ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

中間点

2016-09-14 07:43:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「中間点」9月5日
 相模原殺傷事件を受けて連載されている『相模原殺傷 わたしの視点』欄に、「障害者のリアルの迫る」東大ゼミ代表御代田太一氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で御代田氏は、『障害の種類や、悩みながら生きる姿はそれぞれ違うのに、それまで「障害者」という雑なくくりで見ていたことに気付いた』とご自身の経験に基づいて反省の弁を述べ、『ゼミでの出会いを通じ例えば「知的障害」と聞けば具体的な人の顔を浮かぶようになった。そうなると「かわいそう」では片付けられない存在になる~(中略)~障害者と聞いて思い浮かぶ顔がもっと増えれば、この感覚は変わる気がする』と結んでいらっしゃいました。
 大変的を射た提言だと思います。その一方で、「一括りで見る」と「一人一人の顔を思い浮かべる」の中間点が求められる場合もあるというのが、わたしの感想でもありました。
 以前もこのブログで書きましたが、わたしは教員時代に、自分の目の前にいる子供のことしか考えていませんでした。一人一人、顔はもちろん、様々な場面で見せる表情や声、得意なことや苦手なこと、癖やこだわり、そんな一人の人間として子供を捉えていたのです。別に、良い教員だったわけではありません。普通の教員であれば誰でもそんなものでしょう。
 ところが教委に勤めるようになり、様々な事業を担当するようになると、一人一人の子供の顔を思い浮かべていては仕事にならないのです。友達は少ないけれど本が好きで、休み時間は図書館に入り浸って笑顔を見せているTさん、Tさんの顔を思い浮かべていては、教育予算全体が削減される中で、図書館補助員の配置を週4日から2日に減らすという施策をとることはできません。学級に打ち解けられず、登校した日はSC室で勉強しているIさんの顔を思い浮かべてしまえば、SCの配置を正式な資格をもったカウンセラーから人件費の安い大学院生のバイトに切り替える施策を採用できません。
 教育行政に携わるようになって、一番感じたギャップが、この特定の一人か全体の傾向か、SC室で見せるIさんの笑顔か、SC室の週間利用者数かという問題だったのです。役所一筋○十年、庶務課や学務課の課長さん、予算折衝の相手の財務課や企画総務課のスタッフさんたち、皆、利用率や稼働率などの数値で話され、そのことに違和感を感じてはいませんでした。
 もっとも彼らまで私のような感傷的な対応をしていたのでは、何ヶ月かけても予算編成はできません。ですから、彼らは彼らでよいのです。企画総務課と学校の教員の中間点に立ち、良く言えば双方の見解を生かし、悪く言えば双方に少しずつ嘘を言って妥協案をまとめる、それが私の仕事でした。
 行政に人間は善意で公平な施策を行おうとし、その結果が「一括りの数値で見る」という姿勢なのです。そのことを知った上で、ただ非難するのではなく、一人一人の顔に説得力をもたせるべく、子供理解を深め伝えていくことが教員の、学校の、校長の務めだと思っています。

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