると思われます。
であれば、学校教育改革は、そうした「幸せ」が実現できるか否かという点が最重要視されなければならないはずです。しかし、実際には、官僚のメンツや政治家の功績づくり、圧力団体ともいうべき各種団体や業界からの要請の調整、市民や保護者への阿り、惰性的な前例踏襲、政治的取引、などによりこの原点が忘れ去られてしまうことがあるのです。
つまり、関係者と言われる人の都合が優先され、当事者である子供の視点や利益が軽視されてしまうことに鈍感になってしまうのです。特に学校教育は、当事者である子供がまだ社会的に未成熟であり、自ら声をあげることが少ないという性質上、こうした傾向が顕著となりやすいのです。保護者も教員も、子供のためと口にしながらも、無自覚なまま、実は短期的な自分の利益という動機で、改革を求め、あるいは反対していることが少なくないのです。
小池都知事ではありませんが、本当の意味での「子供ファースト」が大切です。難しいことですが。