Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆豊臣秀頼に嫁いだ、家康の孫 夫を失った千姫は色情魔と化し、男をもてあそんだ?

2019-02-28 04:27:08 | Weblog

徳川二代将軍と正室お江の方との間に生まれた千姫は、慶長8(1603)年、数え7歳の時に豊臣秀頼のもとへ嫁いだ。
戦国の世の倣い、政略結婚である。
秀頼と千姫の仲が円満だったかどうかは分からない。しかし、彼女が豊臣と徳川の間で運命を翻弄されたのは、紛れもない事実である。
輿入れ当時こそ良好な関係にあった両家であるが、次第にその関係は対立へと転じ、慶長19(1614)年の大坂の陣を迎える。翌年にかけての戦いで淀殿と秀頼が自決へと追い込まれる一方、千姫は落城寸前で救出された。
この千姫救出に際しては、徳川方に於いてひと騒動が伝えられている。大坂城で危険に晒される千姫を哀れに思った家康が「千姫を助けた者と結婚させる」と言ったところ、これを信じた坂崎出羽守が命がけで救出したと伝わるが。50歳を超えた坂崎出羽守との結婚を千姫は頑なに拒んだ。
結局、千姫は1歳年上で美男として名高い本多忠刻と再婚。
その後、約束を反故にされた坂崎出羽守が輿入れの行列を襲う計画を立てていることが発覚し、自害させられた。
晴れて忠刻という伴侶を得た千姫であったが、姫が34歳(一説には30歳)の時に、忠刻が亡くなってしまう。再び独り身となった千姫は出家して天樹院と称し、余生を送った。

*尼の身ながら、夜ごと男を屋敷に引き入れた.....
 ところが、その後の千姫には、ある伝説が伝わっている。
それは、出家したものの、女盛りの千姫は一人寝に耐えられず、夜毎、屋敷(吉田御殿と伝わる)の前を通る男を手招きして中へ連れ込んだというもの。美男なら侍でも町人でも、所帯持ちでも良かった。気に入れば、屋敷の二階から呼び止め、その男と淫らな行為に耽った。気に入った男は家に帰さず、飽きるまで相手をさせた。もし男がコッソリ帰ろうとすれば命はない。或いは、その男に飽きたり、満足できなかったりした場合も、千姫は容赦なく殺したという。男たちは屋敷の中の古井戸に投げ込まれ、この世から消し去られたというから恐ろしい。
ところが、ある二人の男が命からがら屋敷から脱け出し、そのことを仲間に話した為に巷に噂が広まり、やがて若い男は千姫の屋敷の前を通っては行けないと言われるようになった。いつか流行り歌にもなり「吉田通れば二階から招く、而も鹿の子の振袖で」となったそうだ。
しかし実際の千姫は貞淑な女性であり、前夫・秀頼の遺児を引き取ったり、弟・家光の子を養育したりしており、吉田御殿の伝説は全くの作り話とする説が有力だ。流行り歌に関しても、これは現在の愛知県豊川市にあった吉田宿の遊女を歌ったものであり、そもそも千姫の屋敷は江戸の竹橋にあり吉田にはなかったともいう。深窓の姫君に纏わる醜聞。果たして嘘か誠か.....。伝説の舞台となった吉田御殿は、場所すらも伝わっていない。


               日本史ミステリー 「もし、本当だったら.....!」
                            あの有名人物のその後の伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★日本神話の誕生 アマテラスは何故皇祖神になったのか?

2019-02-28 04:16:28 | Weblog

『天皇家の先祖は天界から自分の孫を降臨させたアマテラスと謂われている。しかし、アマテラスよりも前に、実は知られざる別の皇祖神がいたと謂う。』
 日本神話によれば、初代天皇と伝えられる神武天皇の先祖は、高天原(天上世界の事で「たかまのはら」とも謂う)から日向(宮崎県)の高千穂の峯に降臨した(天孫降臨)とされる。降臨したのはニニギ(『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、『日本書紀』では天津彦彦火瓊瓊杵尊)という神で、その祖母にあたるのがアマテラス(『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神)である。
神武天皇から今上天皇まで万世一系であるとする説に従えば、歴代天皇は皆アマテラスの子孫ということになる。
アマテラスは皇祖神(皇室の先祖神)であり、長く国家権力を支えて来た国家神でもある。
また、神話の世界では、弟のスサノオ(『古事記』では建速須佐之男命、『日本書紀』では素戔嗚尊)の乱暴な振舞いに怒って天岩屋に籠ってしまい、世界を暗闇にした(天岩屋神話)太陽神としても知られている。
日本には八百万の神がいると謂われているが、その神々の中でもアマテラスは皇祖神・国家神・太陽神という神格を持つ至高の神(最高神)なのだ。
しかし、ここで一つ素朴な疑問がわく。多くの神々が存在する中で、何故アマテラスという神が皇祖神として長きに渡って崇敬されて来たのだろうか?
そんな疑問に対して、実は、皇祖神は本来、アマテラスではなかったという説が以前から唱えられていたのだ。その根拠は、日本神話を伝える『日本書紀』の記述にあると謂う。例えば、神代下の冒頭には、皇祖タカミムスヒ(高皇産霊尊)が皇孫の二ニギを立てて、葦原中国(地上世界)の君主にしたいと思われた、という記述がある。
これに対して、もう一つの古代の歴史書である『古事記』は、皇祖神としてアマテラスを前面に押し出している。しかし、精読してみると、葦原中国の平定の前にタカミムスヒ(高御産巣日神)とアマテラスの二神が天安河の河原(天安河原)に八百万の神々を召集したことをはじめ、タカミムスヒとアマテラスが共に命令を下した話を記載している。つまり、『日本書紀』も『古事記』もタカミムスヒを皇祖神として伝えているのだ。
タカミムスヒは、天地が初めて開けた(天地開闢)時高天原に現れた三神のうちの一神で、神話ではアマテラスよりも早くに登場する長老のような神である。そこで以前からタカミムスヒこそが本当の最高神であり皇祖神であるという説が唱えられていたが、今ではタカミムスヒの神名は多くの日本人にとって馴染みのないものになっている。それに対して、伊勢神宮の内宮に祀られたアマテラスは今でも多くの日本人が皇祖神であると信じて疑うことはない。
何故皇祖神はタカミムスヒではなくアマテラスになったのか。この謎を解き明かす説として近年、注目されているのが、アマテラスは7世紀末に皇祖神になったという歴史学者の溝口睦子氏の説だ、溝口氏によれば、4世紀までの日本(倭)は多神教的世界であり、唯一絶対の権威を持つ至高神は存在しなかった。政権も緩やかな結び付きの豪族連合の段階だったが、高句麗(古代の朝鮮で勢力を有した国)との闘いに大敗したことで専制的な統一王権への切り替えが図られた。
その主権(ヤマト王権)を支える政治思想として朝鮮半島から導入されたのが、北方系王権神話の系譜を引く天孫降臨神話であり、5~7世紀の日本の皇祖神・国家神はタカミムスヒだった。それに対して、アマテラスは弥生時代からの土着の太陽神であり、7世紀末頃までは地方神に過ぎなかった。その為、古代の支配者層の人々にとっては「タカミムスヒの方が、アマテラスに比べて遥かに格式の高い名前として感じられていた」(溝口睦子著『アマテラスの誕生』岩波新書)と謂う。
そして、「ヤマト王権時代は、タカミムスヒに象徴される北方系の外来文化が、アマテラスに象徴される弥生以来の土着文化の上に被さって『二元構造』を成していた時代(前掲書)であり、神話もまたニ元構造になっていた。
『日本書紀』で示せば、神代主はイザナギ(伊弉諾尊)・イザナミ( 伊弉冉尊)の国生みから始まりオオクニヌシ(大国主神)に終わる巻、神代下はタカミムスヒを主神とする天孫降臨神話を中心とする巻になっている。
ところが、「7世紀末、律令国家の成立に向けて、強引に改革を推し進める天武天皇は、一方で歴史書の編纂を命じて、新しい中央集権国家を支えるイデオロギーとしての、神話の一元化を図った」(前掲書)
その際、天武天皇が決断したのが、タカミムスヒからアマテラスへという皇祖神=国家神の転換だったというのだ。

*知名度が低かったタカミムスヒ
 では、何故天武天皇は地方神に過ぎなかったアマテラスを皇祖神=国家神に昇格させたのだろうか。
これまで唱えられて来た説として、壬申の乱(皇位継承権を巡る大海人皇子と大友皇子による内乱)での大海人皇子(後の天武天皇)の勝利に功績があったという神助説がある。
『日本書紀』によれば、挙兵した大海人皇子は朝明郡(三重県三重郡)の迹太川でアマテラスを遥拝したとされる。しかし、溝口氏は「壬申の乱に於ける功績自体、どのようなものであったのか、アマテラスの場合はあまりハッキリしていない」(前掲書)と述べ、それよりも臣・君・伴造・国造などの姓制度との関係を、アマテラスが皇祖神に昇格した理由にあげている。
溝口氏によれば、カミムスヒは広範な一般の人々にはほとんど知られていなかった神であり、且つ「天皇に直属する勢力である連や伴造の氏が、専ら信奉した神であった。その点で、支配者層全体から見てもこの神は、謂わば党派的・派閥的な色彩の強い神であり、特定の氏グループの神であった」(前掲書)
それに対してアマテラスは「主として君系の中の有力氏や、一部の地方豪族が特に信奉した神ではあるが、しかし同時に土着の太陽神として古くから神話を通して列島全体の広範な人々に知られ、支配層の人々にも党派の別なく親しまれていた神だった」(前掲書)と謂う。
つまり、天武天皇は新しい統一国家を建設するにあたって、「派閥の匂いの強いムスヒの神ではなく、全ての人々に古くから馴染みの深いアマテラスを神々の中心に据えることによって人心の一新を図り、新しい国作りに挙国一致で向かう万全の態勢を整えようとしたのではないか」(前掲書)と溝口氏は述べている。
こうして、天武天皇によって皇祖神の転換が行われたが、実は転換は決して急激なものではなかったと謂う。『日本書紀』や『古事記』の記載を見れば分かるように、天武天皇はタカミムスヒを一気に歴史から抹殺しようとはしなかった。暫くの間、ニ神を皇祖神のように扱い徐々にアマテラスを新しい皇祖神として定着させて行くという、この緩やかな転換によって反対する勢力を抑えることができ、皇祖神の転換は成功したのである。


アマテラスとタカミムスヒが神々を召集したとされる天安原(宮崎県高千穂町)


アマテラス


タカミムスヒ



                                      日本史最後の謎 1-1 ベールに包まれた神話と古代王権の謎


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆中国統一を目前にしての死 血みどろの後継者争いか? 宋の太祖・趙匡胤の死の謎

2019-02-26 04:07:48 | Weblog

960年、後周の世宗が亡くなると、代わって政権を握ったのは軍人の趙匡胤(ちょうきょういん)だった。彼は同年、世宗の子から禅譲を受け、宋を建国したのである。

*何故、弟は兄の命を狙ったか
 ところが976年、中国統一目前というところで、趙匡胤は亡くなる。まだ50歳であったことに加え、急死であったことから、その死についてある噂が付きまとった。それは、趙匡胤は、その座を狙った趙匡義(ちょうきょうぎ)に暗殺されたというものである。
趙匡義は、趙匡胤の同母弟である。王座を狙い、兄弟同士で殺し合うことも珍しくはなかったが、そうしたケースは、兄弟とはいえ異母兄弟の場合が圧倒的に多い。もちろん同母兄弟のケースもないわけではないが、それまで趙匡胤と趙匡義は互いに力を合わせて、南方の国々を統合して来た。趙匡胤も弟の賢さをよく理解し、重用していた。二人の関係は上手く行っていたと見られていたのだが.....。

*趙匡胤は如何にして死の時を迎えた?
 趙匡胤の死の瞬間については二つの説が伝わる。
一つは、僧・ 文瑩の「湘山野録」に記されたもの。
ある夜、趙匡胤は、人払いをして趙匡義と二人で酒を飲んでいたが、翌朝、死んでいたというものだ。その記録によると、宴が進んだ夜中、趙匡義が何かを固辞する声が聞こえ、その後、雪を斧で叩く音が響いたという。そして趙匡胤が、「こうするのだぞ!」と叫ぶ声が響いたとされる。そのまま静寂が訪れると、やがて趙匡胤のいびきが聞こえ、翌朝の死を迎えたという。元々病気がちで死を覚悟した趙匡胤が自ら趙匡義を呼び寄せて、密かに後を託したという説もあるが、はっきりしない。

もう一つは、病床の趙匡胤が、息子たちを呼び寄せる為に密使を送ったが、その密使は趙匡義に因って妨害され、息子たちに知らせは届かず、結局、趙匡義が趙匡胤の最期を看取ったというものだ。どちらの説にしても、趙匡胤は息子に後を託すことはできず、また趙匡義を後継に指名した正式な書類などは何も無かったということだ。

*「後継は弟に」という母の遺言は本当か
 表立って趙匡義の即位を非難する者はいなかったが、この不自然な即位への疑念は噂の的となった。実際、慣例では前皇帝が亡くなっても、先代の皇帝に敬意を表する為に暫く改元しないのがしきたりであったが、趙匡義は即位後、直ぐに改元している。まるで前皇帝の影を少しでも早く消し去りたいかのようだ。ただ、趙匡義側は、自分が即位したのは母の遺言に基づくものだったと主張し、批判を一蹴している。趙匡胤・趙匡義兄弟の母である杜太后は、若輩者が後を継ぐと他国に隙を見せるとして、趙匡胤に息子ではなく、弟の趙匡義に後を継がせるように言い含めていたという。確かに乱世ではそうした現実的な生き残り策が必要だったのかも知れないが、真相は闇の中である。
宋に因る中国統一はこの趙匡義に因って成し遂げられる。
しかし、この統一事業の裏側で趙匡胤の二人の子が、歴史の表舞台から退場を余儀なくされている。979年には長子の徳昭が自害へと追い込まれ、また、もう一人の子である徳芳も、23歳の若さで981年に没しているのだ。共に有力な後継候補であったから、自身の地位、若しくは自分の子の地位を脅かす存在として趙匡義が始末したとも考えられなくはない。この二人の子の死が、趙匡義が隠したかった趙匡胤の死にまつわる真相を物語っているのではなかろうか。

                    世界史ミステリー その事件は仕組まれていた?
                            黒過ぎる「陰謀」のミステリー


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆本能寺の変で信長を討ち取るも..... 明智光秀と徳川家の「ある人物」との奇妙な符号!

2019-02-24 04:18:34 | Weblog

明智光秀は天正(1528)年、主君・織田信長を本能寺の変で討ち取ったものの、その後羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、京都方面へ敗走する途中、小栗栖にて落人狩りに遭い、命を落としたとされる。信長を殺害して僅か数日後のことだった為、三日天下とも呼ばれた。
無残な最期を遂げた光秀であるが、実は彼が生き延びており、更には意外な人物になり替わって歴史の表舞台に再登場していたという驚きの伝説がある。
その人物とは、晩年の家康の相談役で江戸幕府草創期の重鎮として、秀忠、家光と三代に渡って将軍に仕えた南光坊天海である。天海は比叡山で修行したとされる高僧だが、その名を世に知られるようになったのは天正16(1588)年頃で、それから10年あまりの後、天下を狙う家康に急接近したとされる。
つまり天海は本能寺の変の数年後、光秀と入れ替わるようにして歴史の表舞台に登場して来るのだ。而も、その前半生については、ほとんど知られていない。更に天海には明智光秀との間に奇妙な共通点が多い。

*光秀は「豊臣家滅亡」を見届けていた?
 天海の諡号は「慈眼大師」というが、これは光秀の位牌がある京都の寺名の「慈眼寺」と重なる。また天海は日光の景勝地に「明智平」と命名している。これらは天海自身が自分の前身、つまり光秀であることを伝えようとしているようにも思えるではないか。更に言えば、徳川秀忠の嫡男である竹千代(後の三代将軍・家光)の乳母となる春日局を家康に推薦したのも天海t謂われている。春日局の父は光秀の重臣で、山崎の戦いの後に処刑された斎藤利三。而も近年では、本能寺の変勃発の鍵を握る重要人物として俄かに注目される人物なのだ。そうした謀反人の娘である春日局が、将軍家、而も世継ぎの乳母になれたのは、家臣の一族を思う天海の力が働いたと思うのが自然だろう。
而も天海ゆかりの比叡山松禅院には、光秀生存の証がある。
ここには光秀が寄進したとされる石灯籠が伝わるが、その寄進日は何と「慶長20年2月17日」つまり1615年となっている。これはまさに、光秀が豊臣家滅亡の時まで生きていた証ではないだろうか。
それでは何故、その天海は素性がバレる危険を冒してまで家康に仕え、家康も光秀である天海を、側近くに置いたのか。
天海(光秀)の目的は、自分から天下を奪った豊臣一族への復讐だったと推測される。
豊臣家滅亡の引き金となった「方広寺鐘銘事件」は、豊臣家が方広寺に奉納した鐘に家康を呪詛する内容が刻まれていると徳川方が言いがかりを付けたものだが、これを指示した黒幕こそが天海とされているのだ。まさしく天海(光秀)は、豊臣家に復讐を果たしたことになる。
家康にとっても、光秀は天かを目指すには高過ぎる壁であった信長を倒してくれた恩人である。加えて、信長を側近として支えて来た参謀としての才能を見込んで配下に加えたのではなかろうか。
天海は家康の没後、家康を祀る日光東照宮の建設に深く関わった。この東照宮の鐘楼の壁と庇、陽明門の門衛の袴には、そうした天海の存在を暗示するかの如く、徳川家の葵紋ではなく、明智家の家紋である「桔梗紋」と思しき紋があしらわれている。




              日本史ミステリー 「もし、本当だったら.....!」
                         あの有名人物のその後の伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆無血開城した江戸城の金蔵は空っぽ 最後の勘定奉行に疑惑あり! 「徳川埋蔵金」の行方

2019-02-21 04:02:31 | Weblog

幕末、上州(現在の群馬県あたり)に徳川幕府御用金が運ばれ、何処かに隠されているという徳川埋蔵金伝説がある。
非常に有名な話で、テレビ番組が度々特集を組んで埋蔵金探しを行なっているので、ご存知の方は多いことだろう。
徳川埋蔵金伝説は、ただの伝説なのか、それとも、本当に何処かの山中に埋まっているのか?
その謎を解く鍵となる人物が小栗忠順である。小栗忠順は、江戸幕府最後の勘定奉行で、訪米使節や横須賀製鐵所建設などの功績が知られる。また小栗は幕府の強硬派としても知られ、慶応4(1868)年1月2日、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた時も、徹底抗戦を将軍慶喜に直訴した。慶喜が小栗を無視して立ち入ろうとすると、その裾を掴んで離さなかったとも謂われている。その結果、小栗は勘定奉行の職を解かれてしまうのだ。その後、小栗は「我、領民とならん」と宣言し、一族郎党を引き連れて、知行地である上州(上野国)権田村に戻った。現在の群馬県倉渕村である。その後は、東善寺の裏山を開拓したり、農業に必要な農舎や用水の手配をするなどして、第二の人生をスタートさせたのである。

*御用金は何処へ消えたのか
 実はこの小栗こそが400万両に及ぶ徳川家の軍資金を隠した張本人だというのが、徳川埋蔵金伝説の発端だ。何故その様な伝説が生まれたかというと、彼が幕府の勘定奉行を務め、幕府財政を遣り繰りしていたこと、江戸城開城の際、官軍がいくら探しても本来あるべき徳川家の御用金がなく、御金蔵が空っぽだったこと、更に、上州に戻る小栗一行が長持や行李、漬物樽など、膨大な荷物を運んでいたことなどに由来している。
而も、村に1000両以上の金子を寄贈していることから、小栗は莫大な財産を持っているはずだと考えられたのだ。
こうした小栗の行動に加え、江戸城開城の際、御用金の行方を聞かれた勝海舟が、「すべては小栗殿がご存知のはず」と言い逃れしたという話もあり、増々小栗が御用金を持って逃げたという説が信じられるようになって行く。やがて小栗は、幕府崩壊後、反逆を企てているとの疑いを官軍にかけられ、烏川の畔で斬刑に処された。小栗が冤罪を主張しても、全く聞き入れられなかったという。「小栗が徳川の御用金を上州に持ち帰り、その御用金を軍資金として官軍と一戦交えようとしている」とかんがえられていたフシがある。
しかし、小栗の処刑後、彼の財産の中に、目当ての財宝はなかった。とはいえ、江戸城から軍資金を持ち去った人物は小栗しか考えられない。そこから、江戸城から権田村へと向かう途中の何処かに隠したのではないかという伝説が根強く残ることになったのだ。
財宝が埋まっているとされる場所は、関東一円のかなり広い範囲に存在している。特に赤城山麓は、小栗が上州帰還後に立ち寄っており、有力候補とされ、今尚埋蔵金を探して掘り続けているトレジャーハンターも存在する。


遣米使節の一行、フィラデルフィアのジャーモン写真館で撮影 
一番右が小栗忠順


山麓に400万両もの徳川家の軍資金が眠るという赤城山




                     日本史ミステリー
                        語り継がれる「歴史ロマン」あふれる伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆トプカプ宮殿に残された世界地図が明かす真実 コロンブスよりも先にアメリカ大陸を訪れた人物がいた?

2019-02-19 04:18:21 | Weblog

世界の大陸の配置や詳細な海岸線は、15世紀末に始まる大航海時代以降、ヨーロッパ人の航海によって少しずつ分かって行ったと考えられている。だが、1929年、オスマン帝国のトプカプ宮殿の宝物庫から発見された1513年制作の「ピリ・レイスの地図」がそうした定説を覆した。
この地図は、オスマン帝国のアフメット・ムヒッディン・ピリ提督がスルタンに贈った世界地図のうちの一枚で、そこには南北アメリカ大陸の東岸と、南極大陸が詳細に描かれていたのである。

*正確過ぎる「ピリ・レイスの地図」のミステリー
 この地図が描かれた時代は、コロンブスがアメリカ大陸を発見してから20年後に当たるものの、まだ南北アメリカ大陸の輪郭は把握されていなかった。南極大陸もまだ発見されておらず、それらがハイチされた地図をヨーロッパの人間が描くことは出来なかったはずなのだ。それなのに、どうしてピリ提督は正確に描くことが出来たのか?
制作に当たっては数枚の古い地図を元にしたと謂われるが、そうなると1513年以前に、南北アメリカ大陸を描くだけの化学知識と公開技術が存在したことになって来る。

*鄭和艦隊はアメリカに到達していた!?
 以降、古地図の出所を巡り様々な説が挙げられて来たが、近年、「1421 中国が新大陸を発見した年」(ソニー・マガジンズ)に於いて、中国の鄭和艦隊と結び付けた仮説が発表され、世界的な注目が集まった。明代の宦官・鄭和が行なった7回の南海大遠征の中で、艦隊がアメリカ大陸に到達し、世界一周したというのである。この世界史を覆す定説を発表したのは、ギャヴィン・メンジースというアメリカの地図研究家である。彼はアメリカのミネソタ大学の図書館で、1424年制作の地図を発見したが、その地図にはヨーロッパの海岸線が正確に描かれ、遥か西の沖合いにサタナゼ、アンティリャ、サヤ、イマナという四つの島が記されていることに気づいた。しかし実際にはその位置に該当する島はない為、メンジーズは経度の誤りと仮定して、地図や文献と突き合わせ、サタナゼとアンティリャの2島をカリブ海のプエルトリコとグアダルーペであると考えた。更に、グアダルーペと仮定した地図上の島の近くに書き込まれていた「con」「ymana」という文字について、中世ヨーロッパ研究家のドス・サントス教授に相談した。教授は、この2つの単語の連なりを「火山が噴火する」と訳した。
書き込みの位置には実際に3つの火山があり、1400~1440年に2度噴火していたことが分かった。
これらのことから、この地図を制作した人物は、実際には1400~1424年の間にカリブ海を訪れたと推測できた。
そしてこの時期に大規模な航海を行なった人物こそ、明代の鄭和であった。

*鄭和艦隊は、いつ世界一周したのか?
 当時の明は海洋進出に力を入れており、第三代皇帝永楽帝の時代から第五代宣徳帝の時代にかけて計7回に渡り、宦官である鄭和に大艦隊を託し、遠征に送り出している。
その目的は諸説あるが、一般には諸国に明の国威を示し、朝貢貿易を各国に促す為のものだったと言われている。グアダルーペ島の噴火の時期に行われたのは第6回遠征で、メンジースは、この航海の際に鄭和の艦隊の一部がアメリカ大陸へ至り、世界一周を達成したのではないかという。
確かに鄭和の艦隊は、コロンブスや、その10年後に世界周航を成し遂げるマゼラン一行の船団に比べて遥かに規模が大きい。船は全長約150㍍、幅約62㍍に達する大きさであったから、コロンブスやマゼランの船に可能だった世界周航を成し遂げられないことはないのだ。そうした偉業が中国側の史書い記録されていない理由について、15世紀中頃の政争に於いて、宦官の台頭を警戒した役人たちによって焼き捨てられたのではないかとメンジーズは推測している。而も明は鄭和没後、海洋進出を止めて対外貿易や交流を制限する「海禁」政策を展開しており、鄭和の偉業が封印されたとしても不思議ではない。鄭和がアメリカに到達していても、その証拠が焼き捨てられてしまった可能性が高いのである。


ピリ・レイスの地図


鄭和(1371~1434) 明代の永楽帝に仕えた。
宦官の身で軍を率い7度の大航海を任された。
中国では三保太監と呼ばれている。
(鄭和の幼名・馬三保、ムスリム『イスラム教徒』として生まれている)


                世界史ミステリー 誰にも裏の顔がある
                  「あの歴史上の大人物」が隠していたミステリー


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆豊臣家を滅ぼし、太平の世を築いた 徳川家康に囁かれる、大坂夏の陣での「影武者」説

2019-02-17 04:06:44 | Weblog

慶長20(1615)年、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして戦乱の世に終止符を打った徳川家康は、その1年後、徳川家と江戸幕府の安泰を見届けるようにして没した。死因は鯛の天ぷらにあたたった為と謂われている。
ところが、家康の生涯には不可解な伝説が纏わり付く、家康は影武者とすり替わった、つまりは途中から別人だったという伝説である。有事の際に武将の身代わりとなる影武者の存在は知られるが、影武者自身が家康に成り替わっていたーーーその様なことが有り得るのだろうか。
その根拠の一つとされるのが、堺の南宗寺だ。家康は神格化され日光東照宮に祀られているが、この南宗寺は家康を密かに埋葬した場所とされ、何と家康の墓が伝わっている。しかも寺の瓦には徳川家の葵の紋があしらわれ、家康の子で二代将軍の秀忠と孫の三代将軍家光が詣でたという記録もあると謂う。これはいったい、どういうことなのだろうか。
大坂夏の陣の際、城の防備を失っていた豊臣方は、大坂城い攻め寄せた徳川方に野戦を挑んだ。中でも真田信繁(幸村)は、家康の本陣に向けて数次に渡る猛烈な突撃によって、家康に死を覚悟させたと謂われる。
史実では、家康は命からがら撤退に成功したとされているが、南宗寺の墓に纏わる伝説では、実は戦死していたと謂う。逃走中に流れ弾に当たったとも、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛に遭遇し、槍で突かれたとも伝えられる。
徳川方としても、総大将が討たれたことを公にするわけには行かない。そこで家康を近くの南宗寺で埋葬し、影武者とすり替えた。そして1年後に、天ぷらの食べ過ぎによる病死という形で、影武者を毒殺したというのである。
気になる影武者の正体は、僧侶・恵最とも謂われる。家康の双子とも異母兄弟ともされるが、記録の少ない謎の人物で、家康の死亡後、二代将軍の秀忠に頼まれ、よく似た彼が本物に成りすましたのではないかと謂う。
並木伸一郎氏の「戦国武将の都市伝説」によると、家康に成りすました恵最は危篤に陥った際、見舞いに訪れた伊達政宗に「甥の秀忠をよろしく」と言い残したと謂う。息子ではなく甥。この一言に影武者の謎が秘められているのではなかろうか。

*明治になって家康別人説が浮上
 かくして徳川家の最大の秘密となった影武者説は、江戸時代を通じて秘匿されていた。
この説が初めて世に出たのは明治35(1902)年である。東海地方の役人の村岡素一郎が「史疑徳川家康事蹟」で、家康別人説を提唱した。ただしこの説では、桶狭間の戦いで今川家から独立した数年後に本物の家康は亡くなり、世良田二郎三郎元信という家康の親族(願人坊主とも)が家康にすり替わったとある。
我々が知る徳川家康は、影武者たちが作り上げた人物だったのだろうか。

画像・本物の家康が眠ると謂われる大阪府堺市の南宗寺

                日本史ミステリー
                  語り継がれる、「歴史ロマン」あふれる伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆大英帝国発展の基礎を築いた 処女王エリザベス一世がひた隠ししていた秘密

2019-02-15 03:54:53 | Weblog

イングランド発展の基礎を築き、スペインの無敵艦隊を破ったエリザベス女王は生涯独身を貫き、「ヴァージン・クイーン」と呼ばれた。女王の「私は国家と結婚した」という言葉はよく知られている。
非婚を宣言した女王は、テューダー朝を絶やすのと引き換えに、海洋進出に大きな足跡を記し、アルマダの海戦でスペインを破り、イングランドをヨーロッパの強国とするのである。とはいえ、女王は恋愛に一切興味がなかったかというと、そうではないようだ。女王の愛人ではないかと噂された人物は、数多くいる。

*結婚をちらつかせた、女王の巧みな対外政策
 ただし、即位当時、決して強国とはいえなかったイングランドにとって、女王の結婚は政治問題であり、万一、強国の王と結婚すればイングランドが属国化される恐れがあった。或いは、同盟の為に結婚すれば、新たな敵を生む事態になり兼ねなかった。そこで女王は、未婚であるこよ、すなわち結婚する可能性があることをちらつかせながら、巧みな外交を展開した。
例えば、宗教問題に加え、領土問題でも対立していたスペインのフェリペ二世に対しては、結婚をする気のある素振りを示しつつ、真っ向から対立しないことで、スペインと渡り合う国力を身につけるまでの「時」を稼いだと謂う。

*目に余るほどだった、ロバート・ダドリーへの寵愛
 そうしたエリザベス女王の私的な恋愛の対象となったのは、専ら側近たちであった。その中でもレスター伯ロバート・ダドリーへの寵愛は並々ならぬものがあった。彼にはエイミー・ロブサートという妻がいたが、エリザベスはロバートを主馬頭として側近に登用。寵愛し始める。
1560年にエイミーが謎の事故死を遂げると、これはエリザベス一世と結婚する為にロバートが手を下したものではないかと噂された。実際に、ロバートは度々女王に結婚を迫っている。

*自らを「女王の隠し子だ」と告白した男
 更にこの二人の間には、国家機密級のミステリーが存在する。1587年、そのロバート・ダドリーの息子エドワードが、スペイン軍の捕虜となってしまった。彼はもう命はないと覚悟したのか、あるとんでもない事実を告白した。「自分は、父ロバートと女王の間にできた子である」と語ったのだ。
女王の息子だと言えば、命が助かると思った為か、それとも彼自身、そう信じていたのかは分からないが、エドワードの告白が全くの出まかせだとは否定できない部分も多い。1561年、女王は一時、病に臥せったことがあった。これは、妊娠・出産を隠す為の工作だった可能性もある。また、この病は水腫と伝えられ、当時、女王のお腹は異様に膨らんでいたと謂う。
エドワードの告白を踏まえると、女王は実際には妊娠していたのではあるまいか。しかし女王と9いう立場上、公に自分の子と認めることはできない。そこで、密かに父親ロバートに子を託したのかも知れない。

         世界史ミステリー 誰にも裏の顔がある
                 「あの歴史上の大人物」が隠していたミステリー


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆国土を創造した巨人・ダイダラボッチ

2019-02-12 04:07:56 | Weblog

巨人伝説は世界各地に存在し、狂暴な巨人や心優しい巨人など、多様な姿が伝えられている。日本で語られ続ける「ダイダラボッチ」は心優しい巨人である。その伝説は日本各地に存在する。
代表的な伝説は、一夜で近江国(滋賀県)の土を掘り、その上で富士山を築いたというもの。土を掘った跡に雨水が溜まって琵琶湖になったという。この伝説に因んで、現在でも滋賀県近江八幡市では、富士山頂の湧き水を琵琶湖に注ぐ「お水返し」という儀式が行われている。
また、茨城県にも伝説が残っている。ダイダラボッチは日立の国(茨城県)の大足(おおだら)という村に住んでいたが、この村は南側に山がある為、いつも村が山の影になっていた。田んぼに充分に日が当たらず、村では他の村の半分も作物が採れなかった。そこでダイダラボッチは「今こそ自分の力を役立てる時だ」と立ち上がり、自慢の怪力で、南にあった山を村の北側に移動させた。この山が現在の朝坊山だという。お陰で村の日照時間が増えて作物がよく実るようになり、村人はダイダラボッチに感謝した。この話には更に続きがある。山を動かす時に穴が出来てしまい、雨が降ると村が水浸しになってしまった。そこでダイダラボッチは指で溝を掘り、その水を引いて小さな沼を造った。それが現在の千波湖であるという。
更に東京の代田橋は、ダイダラボッチが橋を架けた為に付いた名前だという。
この様にダイダラボッチは山や湖を築いたり、或いは橋を架けたりしてくれる善良な巨人として伝承されている。
差し詰めダイダラボッチは、日本の自然地形を造り上げた創造神というところだろうか。

             日本史ミステリー
               コラム 日本を騒がせた超人伝説 其の一 巨人伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ二世一家 繰り返されてきた「生存説」の結末は?

2019-02-11 04:34:22 | Weblog


ニコライ二世一家


四女アナスタシア



1918年7月16日、約300年に渡ってロシアに君臨したロマノフ王朝(1613~1917年)が、その長い歴史を閉じた。1917年のロシア革命で皇帝の座を奪われた皇帝ニコライ二世とその家族が、幽閉先のエカチェリンブルク近郊のイバチェフ館で、レーニンが率いた革命派によって銃殺されたのである。
幽閉されていたのは、ニコライ二世と皇后アレクサンドラ、13歳の皇太子アレクセイ、22歳の長女オリガ、21歳の次女タチアナ、19歳の三女マリア、17歳の四女アナスタシア、そして、主治医ポトキン、侍女デミドワ、コック長ハリトノフ、従者トラップの11人である。

*四女・アナスタシアは生き延びた?
 運命の日、自分たちが銃殺されるとは思いも寄らなかったニコライ二世一家と使用人たちは、狭い小部屋に入るよう命じられた。その後、銃撃隊が部屋に入り、「あなたの親族が、外国の力を借りて革命政府を転覆しようとしている。そこで、あなた方を射殺します」と告げた直後、多数の銃弾が彼らに撃ち込まれたのである。その後、11人の死体は細かく刻まれた上で焼却され、骨には硫酸がかけられ、エカチェリンブルク郊外に埋められたという。しかし、こうした記録は残っているものの、遺骨が埋められた場所を特定する資料は残されていなかった。その結果、一家の遺骨は中々見つからず、いつしか「ニコライ二世一家はドイツに引き渡され、その後、中国に渡った」「秘密のトンネルを使って南海の島に脱出した」といった生存説が流れることになった。
中でも四女のアナスタシアについての生存説が多く、1984年までアメリカで生きていたという実しやかな噂も流れたのである。実際、後に偽物であることが証明されたものの、「自分は皇女アナスタシアだ」と名乗る女性まで現れた。

*一家の遺骨が発見されるもーーー「2体足りない」!
 1985年、一家の遺骨らしきものが発見され、その衝撃的なニュースは世界中で報道された。DNA鑑定を中心に鑑定が進められ、ニコライ二世の一家のものであるという結論が出た。この鑑定では、ニコライ二世が1891年に日本を訪問した際に、滋賀県の大津で警備中の警官に斬りつけられた「大津事件」の際に、ニコライ二世の傷口に当てがった木綿のハンカチが使われた。しかし、この段階でも、まだ謎は残っていた。銃殺されたのは11人のはずなのに、何故か遺骨は9人分しか見つかっていなかったのだ。
では、遺骨が発見されなかった2人とは誰なのか?
この謎については、「アレクセイとアナスタシアだ」「いや、アレクセイとマリアだ」という論争が起きたが、はっきりしたことは分からなかった。アナスタシアの生存説が長く消えなかったのは、この遺骨の数の問題もあったからだ。
この謎が開明されたのは、2007年7月のことだった。2体の骨片46個が、9体の遺骨が発見された所から80㍍離れた場所で発見されたのだ。2009年3月11日、DNA鑑定によって、この2体の遺骨は、アレクセイとマリアのものであると確認された。90年の時を経て、ニコライ二世一家に纏わる謎が、やっと終焉を迎えたのである。



          世界史ミステリー 誰にも裏の顔がある
                 「あの歴史上の大人物」が隠していたミステリー

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆日本のポンペイ 一夜にして消えた「帰雲城」と共に眠る財宝

2019-02-10 04:03:08 | Weblog

火山の爆発によって一昼夜にして火山灰に埋もれ、その姿を消してしまった古代ローマの都市遺跡・ポンペイをご存知の人は多いだろう。しかし、日本にもポンペイ同様、一夜にして消えてしまった城と城下町があったことを知る人は少ない。
場所は岐阜県の白川村。世界遺産にも登録され、合掌造りの家々が連なる白川郷のある村と聞けば、多くの人がその風景を思い起こすだろう。その白川村の一角に、嘗て帰雲城(かえりくもじょう)とその城下町があったと謂う。
「あった」と断言できないのは、帰雲城とその城下町は、天正13(1585)年11月29日の夜に起きた「天正大地震」によって、土砂に埋まってしまったからだ。
この地震はマグニチュード8.2ともいわれ、帰雲城と庄川を挟んだ東側にそびえる帰雲山が崩壊。膨大な量の土砂が庄川を超えて帰雲城と城下町を一気に埋め尽くし、時の城主内ヶ島兵庫頭氏理以下、一族・家臣と、城下300余軒、推定500人あまり(1500人とも)が一瞬で全滅するという大惨事となったのである。土砂は庄川の流れをもせき止め、大きな天然ダムができるほどであったと謂う。
現在、白川村の保木脇地区を走る国道156号線の脇に、「帰雲城埋没地」として城址の碑や帰雲神社などがあるが、これはあくまで、そこにあったと推測されている地に過ぎない。
何しろ、一瞬にして全てが埋没し、その範囲があまりにも広範囲だった為、場所の特定ができないというのが実情なのだ。
助かったのは行商に出ていた村人数人だけで、この村の出身の彼らであっても、地形が一変した為、嘗て城や町があった場所を特定できなかったのだ。

*その額1兆円越え!? 金銀財宝が今も地中に眠る?
 帰雲城は、寛正6(1465)年、初代城主となる内ヶ島為氏が、将軍足利義政の命でこの地に城を築いたことに始まる。
その後、最後の城主となった氏理まで、三代、若しくは四代に渡って西飛騨随一の大名として栄えたと謂う。
ここで不思議なのは、周囲を山に囲まれ、耕地も少なく、交通の便も甚だ悪い白川という山間の地で、何故内ヶ島氏が栄えることができたのか?という点だ。その理由は、西飛騨の豊富な金や銀などの鉱物資源を開発したからだと推定されている。
領内には、金銀7つの鉱山があったとも謂われており、領内で採れたこれらの金銀は、地形的に守りやすく攻め難い天然の要塞にある帰雲城に貯蔵されていたと推定されているのだ。つまり、帰雲城に貯蔵されていた金銀財宝が、城や住民らと共に、全て地震によって一瞬にして地中深く埋没してしまったというわけである。ここから、帰雲城には古くから黄金伝説も囁かれている。その額は、現在の価値に換算すると、何と1兆円以上。3兆円、いや、5兆円に及ぶのではないか、という説まで出ている。
洋の東西を問わず、世の中には埋蔵金伝説が多く存在するが、これらは全て実際に埋められているとしても、その場所が曖昧過ぎて、雲を掴むようなものであることが多い。しかし、帰雲城の場合は話が違う。戦後の地質調査で山の崩壊と土砂の流入は証明されており、帰雲城に財宝があったのならば、確実に一緒に埋もれているはずなのだ。

(画像・帰雲山崩壊跡)

                日本史ミステリー
                   語り継がれる「歴史ロマン」あふれる伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆イスラエル民族の至宝 「モーセの十戒」の石板が今なおあの地に

2019-02-09 03:55:34 | Weblog

古代イスラエル民族の至宝である「契約の箱」。
これは、モーセがシナイ山で神に授けられた十戒が記された石板を納めた箱なのだが、ただの入れ物ではない。
中の石板はイスラエル民族と神の契約の証で、かけがえのないものであることは言うまでもない。旧約聖書によると、箱も神の細かい指示に従って、純金で覆ったアカシア材で作られ、蓋の両側には翼を広げた天使像が記されていたと謂う。その箱と石板は、まさにイスラエル民族の信仰の拠り所なのである。

*超自然的なパワーを有する「イスラエル民族の象徴」
 旧約聖書によると、契約の箱は金箔張りの担ぎ棒で運べるようになっていたとされ、イスラエル民族の放浪時代、移動の際には常に人々の先頭にあって、宿営の時には天幕と呼ばれるテント式の神殿に据えられたと謂う。而もこの箱は超自然的なパワーを有しており、イスラエル民族の危機に於いてはその力で彼らを助け導いたと謂う。戦場に運ばれてはエリコの城壁を崩壊させ、ペリシテ人に持ち去られた際には、ペリシテ人に対して様々な災いをもたらすといった、強い力を発揮している。
紀元前1000年頃、イスラエルを統一したダビデ王は、契約の箱を首都エルサレムに運び、その子ソロモン王はエルサレムに神殿を築いて、契約の箱を安置した。これは、民族の苦しい放浪の終わりと隆盛を意味した。
だがその後、イスラエル王国が南北に分裂し、北のイスラエル王国が紀元前722年に、南のユダ王国が紀元前586年にそれぞれ滅亡する中で、契約の箱はいつしか姿を消し行方不明となってしまった。その後、新たな第二神殿が建てられた時も、至聖所(神殿内で最も神聖な場所)に契約の箱は安置されなかったのである。

*諸説語られる「契約の箱の行方」
 契約の箱の行方に関しては、多くの人々が様々な説を展開し、時には捜索も行われて来た。
そうした中で、最も有力とされるのが、紀元前587~586年に新バビロニア王国がエルサレムを陥落させ、ユダ王国を滅ぼした際に、神殿もろとも焼失したと謂うものである。
だが、新バビロニア軍の襲来前に、預言者エレミアが持ち去って深い洞窟に隠したという説もあり、それは今ヴァチカンの地下にある、死海の畔のクムランに埋没している、ネボ山に隠されているなど、更に諸説に分かれる。

*「契約の箱を保管している」と主張する教会
 そして遠いエチオピアの地にも、契約の箱が存在しているという言い伝えがあるのだ。1世紀頃、エチオピア北部にアクスム王国という国が建国された。この国は4世紀頃にキリスト教を国教として繁栄したが、7世紀以降は衰退し、辺り一帯はイスラム化して行った。それでも現在に至るまで数多いキリスト教徒がいて、エチオピア正教と呼ばれるキリスト教の信仰が続いている。伝説によると、アクスムの初代国王は、ソロモン王とシバの女王の間に生まれたメネリクという人物で、そのメネリクが契約の箱を神殿から持ち出し、アクスムまで運ばせたというのだ。またエチオピアのファラシャ族は、現在も自分たちは契約の箱を運んで来たユダヤ人の子孫だと自任している。
エチオピア正教会は、アクスムのマリア・シオン教会に、何百年も前から契約の箱を保管していると公に主張しており、その主張は今現在も変わることがない。アクスムの教会で行われる年に一度のティムカット祭では、契約の箱のレプリカである「タボット」が、マリア・シオン大聖堂から出て巡幸を行なう。香が焚かれ、ベルやトランペットが鳴り響く中、豪華な衣装をまとった祭司たちに担がれたタボットの周囲で、人々は歌い踊るのである。とはいえ、ここに本当に契約の箱があるのかは謎のまま、契約の箱の行方を捜す試みは世界中で今も続けられている。

         世界史ミステリー 誰にも裏の顔がある
                「あの歴史上の大人物」が隠していたミステリー


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆一大麻薬帝国を築いた 『クンサー・グループ』

2019-02-07 04:33:12 | Weblog

*麻薬密造地帯を支配した男
 密林の中に爆発音が響き渡り、白煙が立ち上る。自動小銃を構えた兵たちがあちこちで銃撃戦を繰り広げ、バズーカ砲や迫撃砲弾までもが飛び交う。何も知らずにそんな映像を見せられれば、ベトナム戦争当時の野戦か何かだと思うだろう。だが実は、かつてタイの山中で行われた麻薬組織同士の縄張り争いの様子なのだ。こうした戦闘はタイ、ラオス、そしてミャンマーの国境が接する山岳地帯で昼夜を問わず展開された。
この地域は「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれ、世界最大規模のアヘンとヘロインの密造地域だったのだ。
そのゴールデン・トライアングルを3万人の手下を率いて取り仕切った男が、世界最強の麻薬王として君臨したクンサーである。

*政府軍と戦いを繰り広げる
 ゴールデン・トライアングル一帯では、19世紀頃からアヘンの原料となるケシが栽培されていた。この地域が更にきな臭くなるのは、第二次世界大戦後のことだ。
中国共産党との内戦に敗れた国民党は台湾に退いた。ところがその一部は台湾に行かず、大陸を南下してミャンマー東部のシャン州に流れて来たのである。すると彼らは、現地の村人たちが精製していたアヘンに目を付け、ケシの栽培とアヘンの密輸に手を出すことで活動資金を得たのである。
父方からの中国人の血を引くクンサーも国民党の一員としてミャンマー政府軍と戦いを繰り広げた。この時の経験が後に強大な軍事力を誇るクンサー・グループを築いたといっていいだろう。やがて国民党からは離脱者が相次ぎ、巨大な麻薬の利権を狙って徒党を組む者も出て来た。クンサーもその一人で、自らの部下と共に軍事組織を作ると、組織に嘗ての上官を引き入れて兵たちを徹底的に鍛え上げたのだ。その軍事力を以てクンサーの組織は次第に頭角を現す。「ゴールデン・トライアングルアヘン戦争」と言われた戦いでは、一帯を牛耳っていた敵対勢力を入念な作戦のもとに急襲し、12㌧ものアヘンを奪い取ってしまったこともあった。この戦いでクンサーと彼の組織は一躍名を挙げ、手に入れた大量のアヘンを元に新たな武器を買い足すと、雪だるま式に力を蓄えて行ったのである。
こうして最盛期には、世界で密売されるヘロインの6割、アヘンに至っては8割以上がゴールデン・トライアングルで造られるようになった。その頂点に君臨したのがクンサーだったのだ。クンサーが売りさばいた麻薬は世界を汚染し、彼はアジア諸国ばかりかアメリカからもマークされ、国際指名手配犯になったのである。

*地元の支持を得ていた
 クンサーが強かだったのは、私腹を肥やすばかりではなく、地元のシャン族の独立を掲げて政府と戦ったところだ。世界の麻薬王は皮肉にも地元の人々にとっては英雄でもあった。
1996年に彼は突如としてミャンマー政府に投降した。この時にも彼は裏では政府との間で密約を交わしていて、身の安全を約束させていたというのだ。更に、政府の資金援助により会社経営を行うなど実業家へと華麗な転身を遂げたのである。
彼の組織もいっさいの武器を引き渡したというが、秘密裏に活動を続けていた疑いは拭えない。
クンサーは2007年にこの世を去った。生前の彼の写真を見ると、日焼けした顔と軍服に身を包んだ姿は威厳すら感じさせる。屈強な軍事組織を操る一方で巧みなビジネスセンスも持ち合わせたアジアの麻薬王は、世界の犯罪史に名を残す悪のカリスマだったのかも知れない。

*画像
 クンサー(右)とジャーナリストのステファン・ライス(左)

 タイ・ミャンマー・ラオスの3国が接するメコン川
 以前は危険な場所だったが、現在は一部観光地化されている

                    本当に恐ろしい地下組織
                       力で人を制圧する反社会集団


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西暦1945年 昭和20年 ルーズベルトは呪殺された!? 太平洋戦争期の呪術

2019-02-07 04:23:09 | Weblog

日本軍の劣勢が覆しようのないものになっていた太平洋戦争末期の昭和20年、起死回生を図る為に計画されたアメリカ合衆国大統領の呪殺計画。3ヶ月に渡る祈祷の結果、ルーズベルト大統領は謎の急死を遂げることとなった。
**************************************************************

◆真言密教に呪殺されたアメリカ合衆国大統領

 太平洋戦争開戦初頭の真珠湾攻撃から半年以上も快進撃を続け、東南アジアの広範囲を勢力圏内に置いた日本軍だったが、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦を潮目に戦況は次第に悪化して行った。遂に終戦も間近となった昭和20年(1945)になると、それまでに獲得した東南アジアの占領地はことごとくアメリカ軍に奪われ、いよいよ日本本土決戦と1億総玉砕が叫ばれる様になって来た。
しかし日本軍は、敗戦のその時を手を拱いて待つばかりではなかった。起死回生を図るべく、極秘計画が準備されていた。
それが、呪術である。
真言密教の高僧たちを大量動員して、当時のアメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトを呪い殺してしまおうと云うのだ。当時の戦争と云えば、交戦を介して相手の戦力を減じさせ占領地を拡大させて行くのが常道だが、日本では古来敵将の首を取ることで雌雄を決すると云う慣例があり、アメリカ合衆国大統領一人を狙い撃ちにすることでアメリカ軍の戦意を挫くと云う発想が、極めて日本的と言えた。そしてこの作戦は、実行に移されることとなる。詳細な記録は残されていないが、日本軍は全国各地の密教の高僧を動員し、護摩壇を焚いて祈祷を連綿と繰り返したらしい。高僧は東京の1ヶ所に集められたとも、全国の寺院で個別に護摩が焚かれたとも伝わる。この檀を囲んで呪詛の祈祷が始められたのは、昭和20年1月の半ば頃からと云うのが有力な説だ。映画『帝都大戦』でも同様のシーンが描かれており、ここでは呪詛の念波を東京のNHK放送センターの電波塔からアメリカに向けて送信している。
生憎、呪詛は概ね即効性を持たない。あたかも癌細胞が健康な肉体を徐々に蝕んで行くかの様に、ルーズベルト大統領を呪殺するのも、その効果が確認されるまで辛抱強く継続する必要があった。この作戦の成否が太平洋戦争の勝敗、更には日本の国体が維持できるかどうかの分水嶺とされれば、「これでいいだろう」と簡単に打ち切ることはできなかった。だが遂に、その時はやって来た。
1945年4月12日、既にアメリカの勝利を確信していたルーズベルトは、戦勝の記念となるであろう自身の肖像画を描かせていた最中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
呪詛の儀式が開始されて3ヶ月後、日本軍は呪殺計画を完遂したのである。しかし、ルーズベルトの死はアメリカ軍を却って奮起させ、日本軍の思惑とは逆の結果をもたらした。
ちなみに、アメリカでは20で割り切れる西暦年に就任した大統領が在任期間中に死亡すると云う「テカムセの呪い」が知られており、ルーズベルトはこれにも当てはまっている。
(画像・ルーズベルト大統領、空母赤城、伊勢神宮)

                       呪術と祈祷の日本史
                            よみがる禁断の呪法


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆幕末の徳川将軍家に降嫁 江戸城に輿入れした皇女・和宮は替え玉だった?

2019-02-05 04:38:00 | Weblog

江戸時代末期の文久2(1862)年2月、江戸城に於いて第十四代将軍家茂と、時の孝明天皇の異母妹にあたる皇女・和宮の婚儀が行われた。
当時、朝廷と幕府の間には、幕府が朝廷の許可なく列強五カ国と修好通商条約を結んだことで大きな亀裂が入っていた。
この緊張状態を打破する為に公式合体が模索され、然るべき皇女と将軍の縁組が計画されたのである。
そこで白羽の矢が立ったのが和宮だった。候補として孝明天皇の姉・敏宮、妹の和宮、娘の富貴宮の3人がいたが、話が持ち上がった万延元(1860)年10月当時、敏宮は30歳、富貴宮は生後3カ月と相応しくなく、結局、13歳の和宮が選ばれたのだ。こうして文久元(1861)年10月20日、和宮が江戸へと出発し、翌年に婚儀が成立。その後、家茂は慶応2(1866)年7月に21歳の若さで早世するが、戊辰戦争で東征軍が江戸に攻め寄せた際には、和宮は、第十三代将軍家定の正室であった天璋院篤姫と共に、江戸城総攻撃の回避や徳川家の存続に尽力したと伝えられている。

*幕末に名主だった家の女性による衝撃の告白
 しかし、家茂の元へと嫁いだ和宮は、実は替え玉だったという伝説が密かに伝えられて来た。和宮は、江戸城へと向かう道中で立ち寄った板橋宿で、この地の庄屋の娘と入れ替わったというのだ。この説は、有吉佐和子氏の小説「和宮様御留」(1978年)で広まったもので、有吉氏は幕末に高田村(現・東京都豊島区)の名主だったという新倉家の女性から、
「和宮様は、当家の蔵で縊死され、私の大叔母が身代わりになった」という告白を受け、関心を持ったという。
そこで、様々な史料を調べてみると、奇妙なことが分かった。
昭和34(1959)年から行われた、増上寺の徳川将軍家墓城発掘調査で和宮の遺骸を掘り出したところ、遺骨に左手首がなかったのである。確かに、和宮の肖像画や塑像などを見ると、彼女は左手を隠しているので、左手首がなかった可能性はある。しかし、彼女は京都にいた時代に、茶や琴などを嗜んでいたことが分かっている。もし左手首がなかったとしたら、これらの稽古事はかなりの難事だったろう。而も、和宮は足が不自由だったと謂われているのだが、見つかった遺骸からはそうした痕跡は全く見られなかった。
また、和宮の京都時代と江戸に下ってからの文書の筆跡が別人のように違うなど、替え玉説を裏付ける状況証拠が幾つも存在するのだ。
元々和宮は、満5歳の時に有栖川宮熾仁親王と婚約していたし、関東は非常に野蛮な土地だと思っていたので、江戸に下ることを心底嫌がっていたと謂う。孝明天皇も、そんな妹の心情を慮り、一度は和宮降嫁を断わっていたのだ。しかし、当時の情勢から、どうしても公式合体の推進は急務であり、周囲の説得の結果、和宮は泣く泣く家茂のもとに嫁ぐことを承諾したのである。ただ、和宮の遺骸には、当時の貴族の特徴である大腿骨の内転があったと謂う。これは、つま先を内側に向けて歩くよう教えられていることから出る特徴で、その遺骸が庶民のものとは考えられないという指摘もある。
和宮は、果して替え玉だったのか?
真実は今も闇の中である。

               日本史ミステリー
                  語り継がれる、「歴史ロマン」あふれる伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする