朝礼の話題

見たり読んだりして、感じたことを朝礼で話しています。この頃は仕事の話は少なくなりました。

常識を捨てろ

2015-11-21 21:00:11 | 21世紀
常識を捨てろ
2015/11/22
 
西村さん・樋口さん・瀬戸山さんと4人で会う会がありました。
 樋口さんは、その日の日経新聞の見出し「常識を捨てろ」について批判します。
 「常識を作るべき新聞が常識を捨てろというのは、自己否定であるし、社会の安定は、常識という日本人の共通認識から生まれるものだ」「常識を大事にしなければならない」と力説します。
 私は、アインシュタインは「常識とは18才までに作った偏見の集積である」と言っているよと冷やかします。
 西村さんは「新しいものを生み出すには、常識を疑うことから始まる」と言います。
 瀬戸山さんは、「常識の定義はなんだ? 皆意見が違い誤解語になっていないか?」
 辞書引くつもりで、グーグルで検索してみると、色々出てきて面白いよ」と私が言いますと、樋口さんは、「そんなものは見ない。常識は常識だ」と聞き入れません。
 代わりに検索しますと、こんなのもありました。
 常識とは何か
皆が知っていて当然な情報(ニュートンは科学者である)や大多数の人が同じ判断をすること(人殺しは悪である)。
どのようにして身についていくのか
 1.親兄弟に教わる
 2.学校などで教わる
 3.友人知人たちの言動、メディアなどを通して知る
 4.人々のリアクションなどの観察を通して、一般性や普遍性の度合いを理解する。
普通とは何か
 例外的でないこと。一般的なこと。普通に考えるのなら、何か普通を測る定規のようなものがあるのではなく、自分の経験(記憶)と照らして普通か否かを判断しているということになる。
 女子校生たちにとっては、友達は多ければ多いほどステータスが高い。そう考えるのは女子校生にとっては普通である。だからプリクラの数やコレクションは普 通に重要である。しかし、その考え方の普通さは、あくまでも女子校生たちにとってである。もう少し年齢が高くなると、量より質を求めるようになるし、量が 多すぎるとウザイという考えになるのが普通だ。というように、自分の経験(記憶)は、自分の属している社会の性格、規範性を色濃く反映している。常識にし ろ、普通にしろ、それは自分が属する社会の規範性によって判断されるといってもよい。
 よって、哲学的にいうなら、普通を測る定規はある。社会の規範性(倫理)である。女子校生たちには、友達は多ければ多いほどステータスが高いという倫理が あり、そのように考えるのが普通で、常識的なことなわけである。もちろん、女子校生社会から抜け出し、別の社会に属するようになると、異なる倫理性を学ぶ ことになり、彼女たちの考え方は変わる。
 ここで重要なことを強調しておきたい。普通や常識というのは、もちろん絶対的なものではない。しかしだからといって、これを実体がない個人の妄想のような ものと考えるのは厨二病?である。その規範性は、社会に倫理として存在している。私たちは、社会の観察や経験を通して、それを学ぶのである。
 自分の意見に固執するのは、他人の意見を聞かない、他人の意見を自分の頭で考えないことです。私は、年取ったのでしょうか? 愛唱歌は「心残り」です。私はバカだなと、実感持って感じています。他人を偉いなぁ・よくやるなぁ、と尊敬しています。
 私バカ 他人もバカと 思えるか    常識と 思って頼る 自信なさ