Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆最晩年に喧嘩別れ!? 西行は清盛を見捨てて頼朝についた!?

2021-09-11 03:55:28 | Weblog

西行 嘆けとて 月やはものを 思はする かこちがほなる わが涙かな
(哀しみ嘆けといって、月が物思いをさせるのだろうか。いやそうではない。それなのに月のせいにして、かこつけがましくこぼれる涙であることだ。)


●希代の悪漢と漂泊の詩人は元同僚!
 『平家物語』の描写や日本人の判官びいきにより、これまで悪漢とされて来た平清盛。しかし2012年の大河ドラマ『平清盛』では、その知られざる姿が描かれている。卓越した政治力とカリスマ性で武士としては日本初の覇者となった男は、人情味溢れる好漢だった、と。
そして、その清盛と生涯を通じての親友として描かれているのが、漂泊の詩人として知られる西行である。元々武門の家柄だった西行は、清盛とは同じ年の友人で、共に北面の武士として鳥羽上皇の身辺警護にあたっていた。
●二人の交流と不可解な距離感
 流鏑馬など武芸のみならず、和歌や蹴鞠にも才があった西行は、将来を嘱望されていたにも関わらず、23歳の時に出家。山里の草庵を転々とする生活に身をやつす。その後、奥州平泉への旅を経て高野山に入ってからも、西行と清盛の交流は続いていたようだ。高野山に課された造営費用の免除を依頼した「円位書状」の他、清盛への期待を表したり偉業を称えるような和歌が残されている。ところが、これを以て生涯の友人とするには、些か無理がある。そもそも同じ北面の武士だったとはいえ、清盛と西行では当時の身分が違い過ぎたからである。また、清盛の死に関わる和歌を残していないのも、生涯の友だったとするなら不自然だ。
●権力者とは大たいトモダチ!?
 晩年、後白河法皇を幽閉した清盛に対して、西行が失望したとする説もある。だとすれば清盛の死後、源頼朝と面会した西行の動きに疑惑が生じる。清盛を見限って頼朝に接近しようとしたのではあるまいか。また、先の失望説を採れば、後白河法皇の使者だった可能性も浮上して来る。折しも、頼朝が弟の義経と決定的に対立していた頃である。表向きは勧進(浄財の寄付依頼)目的で義経と縁深い奥州平泉へ赴くにあたり、安全の保証を得る為とされているが.....。面会時、歓待した頼朝と対照的に、西行はつれない態度だったという。贈り物として貰った純銀の猫まで、通りすがりの子供に与えたという徹底ぶり。イメージとはかけ離れた無頼ぶりである。演出過多、と捉えることもできる。その裏に、何らかの政治的取引があったとしても不思議ではない。
●文中 知っておきたい用語集
 『北面の武士』 白河法皇が創設した院の直属軍。御所の北側にあったことから、こう呼ばれた。主な任務は院の身辺警護だが、寺社の強訴を止める為に動員されることもあった。
 『円位書状』 西行から高野山に宛てた書簡のことで国宝となっている。高野山に課された和歌山日前宮造営の賦役免除を頼み込み、認められた報告がなされている。ちなみに、「円位」は西行の法名。


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◆怪奇! 空飛ぶ生首の真実!!! 胴体を求めて飛んだ将軍・将門の首

2021-09-10 04:01:34 | Weblog

●将門の首塚は日本各地に点在した!
 東京都千代田区、オフィス街の一角にひっそりと佇む小さな祠がある。反乱に敗れて殺害された将軍・平将門の首が、京から飛んで来て落ちたとされる場所だ。桓武天皇から5代後の末裔となる将門は、父親の遺産である土地を親族に執拗に狙われ、遂には逆襲して伯父を殺害してしまう。更に、その勢いに乗じて常陸国府を襲撃・占領し、自ら新皇と称したのである。だが、僅か五十数日後、朝廷から逆賊の汚名を受けて呆気なく謀殺されてしまった。
●怪奇現象を巻き起こす将門の首.....
 討ち取られた将門の首は、京の七条河原に晒された。だが、不思議なことに3か月経っても首は変色せず、而も将門の眼はカッと見開き、まるで歯ぎしりしているようだったという。そんなある日、歌人・藤六左近が将門の首を見て歌を詠んだ。すると地面が轟き、稲妻が走ると共に将門の首が雄叫びを上げたのだ!「躰につけていま一戦させん。俺の胴は何処だ!」
この叫びは毎夜、京中に鳴り響いて人々を恐怖で震撼させた。だがある夜、将門の首は胴体を求めて空を飛び、坂東、つまり今の関東に消えて行ったという。首が落ちたとされる場所は、先の千代田区の首塚以外にも、岐阜県大垣市の御首神社や同県の南宮神社(現在の南宮大社)など諸説ある。将門の首は、日本各地をさ迷った挙句、自身の胴体を見つけることが出来たのだろうか?


【画像】 日本三大怨霊「将門の首塚」(東京都千代田区)


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◆派手な恋愛遍歴を辿った歌姫 天才歌人・和泉式部はアバズレ女だった!?

2021-09-09 04:12:33 | Weblog

 

●結婚しても恋に夢中
 和泉式部は中古三十六歌仙の一人で、王朝歌人の中でも随一と言われるほど才能に恵まれていた。私生活では15歳にして和泉守橘道貞に嫁ぎ、一女を産むが、道貞の陸奥赴任に際して寒い国に行きたくないと我儘を言って、夫を単身で送り出した。都に残った式部は、夫の留守中、漁色家で知られる為尊親王に口説かれて関係を持つ。彼を忘れられずに恋文にしたためて贈ったのが、小倉百人一首にも採られた「あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢ふこともがな (もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです)」という歌である。
●最愛の男性を立て続けに失い.....
 為尊親王が26歳で早世すると、間に何人かの男たちとの味気ない関係を経て、運命の相手・敦道親王と出会う。彼は為尊親王の弟で、兄に輪をかけて美男で、かつ男らしかった。二人は当然の如く恋に落ち、のぼせ上がった敦道親王は、式部を自分の館に連れ込んでしまう。こうした敦道親王との日々を記したのが『和泉式部日記』である。幸せは長く続かず、敦道親王も兄同様に早世してしまう。
宮廷に出仕した式部は、既に離婚していたこともあり、40歳過ぎで摂政・藤原道長の四天王の一人である藤原保昌と再婚した。道長から「浮かれた女」と評された式部だが、恋愛遍歴の最後はこの保昌となったようだ。夫の任地・丹後に下った後の晩年は、派手な前半生から一転、寂しいものだったという。


       
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◆女二人集まれば対立するもの? 犬猿の中だった 清少納言と紫式部

2021-09-06 04:26:59 | Weblog

●勃発! 清少納言VS紫式部
 女流文学が隆盛を極めた平安時代。その中心が『枕草子』の清少納言と『源氏物語』の紫式部である。この二人の才女、俗説として仲が悪かったとされるのは、その対称的な性格ゆえだろう。
「人に一番気に入られたい」とは、清少納言の言葉。宮廷で生活し、まさに社交界の花形的存在であった彼女は、自分の才能をより多くの人に認めてもらうことを望んだのである。そんな清少納言に対して、紫式部は「宮中のようなところで、どうして見識をひけらかしたり出来るのか」と言って批判したのだ。二人が活躍した時期には若干のズレがあり、実際に顔を合わせることはなかった。しかし、お互いに相容れない存在であったことは間違いなさそう。
●ライバルがいたからこそ.....
 また、彼女たちの不仲説を後押しする根拠に、とある政治的背景が存在している。時の一条天皇は「一帝二后」という二人の妻を置くシステムの祖であり、皇后に定子(ていし)、中宮には彰子(しょうし)を立てていた。そして清少納言は定子に、紫式部は彰子に仕えていたのである。仕える后同士が対立しているのだから、二人が相反する関係であったことは想像できるだろう。とはいえ、ライバルがいたからこそ互いに高め合うことが出来たのもまごうことなき真実。そんな二人の対立関係が、女流文学の隆盛に繋がった.....と言えるのかも知れない。


 
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◆学問の神様、そのもう一つの顔とは!? 人々を恐怖に陥れた菅原道真の怨霊

2021-09-05 04:02:12 | Weblog

●非業の死を遂げた道真
 受験生の多くが合格祈願に参拝する場所といえば、天神様を祀った神社だ。京都の北野天満宮や福岡県の太宰府天満宮、山口県防府天満宮など全国に点在し、天神様こと菅原道真が祀られている。こうして彼が祀られているのは、単に学問に優れていた為だけではない。実は、非業の死を遂げた彼の怨霊を鎮める為に祀られているとも言われているのだ。学問に長けていた道真は、異例の早さで文章博士に就任。順調に出世を遂げ、遂には右大臣にまで上り詰める。だが、901年、彼は謀反の嫌疑をかけられ、大宰府に左遷されてしまう。実はこれ、全て道真の政敵であった左大臣・藤原時平の差し金だったというのだから報われない。
 
 
●学問の神様のもう一つの顔
 道真の死後、京の都には異変が続発。
天皇の息子が次々に病死した上、清涼殿は落雷で多くの死傷者を出すという非常事態に陥った。人々はこれを「道真の祟りだ」と恐れ、もともと火雷天神が祀られていた京都の北野に天満宮を建てて道真の怒りを鎮めようとしたのである。この天神信仰はやがて全国に広まり、各地に祀られた祟り封じは、生前の道真が優れた学識の持ち主だったことから次第に学問の神様へ変貌し、信仰されるようになった。天神様の真の姿は、人々を恐怖のどん底に陥れた荒ぶる神だったのである。
●菅原道真
 学問に優れていた道真だが、その才は文芸にとどまらなかったという。弓遊びが行われた時、道真の射た矢は何と百発百中で門人たちを驚かせたという。文武両道に秀でた人物だったのである。


     
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◆美しい薔薇には棘がある 小野小町は男を自殺に追い込んで呪われた!?

2021-09-04 04:14:11 | Weblog

●幾多の男を惑わした美女
 六歌仙の一人に数えられるほどの歌の才と、世間が羨む美貌を併せ持った小野小町。出自については詳しく明かされていないが、その美貌に関すエピソードは数知れず、男から言い寄られる類いの話は枚挙に暇がない。中でも有名なのが「深草少将の百夜通い」である。
要約すると内容は次の様になる。
小町に一目惚れした深草少将が求愛したところ、彼女は「百夜通い続けたら契りを結ぶ」と約束。その要求を受けた少将は居宅から小町の住む里までの5㌔の道のりを毎晩通い続けた。だが九十九日目の夜、少将は大雪に見舞われ、志半ばにして凍死してしまう.....。
●思わせぶりな態度をとっておいて.....
 このエピソードを聞くと、無残にも結ばれなかった男女の悲恋の物語の様に見えるが、実はこの話には小町の悪女性が表れた別のエピソードがある。
少将が通い始めて百日目の晩、小町は何と約束を破って逃げ出してしまったというのだ。追いかけて来る少将から逃れる為に、小町は侍女に自分の服を着せて身代わりにした。それを見た少将は怒り狂い、池に身を投げたという。
小町の晩年に焦点を当てた能楽「卒塔婆小町」には、彼女が少将の霊に取り憑かれて没落した姿も描かれている。美しさゆえに多くの男を惹きつけた小町だが、それゆえに生まれた悲劇は数知れない。


   
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◆有間皇子、大津皇子、etc..... 万葉集に秘められた「罪人」たちの想い

2021-09-03 04:14:43 | Weblog

●無念な想いが伝わる罪人たちの歌
 飛鳥・奈良時代に編纂された現存最古の歌集『万葉集』。350年もの長い年月をかけ、上は天皇から下は一般庶民まで幅広い身分の人々の歌が4500首以上も収められた貴重な歌集だ。幅広いというだけあって、中には罪人とされた者たちの歌も存在する。敢えて「された」とした。実は彼らは無実だったのだ。
例えば中大兄皇子に罪を着せられた有間皇子。彼は連行された際に「ふたたび無事に戻ることができれば、この松枝の結び目を見ることもできるのに」と、生きて帰ることを切実に願う歌を残している。
更に持統女帝が息子に跡を継がせる為に濡れ衣を着せられた大津皇子。彼の姉が無実の罪を着せられた弟の運命を想い、やるせない気持ちを表現した歌も万葉集には収められている。
●真実を主張できない理由
 濡れ衣であることが明らかなのに汚名が雪げなかったのは、「国家の理論」が優先された為、彼らの無実を認めれば、天皇が罪を擦りつけたことが明らかになってしまう。天皇が絶対とされていた時代、これを認めるのは不可能だった。どんな身分であろうと、天皇の誤りを指摘することは許されなかったのだ。
万葉集にこうした罪人の歌が収められているのは、濡れ衣を着せられた人々の無念を、少しでも軽減させたいという選者の想いがあったかも知れない。


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