「ロミオとジュリエット」「ハムレット」などの作者ウィリアム・シェイクスピアは、近世イングランドの有名な詩人・劇作家であり、その人生に於いて、少なくとも37の戯曲と、150を超えるソネット(14行詩)など、珠玉の作品を後世に残した人物だ。
*シェイクスピアが「あの作品」を書けるはずがない理由
しかし、彼の人物像には謎が多い。何しろ、分かっているのは、彼が1564年にロンドン北西のストラトフォード・アポン・エイボンに生まれたこと。父親は羊毛・肉類・穀物などの商売に成功して一時は豊かになったが、1575年頃から没落した為に、シェイクスピアは学業の中断を余儀なくされ、家業の手伝いや徒弟奉公などで一家を支えていたこと。そして、1582年に8歳年上の女性と結婚したことぐらいなのだ。
その後、1590年に「ヘンリー6世」で劇作家としての地位を築くと、1595年には「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」、1601年に「ハムレット」といった具合に作品を次々に発表し、売れっ子劇作家となった。しかし、1609年には故郷に引退して筆を折り、1616年4月23日にこの世を去った。52歳だったという。
これほど有名な劇作家なのに、その人生について分かっていることはあまりにも少ない。
それだけでもかなり不思議だが、最も不思議なのは、シェイクスピアという人物は、満足な教育を受けることができず、貴族階級の出身者でもなかったのに、国内外の歴史や、全く体験していないはずの宮廷社会を何故あそこまで見事に、そして詳しく描き出すことができたのか、という点である。
それだけではない。シェイクスピアの作品には、医学や法学など、深い学問知識がふんだんにちりばめられている。例えば「ヴェニスの商人」は、ユダヤ人社会やヴェネツィアの法体系などを理解していなくては描けないものだ。而も、シェイクスピアが余生を送った故郷には、彼に関する資料が何一つない。その結果、シェイクスピアの作品は実は別人が書いていたのではないかという疑問が、19世紀の半ばから続々と出ていたのである。
*「本物のシェイクスピア」の候補たち
当代一級の知性と教養の持ち主で、貴族や王族、歴史にも詳しい教養人ーーー。
こうした条件を踏まえた上で、シェイクスピアの正体ではないかという人物が何人か浮かび上がっている。 先ず最有力候補とされるのが、16世紀英国有数の科学者兼哲学者で政治家でもあり、当代一のインテリと謂われたフランシス・ベーコン(1561~1626年)である。 政治家でもあった彼は、その作品が政治色の強い面もあることから、表向きシェイクスピアが書いたことにしたのではないかと謂われている。ベーコンの蔵書には、シェイクスピアの戯曲に出て来る寓話や引用句が全て含まれているという事実もある。 二人目の候補者は、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーだ。エリザベス1世の宮内長官という職責を担っていた人物で、英国屈指の名門の出身、教養も十分、上流社会の内側にも精通しており、1575年と1576年にヨーロッパ周遊をした際には、ヴェネツィアなどシェイクスピアの戯曲に出て来る場所も訪れている。
他にも、旅の経験が豊富な劇場主のダービー伯ウィリアム・スタンリーや、シェイクスピアと同世代で、同じく戯曲を書いていたベン・ジョンソンやクリストファー・マーロウなども候補として挙げられる。
*「自由な作品」を送り出す為の隠れ蓑
真相は今も不明だが、そもそも彼らは何故正体を隠さねばならなかったのか?
それは当時、政治への批判やキリスト教の教義に反する考えを持つことは、首を刎ねられかねない時代だった為、それだけ社会的地位の高い人物は、戯曲といえども、自分の名前を出すことに用心深くならざるを得ないことは想像に難くない。ストラトフォードのシェイクスピアという人物像を作り上げることで、自由な、そして優れた作品を世に送り出したことになる。
シェイクスピアとされる人物の肖像
シェイクスピアと名乗った人物の候補者たち
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