Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆英国が誇る大劇作家シェイクスピアを語る上で避けられない「ゴーストライター」説

2019-05-31 04:09:49 | Weblog

「ロミオとジュリエット」「ハムレット」などの作者ウィリアム・シェイクスピアは、近世イングランドの有名な詩人・劇作家であり、その人生に於いて、少なくとも37の戯曲と、150を超えるソネット(14行詩)など、珠玉の作品を後世に残した人物だ。

*シェイクスピアが「あの作品」を書けるはずがない理由  
しかし、彼の人物像には謎が多い。何しろ、分かっているのは、彼が1564年にロンドン北西のストラトフォード・アポン・エイボンに生まれたこと。父親は羊毛・肉類・穀物などの商売に成功して一時は豊かになったが、1575年頃から没落した為に、シェイクスピアは学業の中断を余儀なくされ、家業の手伝いや徒弟奉公などで一家を支えていたこと。そして、1582年に8歳年上の女性と結婚したことぐらいなのだ。
その後、1590年に「ヘンリー6世」で劇作家としての地位を築くと、1595年には「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」、1601年に「ハムレット」といった具合に作品を次々に発表し、売れっ子劇作家となった。しかし、1609年には故郷に引退して筆を折り、1616年4月23日にこの世を去った。52歳だったという。
これほど有名な劇作家なのに、その人生について分かっていることはあまりにも少ない。
それだけでもかなり不思議だが、最も不思議なのは、シェイクスピアという人物は、満足な教育を受けることができず、貴族階級の出身者でもなかったのに、国内外の歴史や、全く体験していないはずの宮廷社会を何故あそこまで見事に、そして詳しく描き出すことができたのか、という点である。
それだけではない。シェイクスピアの作品には、医学や法学など、深い学問知識がふんだんにちりばめられている。例えば「ヴェニスの商人」は、ユダヤ人社会やヴェネツィアの法体系などを理解していなくては描けないものだ。而も、シェイクスピアが余生を送った故郷には、彼に関する資料が何一つない。その結果、シェイクスピアの作品は実は別人が書いていたのではないかという疑問が、19世紀の半ばから続々と出ていたのである。

*「本物のシェイクスピア」の候補たち  
当代一級の知性と教養の持ち主で、貴族や王族、歴史にも詳しい教養人ーーー。
こうした条件を踏まえた上で、シェイクスピアの正体ではないかという人物が何人か浮かび上がっている。 先ず最有力候補とされるのが、16世紀英国有数の科学者兼哲学者で政治家でもあり、当代一のインテリと謂われたフランシス・ベーコン(1561~1626年)である。 政治家でもあった彼は、その作品が政治色の強い面もあることから、表向きシェイクスピアが書いたことにしたのではないかと謂われている。ベーコンの蔵書には、シェイクスピアの戯曲に出て来る寓話や引用句が全て含まれているという事実もある。 二人目の候補者は、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーだ。エリザベス1世の宮内長官という職責を担っていた人物で、英国屈指の名門の出身、教養も十分、上流社会の内側にも精通しており、1575年と1576年にヨーロッパ周遊をした際には、ヴェネツィアなどシェイクスピアの戯曲に出て来る場所も訪れている。
他にも、旅の経験が豊富な劇場主のダービー伯ウィリアム・スタンリーや、シェイクスピアと同世代で、同じく戯曲を書いていたベン・ジョンソンやクリストファー・マーロウなども候補として挙げられる。

*「自由な作品」を送り出す為の隠れ蓑  
真相は今も不明だが、そもそも彼らは何故正体を隠さねばならなかったのか?
それは当時、政治への批判やキリスト教の教義に反する考えを持つことは、首を刎ねられかねない時代だった為、それだけ社会的地位の高い人物は、戯曲といえども、自分の名前を出すことに用心深くならざるを得ないことは想像に難くない。ストラトフォードのシェイクスピアという人物像を作り上げることで、自由な、そして優れた作品を世に送り出したことになる。


シェイクスピアとされる人物の肖像


シェイクスピアと名乗った人物の候補者たち


                   世界史ミステリー
                   密かにささやかれ続けた実しやかな「噂」のミステリー


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日々草(Madagascar periwinkle) Catharanthus roseus 楽しい思い出

2019-05-30 04:27:55 | Weblog

和名である「日々草(ニチニチソウ)」は、初夏から秋まで次々に新しい花を咲かせ、
日々花が絶えないことに由来しています。

花言葉の楽しい思い出は、鮮やかな色の花をたくさん咲かせる姿がとても楽しげで、
夏を満喫した子どもの頃を連想させることに由来するといわれます。


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蝦夷葱(Chives) Allium schoenoprasum 忠実 素直 柔軟性

2019-05-29 11:03:06 | Weblog

臭みの少ない優しい風味が、どんな料理にも合うことから、
忠実・素直・柔軟性といった花言葉が付いたようです。✺◟(∗❛ัᴗ❛ั∗)◞✺


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菜根譚 前集147項

2019-05-28 06:09:28 | Weblog


ライラック Syringa vulgaris 思い出 友情 謙虚

反己者、触事皆成薬石、尤人者、動念即是戈矛。 一以闢衆善之路、一以濬諸悪之源。 相去霄壤矣。

己れを反みる者は、事に触れて皆薬石と成り 人を尤むる者は、念を動かせば即ち是れ戈矛なり。  
一を以って衆善の路を闢き、一は以って諸悪の源を濬くす。 相去ること霄壤なり。

「反省は己を養い叱責は己を傷つける」
自分の言行を反省する人は、あらゆる事柄に触れると、 それがすべて自分自身の良薬となるし、
人の過失を責め咎める人は、心を動かすごとに、 それがすべて自分を傷つける刃物となる。
前者の場合は、多くの善行を積む路を開くことになり、
後者の場合は、多くの悪事を重ねる源を深くすることになる。
両者の違いは天と地ほどの雲泥の差がある。


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◆ハプスブルグ家の皇太子夫妻が襲撃された20世紀初頭、ヨーロッパの運命を変えた、1台のオープンカー

2019-05-28 05:59:46 | Weblog

オーストリアの首都ウィーンの軍事史博物館に、1台の赤いオープンカーが展示されている。
銃弾の跡が生々しく残っているこの車こそ、第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の際に、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者、フランツ・フェルディナント夫妻が襲われた際に乗っていた車である。

*所有者の命を次々に奪った呪いのオープンカー  
悲劇の発端となったこの赤いスポーツカーは、夫妻がサラエボで移動する為に造られた新車であった為に廃車とならず、その後、次々に所有者を不幸に陥れる「呪われた車」となって行く。
赤い車は、第一次世界大戦開戦後、第5オーストリア軍団の名指揮官ポティオレク将軍の所有となった。しかし、彼はその21日後、セルビア西部の都市ヴァリェヴォ近郊で起こったセルビア軍との戦闘で大敗を喫し、ウィーンへ送還。将軍はショックで精神を病み、養老院で死亡した。 次にポディオレク将軍の部下であった大尉が所有者となったが、9日目にクロアチアにて2人の農民を轢き殺した末に、自らも木に激突して死亡。 次に所有者となったユーゴスラビアの新任の知事も、4か月の間に4回も事故を起こし、4回目の事故で右腕を失った。 知事は車を破棄しようとしたが、スーキスという医師がただ同然で買い取り、6か月間、快適に乗り回した。ところが或る日の朝、スーキスは横転した車の下から死体となって発見されたのだ。しかし、不思議なことに、車には少し傷がついただけだったという。 死亡したスーキスの夫人はこの車を宝石商に売った。宝石商は1年近くの間、この車を無事に乗り回していたが、やがて自殺した。 次にまた別の医師がこの車の持ち主になったが、不吉な噂を耳にしている患者たちが寄り付かなくなり、スイスの某レーサーに譲り渡した。そのレーサーがドロミテのロードレースにその車で参加したところ、レース中に車外へ振り飛ばされ、石壁に激突して死んでしまう。 更に、車は回り回ってサラエボ近くに暮らす裕福な農民のものとなったが、或る朝、突然止まってしまい、通りがかりの農夫の荷馬車に繋いで引いてもらうことにした。すると、車が突然走り出し、暴走の末に曲がり角で横転して農夫と所有者が命を落としたのだ。

*今では、ウィーン軍事史博物館に展示されている  
壊れた車は自動車修理工場所有者のティバー・ハーシュフィールドに買い取られて修理され、青く色を塗り替えられた。このティバーが最後の犠牲者となる。その車で彼は結婚式に6人を連れて行く途中で事故を起こし、本人と友人4人が死亡したのである。 その後、車は政府の費用で修理され、ウィーン軍事史博物館へと贈られた。16人の命を直接的に吸い上げ、何百万もの犠牲者を出す世界大戦の戦禍をもたらしたオープンカー.....。 もしもう1度走り出したら、また新たな不幸を生み出すのだろうか?

                  世界史ミステリー   
                   迷信か、それとも..... 戦慄が走る「呪い」のミステリー


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西洋苧環(Columbine) Aquilegia  愚か

2019-05-28 03:30:20 | Weblog

英名のコランバインは、ヨーロッパの道化芝居に登場する娘の名でもあり、その娘が持つ杯に花姿が似ていることにちなみます。「愚か」の花言葉は道化役に由来します。


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鈴蘭水仙(Summer snowflake) Leucojum aestivum 汚れなき心 皆を惹きつける魅力

2019-05-26 06:25:03 | Weblog

 


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菜根譚 前集112項

2019-05-25 17:12:34 | Weblog

公平正論不可犯手。 一犯則貽羞万世。 権門私竇不可着脚。一着則点汚終身。

公平なる正論には、手を犯すべからず。
一たび犯さば則ち羞を万世に貽す。  
権門私竇には、脚を着くべからず。  
一たび着かば則ち汚れを終身に点ず。

「正義を犯さず、権門に近づかず」
公平な意見や正当な議論に対しては、反対をしてはいけない。
もしちょっとでも反対すると、その恥を後々まで残すことになる。
権力のある家や自分の利益ばかり計っている人々の所には、足を踏み入れてはならない。
もしちょっとでも足を踏み入れると、その消すことのできない汚れを生涯持つことになる。


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自宅の牡丹が開花しました (*'∀'人)

2019-05-24 11:51:22 | Weblog

牡丹(Tree peony) Paeonia suffruticosa 風格ある振る舞い


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菜根譚 前集111項

2019-05-23 15:35:06 | Weblog

市私恩不如扶公儀。
結新知不如敦旧好。
立栄名不如種隠徳。
尚奇節不如謹庸行。

私恩を市るは、公儀を扶くるに如かず。
新知を結ぶは、旧好を敦くするに如かず。
栄名を立つるは、隠徳を種うるに如かず。
奇節を尚ぶは、庸行を謹むに如かず。

「四つの心構え」
個人的な恩恵を施すのは、天下の公正な議論に味方するのに及ばない。
新しく交友を結ぶのは、古い友人との親しい付き合いを厚くするのに及ばない。
人に知られるような良い評判を立てるのは、陰で徳を積むのに及ばない。
優れた行いを尊ぶのは、日常の行いを慎むのに及ばない。


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◆22人もの関係者が次々に謎の死を遂げた「ツタンカーメンの呪い」は、果して本物だったのか

2019-05-23 04:35:04 | Weblog

1922年11月4日、古代エジプト新王朝のファラオの墓が集中する「王家の谷」で、第18王朝のファラオ・ツタンカーメンの墓が発見された。
悲劇の少年王が2240年以上の眠りから目覚めた瞬間である。
黄金のマスクや黄金で飾られた副葬品が次々に出土したこの発掘は、「世紀の大発見」といわれ、世界的な注目を浴びる。しかし、この「世紀の大発見」は、後に「ツタンカーメンの呪い」という恐ろしい伝説を生むことになった。

*考古学者のパトロンの変死から凶事は始まった  
事の始まりは、ツタンカーメンの墓を発見したエジプトの考古学者ハワード・カーターのパトロン、カーナヴォン卿の死だった。ツタンカーメンの墓が発見されたことで、カーナヴォン卿も世界的な名声を得ていた。そのカーナヴォン卿が、発掘から半年後の1923年4月6日に、突然亡くなったのだ。原因は、髭を剃った際に蚊に刺された箇所を誤って傷つけてしまい、感染症を引き起こし、肺炎を併発したことだった。
更に、その後、カーナヴォン卿の弟、専任看護師、カーターの秘書と助手、数人のエジプト学者と考古学者といった具合に次々と王の墓お発掘に関わった人物が死亡し、何とその数は20人以上にも及んだという。
しかし、これらの死は本当に呪いだったのか? この恐怖の伝説は、或るライバルによる策略だったという説があるのだ。

*発掘したカーター本人の身には何もおこらなかったという謎  
確かにツタンカーメン王の墓の発掘では、関係者の多くが死亡している。しかし、カーナヴォン卿の年齢は56歳と、当時としては、決して若いとはいえない。彼が王家の谷の暑さでかなり衰弱していたという背景もあった。この体力の低下が、病を悪化され、彼を病死させたのだ。 石棺を開けた際に立ち会った人物は22人いるが、そのうち亡くなったのは僅か2人であり、ミイラの包帯を取り除いた時に立ち会った10人は誰も亡くなっていないのだ。
そもそも、呪いを受けるなら最も強く恨まれそうなカーター自身に、何事も起こらなかったのは不自然だ。彼はその後も、約20年に渡って発掘作業に携わり、64歳まで生きたのである。実際、呪いで死んだとされる人は、ほとんどが高齢者か、持病があった人だった。

*呪いの噂は「メディアによる印象操作」?  
では、何故「呪い」などといわれるようになったのか?
そこにはカーナヴォン卿が、発掘後にタイムズ社(ロンドン・タイムズ社)と独占契約を結んだことの影響があるという。その為に、自由に取材できなくなった他のメディアから、恨みを買ってしまったのである。 排除されたメディアの一つが、タイムズ社のライバルであるデイリー・メール社だった。 デイリー・メール社は、カーターのライバルだった考古学のアーサー・ワイゴールを特別記者として雇い、ツタンカーメン王墓についての記事を書かせた。
そしてワイゴールは、その記事でライバルを貶め、読者の興味を惹きつける為に、「呪い」の話を盛り込んだのである。 そもそも「ミイラの呪い」の伝説はそれ以前からも存在していた。
始まりは1821年にロンドンのピカデリー・サーカス近くでミイラの包帯を取り外すショーがあり、これを見た小説家ジェーン・ラウドン・ウエップが「ミイラ」というスリラー小説を書いたことだった。ワイゴールも、この話を元にツタンカーメンの呪いの話を思いついたようで、他のメディアも挙って呪いの話を報道したのである。
とはいえ、この呪いの噂のお陰で、ツタンカーメンの墓がよりミステリアスな存在として世界中に広まったのは確かである。呪いの伝説が、大きな宣伝効果を発揮したともいえるだろう。

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サルビア・スプレンデンス(scarlet sage) salvia 尊敬 知恵 良い家庭

2019-05-19 04:29:08 | Weblog

 


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◆大英帝国のシンボルとして君臨した英王室を揺るがす ヴィクトリア女王のスキャンダルが浮上!

2019-05-19 04:13:10 | Weblog


ブラウンとヴィクトリア女王

イギリスという国は、何故か女王の時代に栄える。
エリザベス1世の時代然り、現エリザベス2世の下でのサッチャー政権での復権然り、そして世界の海を支配下に収め、「パクス・ブリタニカ(英国の平和)」と呼ばれる繁栄を謳歌した、ヴィクトリア女王の時代もそうである。
夫アルバート公と共に、大英帝国の象徴として「君臨すれど統治せず」という立憲君主制を実践したとされるヴィクトリア女王であるが、60年に及ぶ治世の中で、国中の批判を浴びた時期がある。

*夫の死の悲しみに浸り続けた女王  
1861年、42歳の若さで夫アルバート公が腸チフスにより他界すると、女王は悲しみのあまり、
元首としての務めも忘れて引きこもってしまったのだ。女王は常に喪服を纏い、公式行事にも姿を現さなくなった。 最初、こうした女王の姿に「夫を愛するあまり」と大目に見ていた国民も、数年経っても、悲しみに暮れる女王に対して批判的になって行く。 ところが、夫を亡くしてから10年後の1871年12月、皇太子が危篤状態に陥った。その病は、父アルバートと同じ腸チフスだった。
女王は必死に看病して、何とか皇太子は死の淵から生還した。この出来事を機に、女王はこれまでの態度を改め、公務をシッカリこなし、昔の女王に戻ったのである.....。

*女王は「馬の世話係」と秘密裏に結婚していた?  
ところが、この女王の復活の原動力となったのは、皇太子の病による現実への目覚めだけではなかった、と噂されている。 悲しみに暮れ、引きこもっていた女王が、その間、唯一側に置くことを望んだ人物がいた。女王の馬の世話係のジョン・ブラウンである。
ブラウンは粗野で素朴な人物で、女王に対してもハイランド(スコットランド北部)の方言丸出しで、ぶっきらぼうな態度をとった。周りは敬意に欠けるのではないかとハラハラしたが、女王は寧ろそうしたところを痛く気に入り、側に置くようになった。いつもブラウンを側に置く女王を揶揄して、人々はいつしか女王を「ブラウン夫人」と呼ぶようになる程だった。

*ブラウンにも先立たれ、再び悲しみに暮れた女王  
更に、人々の関心を掻き立てたのが、ブラウンの葬式の時だった。1883年、ブラウンが亡くなると、女王はブラウンに「彼は最も素晴らしい男性の一人でした」と最大の賛辞を贈った。
その悲しみようは、まるでアルバート公の時のようであると感じる者も多かったという。
而も一説には、ヴィクトリア女王が亡くなり埋葬された時、女王の希望でブラウンの髪の毛や写真、手紙が棺に添えられたともいわれている。

*「秘密結婚」を裏付ける数々の証拠  
ヴィクトリア女王の治世は、1901年、その死を以て終焉を迎える。
それから80年近くの時を経た1979年、スコットランド美術館のマクドナルド館長が、「女王はジョン・ブラウンと秘密の結婚をしていた」という説を発表し、大きな話題おなった。
マクドナルド氏は、結婚式を執り行った司祭の証言が録音されたテープが存在すると明かしたのだ。 更に、何と2人の間に生まれた隠し子がパリで生活し、90歳で没した記録があることを証拠として挙げている。 もちろん王室は強く否定するが、隠し子の噂自体は古くから存在した。
更に、日経ナショナルジオグラフィ社の「絶対に明かされない世界の未解決ファイル99」には、歴史家のジョン・ジュリアス・ノリッジが、「自分の同僚だったランシマンという人物が、嘗てウィンザー城の王室記録文書の中からジョン・ブラウンの結婚証明書が発見されたと言っていた」と語ったとある。而も、ランシマンが直ぐにエリザベス女王に伝えたところ、女王は結婚証明書を燃やしてしまったという。

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菜根譚 前集147項

2019-05-18 04:27:20 | Weblog


反己者、触事皆成薬石、尤人者、動念即是戈矛。 一以闢衆善之路、一以濬諸悪之源。 相去霄壤矣。

己れを反みる者は、事に触れて皆薬石と成り、 人を尤むる者は、念を動かせば則ち是れ戈矛なり。
一は以って衆善の路を闢き、一は以て諸悪の源を濬くす。 相去ること霄壤なり。


「反省は己を養い、叱責は己を傷つける」
自分の言行を反省する人は、あらゆる事柄に触れると、 それがすべて自分自身の良薬となるし、
人の過失を責め咎める人は、心を動かすごとに、 それがすべて自分を傷つける刃物となる。
前者の場合は、多くの善行を積む路を開くことになり、
後者の場合は、多くの悪事を重ねる源を深くすることになる。
両者の違いは天と地ほどの雲泥の差がある。


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菜根譚 前集145項

2019-05-16 17:31:43 | Weblog

徳随量進、量由識長。 故欲厚其徳、不可不弘其量。 欲弘其量、不可不大其識。

徳は量に随って進み、量は識に由りて長ず。 故に、其の徳を厚くせんと欲せば、
その量を弘くせざるべからず。 其の量を弘くせんと欲せば、其の識を大にせざるべからず。

「心の広さが人徳を養う」
人徳はその人の心の広さに従って進み、 その心の広さはその人の考え方に従って成長するものである。 人徳を高めようと思ったならば、 その人の心を広くしなければ行けない。
その人の心を広くしようと思ったらば、 その人の考え方を向上させなくては行けない。


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