或る人曰く、徳を以て怨みに報ゆれば何如と。
子曰く、何を以てか徳に報いん。
直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いよ、と。
ある人が孔子に尋ねた。
「恩徳を施して恨みのある者に報いてやると云うやり方はどうでしょうか。」
孔子が言われた。
「では、恩徳を施してくれた者には、どうやって報いればよいのか。恨みのある者には正しさで報い、恩徳を施してくれたものには、恩徳をもって報いるのが好いのだ。」
無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。
小なるを大とし、少なきを多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。 老子
無為(=人為的な細工をしないこと)を自分の生き方とし、無事(=何事もしないこと)を自分の営みとし、無味(=好悪をもたぬこと)を自分の感情とする。
小さな者には大きな物を与え、少ない者には多くして返してやる。
恨みのある者には、徳をもって報いてやる。
今読んでいる「興亡三国志」には、故事や論語、史記、兵法等々がよく出されているのですが、私は疑問とか、調べてみたいことが度々と出てくるので、それが愉快だったりしています。
本屋さんで「老子」も手にとっては見てはいるものの、孔子とそうは変わりなどないものだと思っており、差ほど気にもかけていませんでしたが、興亡三国志内で劉備が言う老子の言葉「怨みに報ゆるに徳を以てす」と示されていて、早速調べてみたのです。
孔子も同じことを語っておりますが、その解釈が違うんだと云うことに気づいて、何か、嬉しい気分になっておりました。
この句に対する「論語」と「老子」の判断の違いが、儒教と道教の二つの考え方の極点を示すものの様だ。
「君は、心善からぬ同輩の告げ口で免官になっても、告げ口をした者やそれを信じた人も恨むことはしなかった。
怨ミ二報ユル二徳ヲ以テス、これを実行することは容易ではない。
まして今の様な乱世においては至難である。
それの出来た君こそが得難い才能を持っている証拠ではないか」と、劉備一流の口説き方。
才ある者はどんな立場や者(泥棒であっても)であっても我の下に来給え(才を活かすも活かさないも自分の使い方の腕前)と言う曹操とは対比する人材登用と云ったところでしょう。
「この世で受けた恩も仇も、わが命を賭けてこの世で返す」的な、ムキになってる韓国ドラマばっかし見ていると、何気に儒教って嫌気がさしていたものですが、仏教を主とし、儒教や道教、或いは密教的なものも混ざり合って日本では浸透していると知って、孔子にこうして興味を覚えているのだし、これからは老子も学んでみてもいいのかナと考えていた昨日でした。
文で読めばとっても難しいことの様に思われますが、仏教がそうである様に、私たちの日常や暮らし、日本人の道徳観に当然として儒教も道教も身についているのです。
枝葉の違い、解釈の違いだけのことだろうと私は思っています。
「史記」で有名な司馬遷が言う「士ハ己ヲ知ル者ノ為二用イ(或いは死ス)」と劉備に見込まれた人物が返答するのですが、これだって、現代に大いに通じたりしますよね。
そんなこんなしているうち、昨日の朝「ビン・缶・ペットボトル」を出しに出たところ、結構雪が消えてしまっているのには驚きました。
私はワザワザ雪や氷を割りに出ない方なのですが、どうしようとしまいと、平等に春が訪れて来るんだと云うのが、毎年繰り返されている事だけれど、この時季特有の新鮮な気持ちだろうと想いました。
人生だって、何を成そうと成さずとも同じ人生ではあるけれど、道を定めた真摯な心で穏やかに過ごす人生を私は望もう。
今日で3月も終わりかと思うと何かしら惜しい様な気にもなるんですが、月が替わるのも楽しみってあるって想うから、また、自分が遣るべき努力をし、心新たにし頑張れたらいいとイメージしていますし、自分の行きたいとかしたい方向が、若干でもこうして明確に成って来た喜び(?)を大切に。(G皿G)b
それと、昨日はときどき強い風が吹いたりしていました。
りんごを啄みに来たこの子が飛ばされそうでしたよ。