Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

君子、其の言に於ては、苟もする所なきのみ。

2014-08-31 03:13:45 | Weblog

子路が曰はく、「衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に奚(なに)をか先にせんとする。」
子曰はく、「必ずや名を正さんか。」
子路が曰はく、「是有るかな、子の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其れ正さん。」
子曰はく、「野(や)なるかな、由や。君子は其の知らざる所に於ては、蓋(けだ)し闕如(けつじょ)す。
名正しからざれば則ち言(げん)順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、
礼楽興らざれば則ち刑罰中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子は之に名づくるや。
必ず言うべきなり。之を言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於ては、苟(いやしく)もする所なきのみ。」

                                                      子路第十三の三

孔子が衛に居た時、子路は孔子が衛に仕えるかと思って、問いを設けて曰うには、
「もし衛の君が先生を招いて、政を行おうとされるならば、先生は第一に何をなさいますか。」
孔子「人倫を明らかにするのは政治の大本であるから、私は必ず先ず君臣父子の名を正して、名と実とか相称う様にしようと思う。」
子路「名を正すとおっしゃいますか。先生のお考えは迂遠くて今日の急務ではありません。
今日どうして名を正すことなどに拘わっておられましょう。」
孔子「いやしい男だ。由は君子は己の明らかに知らない事は、しばらくかいておいて考え問うもので、その様な軽率には言わないものだ
私が名を正そうとするのは深い意味のあることだ。名が正しくなくて、祖父を父とし、父を仇とする様では、言うことが道理に順わない。
言うことが道理に順わなければ物事が混乱して何事も成すことが出来ない。
事が成らなければ秩序と和合とを掌る政治上の機関である礼と楽とが興らなくなる。
礼と楽とが興らなければ、政が道を失って刑罰が当を得なくなる。
刑罰が当を得ないで、悪を為す者が免れ善を為す者が罰せられる様では、人民は不安で手足の措き処がなくなる。
名を正さないとこんな結果になるのである。故に、君子は名をつければ必ずその実に当たって事実通りに言うことのできる様にする。
言うことは必ず実に従ってその通り行うことのできる様にする。そうすれば、事は成り礼楽は興り、刑罰は中るのである。
名の正すべきことはこの様である。故に君子は言うことは必ず実に当たる様にして卑しくもすることはないのである。
私が先ず名を正そうとするのは決して迂遠ではないのである。」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有司を先にし、小過を赦し、賢才を挙ぐ。

2014-08-30 03:48:12 | Weblog

仲弓(ちゅうきゅう)、季氏(きし)の宰(さい)と為り、政を問う。

子曰はく、「有司を先にし、小過を赦し、賢才を挙ぐ。」

曰はく、「焉(いず)くんぞ賢才を知りて之を挙げん。」

曰はく、「爾(なんじ)の知る所を挙げよ。爾の知らざる所は、人其れ 諸を舎てんや。」

                                                       子路第十三の二

仲弓が魯の大夫の季子に仕えて家臣の長となり、政を行う道を孔子に問うた。
孔子「家臣の長となれば多くの職を兼ねるものであるから、先ず諸種の職に適する役人を用いてこれを分担させ、
然る後、己はただその人々成績を考える時は、己は労することがなくて能率が上がる。
過失の大きなのは懲らさなければならないけれど、過失の小さなのをいちいち責める時は、
人が安心しておられないから、小さな過失を赦してやれば、衆人が悦ぶものである。
賢才を挙げ用いる時は、役人が皆立派な人になって政が益々修まるものである。」
仲弓は孔子から賢才を挙げよと曰われたが、己一人の身で一世の賢才をことごとく知ることはできないと考えて、
「どう致せば賢才を知ってこれを挙げ用いることができますか」と問うた。
孔子「ただ爾の知ってる賢才を挙げ用いれば良い。爾の知らない賢才があっても、
徳を好み能を好む良心は誰も変わりがないから、それは他人が決して舎てておきはしないから、心配することはない。」


草取り用具が面白く、昨日も結構やりました。何せお天気が気持ち好く、また大袈裟ながら、頑張って生きて来て良かったと思う。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

之に先んじ、之に労す。

2014-08-29 03:02:11 | Weblog

子路(しろ)、政を問う。

子曰はく、「之に先んじ、之に労す。」

益を請う。曰はく、「倦(う)むこと無し。」

                              子路第十三の一

子路が政を行う方法を問うた。

孔子が曰われるには、「政が行われると行われないとの本は、我が身にあるのである。
故に民に善を行わせ様とすれば、先ず己の身を以て善を行って見せる。
そうすれば、命令しなくても民が善を行う。
民に勤労させ様とすれば、先ず己の身を以て勤労して見せる。
そうすれば民は勤労しても怨まない。これが政を行う方法である。」

子路は尚この外に、政を行う方法があったら教えて貰いたいと曰った、
孔子「『之に先んじ、之に労す』の二事を守って久しく退屈せずに行えばよい。」



とてもいい気候になりました。
昨日は、草取りに便利な用具を買ったので、新しい物は早く使ってみたくなるのが人情と云うもの、
さっそく使用しました。立って草取りが出来るのが重宝ですが、始めると面白くなってしまう。
でも、家の中のこともそうだけれど、一日中パタパタと何を忙しなくしていることやら!?って、
これは実に私らしいと思う。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く。

2014-08-28 03:18:02 | Weblog

曾子(そうし)曰はく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔(たす)く。

                                              顔淵第十二の二十四

君子が学問するのは心の全体の徳である仁を求める為である。
君子は詩書六藝の文を明らかにする為に友を集めて互いに研究し、
その友に寄って善を勧め過ちを改めて我が仁を行う輔けとするのである。

ここ何日かはとても気分を好くしていますが、こんな時に用心をしなければならないのは、
あまりお調子に乗らないことだろうと思います。
心地好いは、それはそれとして。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友と交わる道

2014-08-27 04:42:23 | Weblog

子貢(しこう)、友を問う。
子曰はく、「忠告して之を善道し、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること無し。」

                                                     顔淵第十二の二十三

子貢が友と交わる道を問うた。
孔子が曰われるには「朋友は互いに徳を進める助けとなるものであるから、善を勤(すす)め悪をただす場合には誠意を尽くして告げ、
善を尽くした言い方でこれを導き、もしどうしても忠告善道の言に従わなければ、機を見て言うのを止めるがよい。
止むべき時に止めないで幾度も繰り返して先方から厭い嫌われて、自ら辱めを招く様なことの無いようにするが良い。」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直きを挙げて諸の枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむ。

2014-08-26 03:52:09 | Weblog

樊遅(はんち)、仁を問う。
子曰はく、「人を愛す。」知を問う。
子曰はく、「人を知る。」
樊遅未だ達せず。
子曰はく、「直(なお)きを挙(あ)げて諸(もろもろ)の枉(まが)れるに錯(お)けば、能(よ)く枉れる者をして直からしむ。」
樊遅退(しりぞ)き子夏(しか)を見て曰はく、「郷(さき)に吾(われ)夫子(ふうし)に見えて知を問う。
子曰はく、『直きを挙げて諸の枉れるを錯けば、能く枉れる者をして直からしむ』と、何の謂(いい)ぞや。」
子夏曰はく、「富める哉言や。舜(しゅん)天下を有(たも)ち、衆に選んで皐陶(こうよう)を挙げしかば、不仁者は遠ざかりき。
湯(とう)天下を有ち衆に選んで伊尹(いいん)を挙げしかば、不仁者は遠ざかりき。」

                                                            顔淵第十二の二十二

樊遅がどの様なのを仁と申しますかと問うたので、
孔子は「仁とは人を愛することである。」と答えた、
又その様なのを知と申しますかと問うたので、孔子は「知とは人を知ることである」と答えられた。
しかし、樊遅は人を愛すると云うのは広く人を愛することであり、人を知ると云うのは人を区別することであって、
広く愛することと衝突する様であると思われて、まだよく理解ができなかった。
これを見て孔子は彼の疑惑を解こうとして「正直な者を挙げ用いてこれに官爵を授け、多くの邪曲な者を捨てておいて用いなければ、
邪曲な者は己が用いられないのは邪曲の為であると知って、邪曲を去って正直に遷るものである。」と曰われた。
樊遅は孔子の前から退いて後、子夏に会って、「先に先生に逢って『どの様なのを知と申しますか』と問うたところが、
先生は『正直な者を挙げ用いてこれに官爵を授け、多くの邪曲な者を捨てておいて用いなければ、
邪曲な者は正直に遷るものである。』と曰われました。如何なる意味でしょう。」と問うた。
樊遅は孔子の言葉を知のことだけだと思って、「能く枉れる者をして直からしむ(能使枉者直)が仁を兼ねていることを覚らなかったのである。
子夏がこれを聞いて孔子の言葉をたん美して曰うには「誠に豊富な意味を含んだお言葉ですね。
昔時、舜帝は堯帝の禅(ゆず)りを受けて天子となり、衆人の内から選んで、正直な皐陶と云う人を挙げ用いたので、
人は皆善人になって、不善な者はなくなってしまいました。
殷の湯王は夏の桀王に代わって天子となり、衆人の内から選んで、正直な伊尹と云う人を挙げ用いたので、
人は皆善人になって、不善な者はなくなってしまいました。」
子夏は皐陶伊尹を挙げたのは「人を知る」の「知」で。所謂「直きを挙げて枉れるを錯く」のであり、
不善な者がなくなったのは「人を愛す」の「仁」であり、所謂「能く枉れるものをして直からしむ」であって、
孔子の言葉は仁と知を兼ねていることを知ったのである。



今朝は本当に長い論語の解釈で疲れてしまったりするのですが、
それでもきちんとこなすのは、自分の為になるのかナ~と思っているところです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一朝の忿りに其の身を忘れ以て其の親に及ぼす、惑えるに非ずや。

2014-08-25 03:30:33 | Weblog

樊遅(はんち)従いて舞雩(ぶう)の下に遊ぶ。
曰はく、「敢えて徳を崇(たか)うし慝(とく)を脩(おさ)め惑いを辨(わきま)えんことを問う。」
子曰はく、「善い哉、問いや。事を先にして得ることを後にす。徳を崇くするに非ずや。
其の悪を攻め人の悪を攻むること無し。慝を脩むるに非ず。
一朝の忿(いか)りに其の身を忘れ以て其の親に及ぼす、惑えるに非ずや。」

                                                   顔淵第十二の二十一

樊遅が孔子のお共をして舞雩の下に遊んだ時、孔子に問うて曰うは、
「御質問致しますが、如何にすれば徳を積み累ねて崇くし、慝(心に隠れた悪のこと)を治め去り、
心の惑いを明らかに知ることができましょうか。」
孔子は樊遅の質問が自己の修養に適切であることを誉めて「善い質問だ。己の為し難き所当に為すべき所を先にして、
これに因って得らるる効果を考えることを後にするならば、自ら知らぬ間に徳が積もって行く。
これは徳を崇くする方法ではないか。
他人は己を責める事が軽くて人を責めることが重いから、悪が己の心に隠れていても知らないのである。
己の悪を攻めてこれを除くことに専ら心を用いて他人の悪を攻めることがなければ、己の悪の隠れる所ががない。
これは心に隠れた悪を治め去る方法ではないか。
一時の忿りは甚だ微であるが、これを抑えることができないで己の身を忘れ、
禍いがその親にまで及べば甚だ大きなものであるのである。
この様なことの判らないのは心の惑いではないか。
これが惑いであることを知ればこれを弁ずる方法も判ろう。」



お天気が不安定なので、たとえ遠出のドライブや買い物が敵わず、いつも通りと云うか、
桑園の温泉施設に行き、桑園のイオンで買い物。そして、帰宅。
何だかもうそれで十分になって来た感もする。返す返すも行ける時に色んな所に出かけておいて良かったと思う。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞と達との相違を述べる

2014-08-24 03:23:35 | Weblog

子張問う、「士如何なる斯れ之を達と謂うべき。」
子曰はく、「何ぞや、爾(なんじ)の所謂達とは。」
子張対えて曰はく、「邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。」
子曰はく、「是聞(ぶん)なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言(げん)を察して色を観、
慮(おもんばか)りて以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。
夫れ聞なる者は、色仁を取りて行いは違(たが)い、之に居りて疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。」

                                                                顔淵第十二の二十

子張が孔子に問うて曰うには、「道を学ぶ者がどんな事をすれば達と謂われましょうか。」
子張は平生外面を飾って名誉を得ようとするから、孔子は達の意味を誤解してはいないかと思って、
「爾の達と謂うのはどういうことか」と問い反した。
子張が対えて曰うには、「私が達と申しますのは邦にいても名誉が聞こえ家にいても名誉が聞こえることで御座います。」
孔子「これは聞というべきことであって、達ではないのである。達というのは、知られようと求めるのではない。
心が質朴正直で行うところは義に合することを好み、人に接する時は人の言語を察し人の顔色を観て己の是非得失を知り、
又熟慮して事を処し、謙遜して人に下り、自ら誇ることなく、この様に自ら得を修めて、
人に知られることを求めないけれども、徳が己に備わって人がこれを信じ、邦に在れば誠が邦に通じ、
家に在れば家に通じ、行うところに自ら障がいが無いのである。
達とはこの様なのをいうのである。聞というのは外面に仁を粧うているが実際の行いは仁に違い、
自ら善しとして、これに安んじて疑わず、己を欺き人を欺いて虚名を得ようとしておるから、
邦に在っても名誉が聞こえ、家にいても名誉が聞こえるのである。
聞とはこの様なものである。爾は聞と達を間違えてはならぬ。」



昨日、雨が上がって日が差した時には、まだ夏の日差しがキツイものだと思ったらば、直に雨が降り出して来たり、
お天気も忙しないことだったが私も忙しなく、でも、滞ることなく終えてしまえるのは私のいいところでもある。
やっぱり家に居るのが一番良い。また、行ける時に色んな所に出かけておいて良かったとも思う。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、之に風を上うれば、必らず偃す。

2014-08-23 03:20:38 | Weblog



季康子(きこうし)、政を孔子に問いて曰はく、「如し無道を殺して以て有道に就(つ)かば、何如。」
孔子対て曰はく、「子、政を為すに、焉(いずく)んぞ殺を用いん。子、善を欲して、民善なり。
君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、之に風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す。」

                                                     顔淵第十二の十九

季康子が政を孔子に問うて曰うには「民が多く道に外れたことをするから、
もし無道な者を殺して有道に向かわせたならば如何でしょう。」
孔子が対えて曰うには、「下は上に倣うものです。あなたが政を行っているから、
民の善不善はあなたの善不善によるのに、どうして刑殺を用いることがありましょう。
あなたが善を好んで先に立って民を率いるならば、民はこれに感化されて皆善になります。
たとえば上にいる君子の徳は風の如く、下に在る人民の徳は草の如きものであります。
草はその上に風を加えれば必ず偃します。」



全く以て気分爽やかと云う日は私にはないだろうが、それでも日々を恙無く過ごせているのは、本当にありがたい事だと思っています。
いい言葉を得て、その通りにはできなくとも関心は示すべきであろう。
私の真ん中ってどの位のことを言うのだろうかと探る毎日です。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苟も子にして不欲ならば、之を賞すと雖も竊まず。

2014-08-22 03:45:45 | Weblog

季康子患盗、問於孔子、孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊。

季康子(きこうし)、盗(とう)を患(うれ)えて孔子に問う。
孔子対(こた)えて曰はく、「苟(いやしく)も子にして不欲(ふよく)ならば、之を賞(しょう)すと雖(いえど)も竊(ぬす)まず。」

                                                         顔淵第十二の十八

季康子が魯国に盗人の多いことを患えて、孔子にこれを無くする方法を問うた。
孔子が対えて曰うには、「苟もあなたが貪欲でないならば、民が恥を知って、
仮令(たとい)懸賞で盗みをさせても竊まない様になります。」


夜は早くに眠たくなるし、朝は少し起きたくはない様なと云うか、つまり幾らか涼しくなって良く眠れているのです。
その代わりって云うか、リアルな夢をみるんですよ。
夢って不思議ですね。心のどこかに引っかかっていることが何かと判ることがあるのですから。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政を行うには先ず己を正すことを述べる

2014-08-21 03:32:06 | Weblog

季康子(きこうし)、政(まつりごと)を孔子に問う。
孔子対(こた)えて曰はく、「政は正(せい)なり。子帥(ひき)いるに正を以てせば、孰(たれ)か敢(あ)えて正ならざらん。」

                                                            顔淵第十二の十七

季康子が政を行う道を孔子に問うた。
孔子が対えて曰うには、「政は正と云う意味であります。人の不正を正すのであります。
しかし己が正しくなければ人を正すことはできません。
もしあなたが先ずご自身を正しくして衆人を帥いなさるならば、
誰が正しくならない者がありましょうか。」



昨日は雨上がりと思いきや、何だか一日中霧雨の様な状態でした。
心なしか蒸し暑かった感じもし、夕方に桑園の温泉施設に行けたのは良かったことですが、
贅沢を言えば、本物の(?)温泉とはやっぱり違っていると改めて実感します。
ずっと以前は、良い温泉のあるところで暫くは療養みたいなことが出来たならと望んだけれど、
元気になった今では、自分の家に居るのが一番だと思う様になりました。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君子は人の美を成し、人の悪を成さず。

2014-08-20 03:33:14 | Weblog



子曰はく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人(しょうじん)は是(これ)に反す。

                                            顔淵第十二の十六

君子は心が厚くて善を好むから、人の善を見れば、これを扶(たす)け導きこれを奨(すす)め励まして善を成し遂げさせる。
人の悪を見れば、これを戒め正しこれを抑え止めて悪を成し遂げさせない。
小人は心が薄くて悪むから、これとは反対に人の悪を見れば迎合してこれを成し遂げさせ、
人の善を見れば妨害してこれを成し遂げさせない。

昨日は一日中雨降りでした。
でも、色んなこと、まあ、私の思考的なことばかりだけれど、収束とまでは行かなくとも、
ずい分と落ちついて来た様に思います。
それこそは色んなことがあるからこそ、想ったり、考えてみたりするのだなぁと思います。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博く文を学びて、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔かざる可きか。

2014-08-19 03:08:44 | Weblog

子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫。

子曰はく、博(ひろ)く文(ぶん)を学びて、之を約(やく)するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざる可きか。

                                                        顔淵第十二の十五

孔子が曰われるには、
「もしも人々が博く学び、行動するにあたって礼に配慮すれば、彼らは決して正道を踏み外すことは無い。」

昨日はお盆休み明けで、洗濯と掃除が忙しい日でした。
一時からみれば暑さも薄らいで来ているけれど、まだまだ夏ですね、エアコンが頼りです、
着けたり消したり。
けれども、自分の立ち位置に戻れてると云うか、落ち着いた気分になれているのは好い収穫です。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

之を居きて倦むこと無く、之を行うに忠を以てす

2014-08-18 03:48:15 | Weblog

子張(しちょう)、政(まつりごと)を問う。
子曰はく、「之を居きて倦(う)むこと無く、之を行うに忠を以てす。」
                                          顔淵第十二の十四

子張が政を行う道を孔子に問うた。
孔子が曰われるには、「この政を心に居くこと終始の如くして倦むことなく、
又この政を実際に行うには表裏一の如くして忠誠の心を持ってこれに当たる。
この様にすれば功績が挙がる。



昨日でお盆休みも終わりました。

何となくだ、いい休みになったなぁと思います。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訟を聴くこと吾猶お人の如し。必ずや訟え無からしめんか。

2014-08-17 03:44:34 | Weblog


丸駒温泉から支笏湖を臨む。


子曰はく、訟(うったえ)を聴くこと吾(われ)猶(な)お人の如し。必ずや訟え無からしめんか。

                                                       顔淵第十二の十三

人の訴えによってその正邪曲直を判決することは、私も他人と異なる所はない。
しかしこれは末のことである。私は必ずその本を正し、民の生活を安定にし
これを教化して訴などのない様にしてしまおう。


昨日は好天に恵まれて久しぶりに支笏湖に行っていました。
支笏湖は、北海道の中で一番好きな湖だし、所でもあります。遊覧船に乗り、以前とはまた違う感慨を受けたのが収穫。
何でもない風に普段過ごしていても、気分転換の為にはこう云った機会は必要だナと改めて思いました。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする