日々呟く。

とうとよ/清貧の独り言。

図画工作の力。

2006年10月31日 21時32分01秒 | 司書日記
学校司書に必要な力。

それは…

「図工力」



いや、別に学校司書だけに限らないのかもしれませんが…。
ホントに、図画工作の力は重要です。

掲示、展示、貸出票、飾りつけ…。

館内整備はもちろん、先日書いた図書館便り、そして日常業務のいたるところに図工力は要求されます。

私、あんまり得意じゃないんだよなぁ。

図を描く。
絵を描く。
工作する…。

どれもこれも…。
不器用ですから。


やってるうちに上手くなる…?
じゃあ、まずはやらないと…か。


やっぱりこれも、ひとつづつ地道に作っていくことが大切なのでしょう。
面倒くさがらず、コツコツコツコツと…。


でも…難しいんだよなぁ。


今日は黙々とハサミ使い。
チョキチョキ…チョキチョキ…。

ハサミ一本でも…使いこなすには熟練が…。

余裕をなくして…。

2006年10月30日 21時35分36秒 | 司書日記
なんだろう。
いつから私は、こんなに余裕のない人間になったのだろう。


昨日の記事だってそうだ。
あれでは、「どんな本でも、面白いところのひとつやふたつあるものですよー」って感じではない。

「どんな本からも、面白いところを、ひとつは…いやふたつぐらい、探し出さねばならないのだ!!」

と叫んでるように感じる。


違う違う。
そんなにムキになって言うことじゃないんだ。

ただ単に、なにもかも、「面白くない」と切り捨ててしまうよりは、「面白いところを見つけてみようじゃないか」という気持ちで読んだ方が、読書に身が入るし、実際に面白いところが見つかるかもしれない。
そして何より、そうやって読んだ方が、「面白くない面白くない」と思いなら読むよりは、楽しいんじゃないのかな。

そう言いたかっただけなんです。


やっぱりどうも余裕がないなぁ。
余裕をなくして、あれこれ騒ぎ立てても、何も解決しないのに。

面白さの感じ方。

2006年10月29日 21時08分01秒 | 司書日記
唐突ですが…
さらに面白い本について。

面白い本の面白さ。
前回書いたのはこちら。

前回の記事では、自分で読みもしないで面白い本なんて分かるかよって話と、面白いの感覚なんて人それぞれなんだから、人の面白い本を聞いても、自分の面白い本が分かるとは限らないよというお話を書きました。

そういうお話を書いた…んだよね?
なんか、それだけじゃないような、そこまで言い切っていないような、そんな感じもするけど…。
まあ、書いたんだ、うん。


今日はまたそれとは別の、「面白い本」の話。

△とかなんとかやるのもどうかと思うので、思いっきりリンクで。
昔の光今いずこ:飢えてます

「面白い本を読んでいない」らしいです。

こちらは、読みもせずに「面白い本」を探しているのではなくて、読んだ上で「面白い本」がないと仰っていらっしゃるのですね。

ふむむ。
私は逆に、「面白くない本」がないんですが…。


これは、そもそも「面白い」の基準が違っているのかもしれません。

本の「面白さ」というのは、本全体に渡る問題なんでしょうか。

最初から最後まで、すべてが面白い本なんて、そうそうあるとは思えません。
そして、逆に、最初から最後まで、すべてが面白くない本も、そうそうあるとは思えないのです。

どこか1点、たった1点だけでも、ガッチリ心を掴む何かがあれば、それは面白い本だったってことになるんではないでしょうか。

そして、その1点すらも面白い部分が存在しない本なんて、この世に存在するのでしょうか。


この世には、「面白い本」が存在するんじゃなくて、本を「面白い」と感じる人間が存在するだけなんじゃないでしょうか。

そうだとするなら、その人間の読み方、感じ方次第で、「面白い本」は無限に存在することになるのではないでしょうか。


今そこにある本を読んで…
自分は何を思うのか。

何も考えずに本を読むことなんてできはしません。

言葉を読めば、情景が浮かぶ、絵を見れば、心情が浮かぶ。
浮かんだ情景は…感じた心情は、新たな情景を生み、心情を呼び起こす。

思考が広がる。

そこにある、ある一言から、無限に思考が発展する。

世界はどこまでも広がります。
そして、それは自然と行われる。

それは、「面白くなかった」という心情からでも変わりません。
あれは面白くなかった。
あれが、もしああなっていれば、面白かったかもしれない。

ああでもない、こうでもない。
色々考える。

それはすでに「面白い」ことなのではないでしょうか。

さらに、その本について他人の考えを聞く。
自らと考えを同じくする部分もあれば、違う部分もある。

そしてさらに考える。
面白さは、さらに広がります。


本の読み方も色々あります。
浅く読む、深く読む。
一気に読む、ちまちま読む。
何冊も読む、繰り返し読む。
再び読む、逆から読む。
飛ばして読む、斜めに読む。
縦読み、目次読み。
黙読、音読。

すべてにおいて、感じ方が違う。
同じ本でも、違う世界が広がる。

物語を読む。
辞書・事典を読む。
理論書を読む。
写真集を見る。

本の種類による違いも、また楽しみの一つ。
時には、辞書を物語のように読んでみるのも、面白いかもしれない。


もしかしたら、私の言ってることは、根本的な部分でずれているのかもしれません。
ですが…。


「面白い本」というのは、向こうからやってくるものなのでしょうか。
「面白い本」というのは、こちらから作り上げるものなんじゃないでしょうか。

そこにある本だって、読み方次第で、いくらでも「面白い本」になりうるんじゃないでしょうか。



うーん。
やっぱり何かずれているような気もするけど…。

何かを感じることが、そのまま「面白い」と繋がるかどうか…。
「感じたが、それがどうした」ってことなら、話は始まらない。
その「感じる」ということを、「面白い」ことだと思ってもらわなくては、この話は成立しない。

「面白くないと感じた」「つまらないと感じた」…
そのことすら、「面白い」と考える。

よく言いますよね。
「寒い」って。
「つまらん、寒い」と。
その寒さを感じること自体が面白いのではないのか。

ネタになる。
ネタにもならん。

愚にもつかない。


だが、そこが面白い。



そして、この考え方だと、極端に面白い本というものも、なかなか存在しないことになってしまいます。
すべて面白いのだから、面白くないものもでないけど、特に面白いものもなかなかでないのです。

特に面白い本。
それはやはり、何かを感じる部分が沢山あり、そして、その感じる度合いが大きい本ということになるのでしょう。

大きく心を揺り動かされる本。
それは、大爆笑であったり、超感動であったり、激鬱であったり…。

喜怒哀楽。
人間の感情を大きく揺り動かすことができるのが、面白い本ということになりますね。


しかし、何に反応するかは、人それぞれ。
やっぱり、面白い本は、皆違うもの。




ああ。また自分でもよく分かっていないことを長々と…。

休日だからできること。

2006年10月28日 22時20分25秒 | 司書日記
ということで、今日の交流会は欠席。
ろくにメールの返信もせずに申し訳ありませんでした。

だからといって、休日は家でゆっくりと体調の回復に努める…という訳には行かなかったりして。


午前中は病院へ。
耳鼻咽喉科へ行って参りました。

まあ、しかし、すでに症状は沈静化。
名残ぐらいしかない。
お医者様もそれではなんとしようもなかったようで…。
とりあえず、消毒して、薬塗って終了。


そして午後からは図書館へ。
わが町の図書館ではなく、勤務先近くの公共図書館です。
用件は、団体貸し出し用図書の選書。
休日でもないと、ゆっくり時間をかけて選べないので…。

と、図書館に足を踏み入れ、司書さんのお一人にご挨拶したところで、そのままとっ捕まりました。
図書館見学のイベントに参加しなさいと…。
断る理由も特にありませんので、喜んで参加。
しっかり見学させていただきました。

私の町の図書館の、図書館見学イベントは、年齢制限があって大人は参加できないんですよね…。
破損図書の修理法など、いろいろ見学させていただき、大変参考になりました。

後に書いたアンケートには、よく分からないことを書き綴っちゃいましたが…。
やはり時間をかけて、最低でも消しゴム持って書かないと、ほんとにまとまりのない文章になっちゃうな…
このblogもそうなんだけど。


見学終了後、本来の用件である選書に。
ここでは、なかなか学校図書館では揃え難い、一般書、それも画像、写真をふんだんに使ってあり、目に訴えかけるタイプの本を中心に選んできました。
中身が読めなくても、絵や写真を見てるだけで楽しめるような本ですね。

利用者が小学生ということもありますし、また、公共図書館からの団体貸し出し本は、自館の蔵書のようにほいほい貸し出すにはちょっと不安で、貸し出すにしても学級貸し出しまでにしようと考えています。
家に持って帰ってゆっくり読むということができませんので、その場で見て、その場で楽しめる、絵や写真の方が適しているだろうと考えました。


すべて終わって、博多駅に戻ってきたころには、すでに夕方5時を回っていました。


休日が休日になっていないような気がする。

よく分からない。

2006年10月27日 21時18分58秒 | 司書日記
とりあえず、熱は引いた…かな。
まだ平熱よりは高いけど。

朝の出勤時には、まだ熱があったのですが、学校では、熱だのなんだの言ってられません。
いつものようにバタバタしながらいろいろやってるうちに、熱はどこかに吹っ飛んでしまったようです。

しかし、頭痛が残ってしまいました。
なんだかよく分かりませんが頭痛い。

そもそも、発熱の原因も良く分からないしなぁ。
確かに風邪気味ではあるけれど、一時期よりは良くなってきてるし…。

その他に発熱の原因となりそうなのは、のどにある謎の「しこり」だけど…
これももう小さくなってきてるしなぁ。
多分このしこりは、ヘルペスの影響だったのかな…

他は…なにかあるかなぁ。


とにもかくにも。
体調管理はしっかりと。

そうしないと、仕事も…そして、遊びもままなりません。

そんな訳で金曜会欠席。
このまま、土曜の交流会も欠席になりそうな気配です。


交流会は欠席でも、土日のいずれかの時間を使って、仕事の一環の作業をしに外出す予定ではあるのですが…。

ちょっと考えてみなさい。

2006年10月25日 22時13分42秒 | 司書日記
考えが足りてないことが多い。

初めてやることなのだから、それが予想通りに行かないのは、むしろ当たり前のことなのだけど…

しかし、よく考えていれば分かるだろうってことが結構ある。

日程把握がきちんとできていなかったなんてもってのほかだ。
そんなのは、経験とか何とか言う以前の問題。

だけど…
実際のところ、まったく日程把握はできていない。
目の前のことしか見えていないのだから…。


出張に行くのに、その荷物がどれぐらいあるか考えてなかったなんてのも、あまりにも考えていなさすぎだ。

そこまで気を回す余裕がなかった…?
そんな問題なのか?
出かけるときに、荷物の量を確認するのなんて、気を回すのどうのという問題ではないだろう。


一体なにを考えているのか。
なにも考えていないのか。
なにを考える余裕もないのか…。


常に整理しなおす。
常に予定を立て直す。
常に先を見て動く。
常に確認作業を行う。

常に…常に…。

要は日ごろの積み重ね。
コツコツと…コツコツと…。


しかし、ホントに抜けてるなぁ。
指摘して下さる方がいらしたから良いものの…。
そのまま当日を迎えてたりしてたら、一体どうなっていたのだろう。

そして、結局どうするんだろう…。


やっぱり…余裕って大事ですね。

図書通。

2006年10月24日 22時48分31秒 | 司書日記
4月に、この図書館で学校司書を始めて以来、まだ「図書館通信」なるものを発行したことがありません。

司書という仕事に就いたのも、これが初めてなので…

つまりは、私は司書になって以来、まだ「図書館通信」の発行に関わったことがないことになります。


もう10月も終わります。
読書習慣も近いです。

流石にそろそろ「図書館通信」を発行してくださいって話が来ました。


いや…
私も発行したくなかったわけじゃないのです。
当初から、それはずっと気にかかっていました。

しかし…どうにも余裕が…。
常に自転車操業ですから。


「図書館通信」

さて、一体どのように作成すればよいのやら。
対象は児童ってことでいいんだよな…。
親御さん向けではない。

では内容は決まっているようなものか…。
普段足りていない、利用指導をそこで行わせてもらおう。

まずは本の借り方からかなぁ。


いまだ電算化の見込みすらない、我が図書館。
その貸し出しも、「カードでピッ!」とは行かず、1年生から、6年生まで、日付、ラベル、登録番号、題名を、自分の手で記録用紙に記入した上で貸し出し手続きを行っています。

その手順は結構煩雑で…。
担任の先生ですら、一度では覚え切れなかったりして。

1年生では、まだ文字を書くことすら満足にできない状況なのですから、その負担は倍増します。

そのため、結構みんなテキトー。
あちこち抜けていたり、どう見ても丁寧に書いたとは思えない文字だったり…
題名なんて、まともに書かれていることの方が少ない。
大抵は、書きやすい部分だけ、大幅に略して書いてあります。

たとえば、「ハリー・ポッターと賢者の石」なら、「ハリー・ポッター」のみ。
「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」も、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」も、すべて「ハリー・ポッター」。

まあ、登録番号さえきちんと書いてあれば、どの「ハリー・ポッター」か判別することは可能なんですが…。
その上、登録番号もまともに書かれていなかったりすると、もう記録だけでは何を貸し出しているのか分かりません。

そんな問題は、貸し出しの際にきっちりチェックしていれば起こらないのですが…。
慌しい図書の時間や、休み時間、そして、私ではなく図書委員が手続きを行った場合など、そのチェックが徹底できないことがかなり多く…。


では、それを「図書館通信」に書けばいいんじゃないか。
文書として残せば、少しは改善するんじゃないだろうか。

もうすでに正式な記入法を忘れている方も多数いらっしゃることだろうし。
(あ、また「いらっしゃる」だ。)


と、書く内容が決まったからって、すぐに完成できるわけじゃない。
なんせ作ったことのないものです。レイアウト、文章の形式…いろいろ考えなければならないことは多く、その作成基準もこれといって持っていない状態。

昨年度の図書館通信を必死で参考にするしかありません。


さてさて、無事作成できるだろうか…。
その間にも、他の仕事は山ほど積まれているのだし…。


信じる未来は自分で作り上げるしかありません。

一人呟く。

2006年10月23日 23時06分45秒 | 司書日記
ああ。もう今日が終わる。
一日フル稼働しているつもりなのに、物事が滞りまくりなのはどういうことか。

疑うべきはやはり自分。
フル稼働しているつもりは、本当に「つもり」で、実際のところ、ほとんど動いていないんじゃないだろうか…とか。
まだまだ、動ける余地があるのに、それをしていないだけなんじゃないだろうか…とか。

実際、きっとそれはある。

私の動きに無駄が多く、効率が悪いことは疑うべくもないですし、連絡、協力体制がきちんと取れていないことから、私だけでカバーできない部分がそのまま残ったままになっていることも事実。

もっともっと、周りと緻密に連携を取れていれば、物事は今よりはスムーズに進んだのではないだろうか…とか。

休日、帰宅後、なにかやれることがあったんじゃないだろうか…とか。


物事が滞るのは、すべて私の怠慢が原因なんじゃないだろうか…とか。



そんなことを、うじうじ考えるより、その間に1歩でも2歩でも進んだほうが建設的であることも分かっているのです。
この考えている時間がもったいない。だから進まないのだ…と。


なんだかんだここで言っていても仕方ないのになぁ。
嫌だ嫌だ。

こんなこと書いてる自分が嫌だ。



はあ。
やっぱり私は私、昔から変わってないんだなぁ。
昔の自分がまた顔を出しそうで怖い。


建設的に、建設的に行かなくちゃ。
とにかく今日は終わる。
終わるものは仕方ない、明日に備えてゆっくり休め。

そして明日は覚悟を決めて。
動ける限りに動くべし。
動かぬ心は無理やり動かせ。

なるようになる。
なるようになる。
後は野となれ山となれ…?


少しぐらい投げやりなほうが、物事は帰ってスムーズに進むのかもしれない。

石橋を、たたいて壊すな、飛び越えろ…?



よく分からなくなってきたけど…。
ともかく、休む。
今は休むことだけを考えよう。


体調もあまりよくないしね。
謎の腫れ物がのど元に…。
ヘルペスも、完治しないまま、薬切れちゃったし…。
病院行く暇もないし。




いつ果てるとも知れない、独白。
これをblogに記す意味は…?

後からこれを見返して、私は何を思うのだろうか。
後っていつなんだろうなぁ。


未来が見えない。
だけど明日はやってくる。
時の流れに身を任せ…


もう何を言ってるのか分からなくなってきたので、休もう…。

言葉遣い。

2006年10月22日 19時58分23秒 | 司書日記
分からないことだらけの学校図書館生活。

この言葉遣い、おかしいですか?

「今、図書館利用の児童がいらっしゃっいました。」
「今、図書館には、3人の児童がいらしています。」

実際に、私が児童の状況について他の先生に報告したとき、こんな言葉遣いで報告しました。
他の状況じゃ、あまりこんな言葉は使わないのですが…。

「今日の放課後、2年生の児童3名に、貸し出しを行わさせていただきました。」
「返却が遅れていた児童に、図書を返却していただきました。」

流石にこんなことは言わない。


私がこんな言葉遣いをするのは、児童が図書館に来た際に限られるようです。

「いらっしゃった。」
「いらした。」
「いらっしゃってます。」

児童の来館状況を報告するのに、このような言葉遣いをするのはおかしなことなのでしょうか。

「図書館に来ました。」
「図書館に来てます。」

こちらの方が普通?

しかし、それでは、児童が来ようと、他の何かが来ようと、表現が同じになってしまいます。

「今、図書館に児童が一人来ました。」
「今、図書館に猫が一匹来ました。」

そして、PTAの方やそのほか学校関係者が来たときとは差ができてしまう。

「今、図書館は3年生の児童が、調べ学習に来てます。」
「今、図書館には読み聞かせの会の方がいらしています。」

なんだか、これに抵抗があるのです。


上手く表現できているかどうかは分かりません。
とにかく、私の口からは自然に「いらっしゃってます。」「いらしてます。」という言葉が出てくるのです。

しかし、これはおかしいらしい。
「児童に対して、そんな言葉遣いはダメですよ」という注意まで受けました。

うーん。
おかしいですか?

図書館に来る児童は、図書館に来る犬猫とは違います。
図書館に来る児童は、図書館に来るPTAの方との間にはそれほどの差があるとは思えません。
どちらも重要な図書館利用者。
学校図書館ですから、利用の頻度だけから見れば、児童の方が上です。

うーん。
私の感覚がおかしいのでしょうか…。


しかし、私にしても、そんな言葉遣いをするのは、どうも来館状況報告の際だけみたいなので、それ以外との差も良く分かりません。


「4時間目に、急遽調べ学習の児童がいらしたので、歴史の本を数冊、学級貸し出ししました。」

こんなのが、私の感覚では、いたって普通な言葉遣いなんですが…。

「4時間目に、急遽調べ学習の児童が来たので、歴史の本を数冊、学級貸し出ししました。」

むう。
やっぱりなんか…違和感が…。


この敬語は、いったい誰を敬っているのか。
図書館利用の当事者である児童?
それとも、報告相手である先生?

私の言葉遣いから見れば、児童に対して敬語を使ってることになるはずです。
では、それを注意されると言うことは…

児童は敬うべき対象はない?
そんなこともないと思うのですけど…。


ここにも分からないことがひとつ…。