ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

うまい話には裏がある

2016-09-11 07:39:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「世間知」9月2日
 余録欄に税人年齢引き下げについてのコラムが掲載されました。その中に、明治初期には欧米諸国よりも成人年齢が低かった事を指摘し、その理由として『日本人の世間知の発達が早いからなどといわれていた』という記述がありました。世間知、分かるような分からないような言葉です。
 そして、その後、『今や日本人の世間知の発達は世界でも遅い方になってしまったようである』『世間知を学ぶ教育』という表現も出てくるのです。そして、『18、19歳でローンやクレジット契約ができれば消費者被害が続発するという心配にはうなずく方が多いだろう』という記述から推察されるのは、世間知の象徴的なものとして消費者被害に遭わないだけの知識や判断力がイメージされているらしいのです。そうなのでしょうか。
 私は、「世間知」とは、そんな狭いものではないと考えます。むしろ、今、学校教育が目指すべき目標とされる「生きる力」の中核をなす概念であるという気がします。明治初期の我が国の人々は、江戸時代に形作られていました。江戸時代の「世間知」とは、好ましい面醜い面を含めて人というものについて知ること、人が集まってつくる集団の恐ろしさ、人と集団がつくる社会の怖さを理解すること、そうした理解を基にうまく生きていく術を身に着けることだったと思われます。
 うまく生きていくとは、無用な波風を立てず、それでいて自分の不利益は避けて立ち回る、人を疑いすぎず人を信用しすぎず、というような生き方です。これは今でも十分に通用する生き方の基本です。こうした基本があってこそ、うまい話には裏があるという教訓もすんなりと納得でき、消費者被害も防げるのです。
 そしてこうした人の醜さに触れる「本音」は、建前を教える学校には馴染まず、家庭や地域社会が学びの場であったのです。学校制度の整っていなかった江戸末期から明治初期の若者が、「世間知」をもっていたとされることがその証明です。
 家庭や地域社会が「世間知」を教えられないと決めつけ、「世間知」も学校で、教員が教えるとなっても、効果は期待できません。個別のローンやクレジットについていくら教えても、それはモグラたたきのようなもので、次々と新手を探し出すプロの犯罪集団には決して追いつくことはありません。江戸時代以来の世間知の復活が必要ならば、家庭と地域社会の教育力の復興が全体になるはずです。

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