Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

アスター(蝦夷菊) Callistephus chinensis さようなら 互いに想う 私を信じて下さい

2018-08-31 06:47:13 | Weblog

 


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★生霊の嫉妬に殺された『源氏物語』の夕顔

2018-08-30 03:59:43 | Weblog

紫式部による平安中期の長編『源氏物語』は、現在でも多くの読者を引きつける名作。
その中で、最初の山場とも謂われるのが「夕顔の巻」だ。
ヒロインの夕顔は初め、頭中将に愛され玉鬘を産んだが、後に光源氏の寵愛を受けた。そして、八月十五日の夜に、光源氏と共に夜を明かした夕顔は、尚も水入らずの愛を深めるべく光源氏に連れ出された先で、物の怪に取り殺されてしまうのだ。何とも耽美で怪奇的なエピソードである。

この物の怪の正体については、六条御息所の生霊ではないかと謂われている。六条御息所は、桐壷帝の弟で皇太子の地位にあった人物の未亡人。夫の死後、年下の光源氏の愛人になったものの、彼の愛情は次第に薄れ、自分の元を訪れることもほとんどなくなった。それを恨みに思う気持ちが生霊となり、夕顔を取り殺してしまったと謂うのだ。本来なら、光源氏を死なせるのが自然かも知れないが、彼への愛があまりに深かった為、本人ではなく相手の女性に危害を加えたと云うわけだ。
文学作品の解釈の問題だけに、断定はできないが、当時の世の中で、物の怪や生霊と云ったものが受け入れやすい背景があったのは事実の様だ。何しろ、当時の貴族の間では、天台宗の根本経典である法華経が最も信じられており、来世の極楽往生を願うと同時に、現世利益を求める傾向が強かった。貴族たちは仏法を呪力として考え、現世利益を祈った。特に病人や産婦に取り憑く物の怪を取り除く為に、修法、加持祈祷などが盛んに行なわれていた。だから、『源氏物語』にも修法や加持祈祷の場面がたくさん登場する。今もたくさんの読者を引きつける『源氏物語』は、耽美なラブストーリーであると同時に、呪術の物語でもあったわけだ。

(画像・上村松園作:六条御息所)

                                                                

                          呪い あなたの知らない不気味な世界
                            -恨みの魔力に命を奪われた人々ー
                                 呪いの惨劇はこうして起きた
                                                                                  


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背高泡立草 Solidago canadensis 元気 生命力 唯我独尊

2018-08-29 17:35:23 | Weblog

 


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★『平家物語』に描かれた呪いの儀式

2018-08-29 04:35:18 | Weblog

草木も眠る午前二時頃、頭に三本の蝋燭を灯し、
   口に櫛を銜えた白装束の女が藁人形に五寸釘を打ち込む。

お馴染みの「丑の刻参り」の光景だ。呪いによって他人に危害を加える恐ろしいこの呪術は、いったい、いつ頃から始まったのだろうか。

日本の呪い信仰の歴史は古い。『古事記』のイザナミ・イザナギ神話にも、死者が生首にかける呪いの恐ろしさが描かれている。奈良時代になると、呪詛の罪で処罰された人の記録が残っていて、すでにこの頃には呪いの信仰が広まっていたことが分る。
そして、丑の刻参りの原型が登場するのが『平家物語』だ。その中の「宇治の橋姫」伝説によると、嵯峨天皇の時代に、嫉妬深い貴族の娘が、呪詛神として有名な京都の貴船神社に七日間籠って、「妬ましい女を取り殺したい!」と祈ったと謂う。その後、貴船のお告げによって宇治川の生き鬼となったこの娘は、長い髪で角を作り、顔に紅をさし頭に鉄輪をはめ、火を着けた松明を口に銜えて夜の大和大路を走り去った。すると、呪われた女たちはすべて死んでしまったと謂う。これが丑の刻参りの原型だと考えられている。
丑の刻参りが現在の様なスタイルになったのは、江戸時代だと謂われている。庶民に古くから伝わる「呪い釘」の風習と陰陽道の「人形祈祷」、そして、丑の刻イコール鬼門と云う考えが一つになって生まれたと謂われている。
呪いのかけ方は、先ず白装束に身を包み、頭に鉄輪を被り、そこに三本の蝋燭を灯さなければ為らない。胸には魔除けの鏡をかけ、口に櫛を銜える。そして、神社の神木の幹に、呪いたい相手の名前や年齢を記した藁人形を五寸釘で打ち込む。釘は頭と心臓、それに下腹部の三か所に打ち込むと良いとされている。これを七日間続け、誰にも見られなければ、最後の夜に黒くて大きな牛が行く手に寝そべる。それを恐れずに越えられれば、相手は悶え死ぬ。

今では時代遅れの様に思えるこの丑の刻参りだが、実は現在でも全国のあちらこちらの神社から、五寸釘を打ち付けられた藁人形が見つかっている。誰かを呪い殺したいと云う人間は、いつの時代も存在する様だ。

                呪い あなたの知らない不気味な世界
                     -恨みの魔力に命を奪われた人々ー
                            呪いの惨劇はこうして起きた


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★亡霊に呪い殺された晋の景公

2018-08-28 04:11:14 | Weblog

 医学が発達していない時代には、病気の治療は呪術に頼るのが普通だった。
古代中国でも王侯貴族は病気になると、鬼の祟りと恐れて卜占に頼った。
そんな時代の物語を紹介しよう。

周が衰えた中国では、春秋の五覇と呼ばれる五人の王侯たちが抗争を繰り広げる春秋時代に突入した。五覇の一つ、晋の景公が即位すると、屠岸賈 ( とがんこ ) と云う男が司法長官に起用された。ところが、この男には、嘗て晋の名門趙一族に無実の罪を着せて、趙同や趙括を惨殺させてしまった前歴があったのだ。
ある晩、景公は恐ろしい夢を見た。背の高い長髪の幽霊が現れて、胸を叩いて踊りながら、「よくも子孫を殺したな。天帝のお許しを得て、命を貰いに来たぞ」と絶叫するのだ。部下の屠岸賈が殺した趙家の先祖の霊が、上司の景公に取り憑いてしまったのである。恐ろしくなった景公は、桑田に住む巫女を呼んだ。巫女は話を聞く前に、夢の中で幽霊が言ったことは本当だと告げた。今年の新麦を食べないうちに、景公は死んでしまうと言うのだ。それを聞いて間もなく、景公は病気になってしまった。
景公は、隣国の秦の桓公に医者を要請した。だが、医者が着く前にまた夢を見た。それは体の中の病気が二人の童子となって会話を交わす夢だ。「秦から来る名医にきっと痛めつけられる」「膏(心臓の下)と肓(横隔膜の上)の間に入れば、たとえ名医でもどうしようもない」
やがて医師の高緩が来ると、景公を診察して言った。「病は膏の下、肓の上に入っていて、どんな治療も不可能です」
夢の中で童子が言った通りになったのだ。治る見込みのない重病のことを「病、膏肓に入る」と謂うのはこの話から生まれた言葉である(春秋左氏伝)。
さて、景公は高緩を「さすがに名医だ」と褒めて帰した。だが、彼は直ぐには死なず、新麦が穫れる六月になってもまだ生きていた。そこで、景公は早速新麦を献上させて麦飯を作らせると、以前「新麦を食べる前に死ぬ」と予言した巫女を呼んで、「お前の予言は当たらなかった」と非難して首を斬らせてしまった。しかし、麦飯を食べ様とすると、突然、腹の具合がおかしくなり、慌てて駆け込んだトイレに落ちて死んでしまうのである。
外れたかと思われた巫女の予言が、ギリギリのところで的中したわけだ。
もしかしたら、殺された巫女の執念のせいかも知れない。

                   呪い あなたの知らない不気味な世界
                       -恨みの魔力に命を奪われた人々ー
                              呪いの惨劇はこうして起きた


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露草 Commelina communis 懐かしい関係

2018-08-24 16:41:00 | Weblog

古くから日本人に親しまれた露草(古名では「月草・鴨頭草)」)は、
「万葉集」に9種詠われています。

朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
朝露に 咲きすさびたる つき草の 日くたつ(或 日たくる)なへに 消ぬべく思ほゆ


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■避雷のまじない「クワバラクワバラ」

2018-08-23 03:57:07 | Weblog

実は「クワバラクワバラ」には様々な説がある。
その一つは菅原道真に関するもの。道真の所領の桑原には雷が落ちなかったことから、
以降、このまじないが唱えられたと謂う。

他にも、ある日、和泉の国の桑原の井戸に雷が落ち、それを見た村人が井戸にフタをしたので困った雷神は二度と落ちないことを誓って出してもらったからと云う説もある。

また、桑の木そのものにも避雷のまじない力がある様だ。桑畑に居れば落ちないとか、桑の枝葉を頭に乗せると大丈夫、桑の木で傘の柄を作ればいい、桑の枝を軒先に刺すとその家は安心とか色々なものが全国に伝わっている。

そもそも桑の木は、民間信仰では「不浄の木」だった。桑の杖は死人の杖、或いは桑の箸を使うと死人が出ると云う俗信がある。

この他にも、産後の汚物は桑の根元に捨てるとか、位牌は不浄期間の四十九日までは桑の木のものを使い、それが過ぎてから桑の木で作り変えるなどと云うのもある。

 

                  呪い あなたの知らない不気味な世界
                         -あなたも当事者かもしれないー
                              習俗に秘められた魔の呪術


◆「古代ユダヤ人は日本をエデンの園と考えていた? 」説
 桑は、日本での異名は「扶桑」。
中国神話に於いて巨大な桑が2本生えている東の海の果ての国とは、日本なのだ。 トケイヤー氏に因れば、古代からシルクロードの絹貿易を独占していたのはユダヤ人であった。ユダヤ系日本人の秦氏は、機織の機=ハタであると謂われるように、古来、養蚕業を生業としてきた殖産豪族である。
秦氏が建て、三本柱鳥居がある木島坐天照御魂神社は、一般に、蚕の社と呼ばれており京都の「太秦」にある。 桑や蚕とユダヤとは切っても切れない関係にあるのだ。(秦氏は、秦の始皇帝の末裔であると云う説もあります)

◆「商(殷)の成立に大きな役割を果たした伊尹は桑の木から生まれた」説
 伊尹 は、夏末期から殷 (商) 初期にかけての政治家。
伊尹の実母が、桑の木の精霊からのお告げを聞きました。「〇月〇日、この村を大洪水が襲うだろう。村人は全員死ぬが、生まれて来たこの子は、桑の木の下の穴に匿えば、命は救われ、いずれ大きな功績を立てることになる」と。その赤子は洪水の中、桑の木に抱かれ流されていたところを人に救われることになり、人々の間では、桑の木から生まれた子として、注目を浴びることになります。伊尹の名は、伊水のことで、尹は役職を表わしている。(宮城谷昌光『天空の舟-小説・伊尹伝』)


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サルビア・スプレンデンス Salvia splendens 燃える思い

2018-08-22 17:52:47 | Weblog

中世ヨーロッパでは、サルビアは少女たちに将来の夫を予見させる力があると信じられていたそうです。
また、寿命を延ばしたり、精神力を高めたり、悲しみを和らげたりする力があるともいわれました。

 

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◆世界中に広まる謎多き秘密結社 <フリーメーソン>

2018-08-22 03:51:14 | Weblog

「恐ろしい秘密結社がやがて人類を支配する!」
そんな話に目を輝かせる人がたくさんいる。
中には本気でそれを信じて、名前が挙がった団体を敵視したりする人もいる。
フリーメーソンは、そんな人たちの注目を集める代表的な団体だ。
秘儀を行なう秘密宗教で、悪魔崇拝をしているとか、フリーセックスを教義にしているとか、様々な噂が流されているが、本当なのだろうか。

フリーメーソンの起源はイギリスで、1717年に大本部が設立された。元々は石工たちの団体にルーツがあるとされ、基本的には徒弟、職人、親方と云う3段階の位階とそれぞれの通過儀礼を備えていた。
その後、石工以外の人々が多く加入する様になり、平等、友愛、平和の促進を唱える結社に変って行った。
1737年にがスコットランド人のラムジーが、「起源は石工ではなく十字軍の騎士たちだ」と主張したことにより、その影響で「騎士」に関係した位階が生まれたと謂われている。
フリーメーソンはイギリスからフランス、ドイツに広がり、やがて世界中に広まる様になった。
一説では会員数は世界中で600万人とも謂われている。勢力が広がれば、それだけ人々の警戒心を呼ぶのが世の常で、現在でも様々な誹謗、中傷が行なわれている。
だが、フリーメーソンが秘密宗教だとする説に根拠がないわけではない。フリーメーソンの位階制度や通過儀礼は、会員以外の目から見れば奇異に映る。例えば、親方に昇進する際の儀礼では、志願者は「死」を儀礼的に経験するし、その他の儀礼も演劇的、神秘的に映る為、一般の人々には中々理解できない。

とは言うものの、純粋に宗教的な教義があるわけでもないし、完全に閉鎖的な団体と云うわけでもない。
まして、悪魔信仰やフリーセックスの教えなどはどこにもなく、ただの噂に過ぎない。

例えば、フリーメーソン=悪魔主義の元になったのは、1892年に出された『十九世紀の悪魔』と云う本だとされるが、この著者のバタイユ博士と云う謎の人物は、後にそれが事実でないことを認めている(フリーメーソンの陰謀を信じる人々は、それもまた陰謀だと主張しているが・・・・・)。

  

             呪い あなたの知らない不気味な世界
                  -正視できない恐怖儀式の数々ー 死霊を呼ぶ不気味な集団


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晩節を汚す 『三国志』

2018-08-17 04:12:38 | Weblog

建安24(219年)、曹操が長安にいる時に、劉備配下の関羽が北上し曹仁の守備する樊城を包囲した(樊城の戦い)。
于禁は援軍の将として七軍を率いて出陣した。この時、漢水を遡るつもりで船を用意していた関羽に対して、陸路を伝って来た于禁らは船を持っていなかった。そこに漢水の氾濫が発生した為、于禁ら七軍は水没し、于禁は龐徳と共に、為す術もなく捕らえられ、于禁が率いていた3万の兵も捕虜となった。龐徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となったが、于禁は関羽に降服して助命された。
曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いて死を選んだ)龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったという。

孫権が荊州を奪うと、江陵で捕虜となっていた于禁は、今度は孫権によって捕らえられ賓客として持て成されたが、虞翻にはその態度を罵倒され、更に忠義を貫けなかった者への見せしめに于禁を殺すよう主張されたが、孫権は取り合わなかった。
于禁は帰国した後、虞翻を大いに称賛したと謂う。

曹操が亡くなり、曹丕(文帝)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に藩国としての礼を取った。
221年、于禁は他の捕虜とともに魏に送還されることとなった。

曹丕が于禁を引見した時、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はゲッソリと窶れていた。曹丕は于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命。
呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させた。曹丕は予め関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服した有様を絵に描かせておいた。于禁はこれを見ると、面目無さと腹立ちのた為に病に倒れ、死去した。

諡は厲侯。厲は「無辜の者を殺戮した」「災い」や「厳しい」などの意味がある。于禁は死後までも嘲られたのだった。
于禁と同じく汚名を残したまま死去した鄧艾や呉質が、後に汚名を返上する機会があったのに対し、于禁は最後まで機会が与えられなかった。

曹操の廟庭には建国の功臣が祀られたが、于禁と官位がほぼ同格の張遼・楽進・徐晃ら、格下の李典・龐徳・典韋らが祀られているにも関わらず、于禁は祀られていない。


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平将門 (9世紀後半~940年)出生地不明 1000年を超えてもなお残る怨念?

2018-08-17 04:08:57 | Weblog

東京の大手町は高層ビルが立ち並ぶ日本有数のオフィス街だが、その中にポツンと小さな緑地が見える。一見すれば公園の様だが、よく見ると数本立てられた幟にこう書かれているのに気づくだろう。「将門塚」---そう、そこは世紀の大怨霊と恐れられる、平将門の首が眠っていると云う場所なのだ。

平将門の出生年はハッキリしないが、やがて関東一帯を勢力下に収めた将門は、939年、朝廷に謀反の兵を挙げた。世に言う「平将門の乱」である。彼は自ら「新皇」、つまり新しい天皇を僭称し、関東平野から新しい政権を打ち立てようと目論んだのだ。慌てた朝廷は、征伐軍を急ぎ関東に派遣し、1か月ほどの攻防の後、戦は朝廷側の勝利で終わった。将門は、最後の戦で討ち死にしてしまったのである。だが、後に神として崇められる将門の伝説は、ここからがスタートになる。

戦の後、将門の首は京の都へ運ばれ、見せしめの為に七条河原で晒し首にされた。ところが、不思議なことにその首は何日経っても腐らない。それどころか、夜な夜な怪光を発し、「体を返せ!もう一度一つになって戦を起こそうぞ!」と叫び続ける始末だ。そして、ある日遂に、首は関東に向けて飛び去ってしまう。
ところが、さしもの将門の怨念も距離には勝てなかった。首と胴体が出合う、後僅かと云うところで首は力尽き、地上に落下してしまう。それを見た人々は祟りを恐れ、首が落ちた場所を首塚として祀り、現在に至ると謂う。

首塚は何か所か存在するが、最も有名なのが冒頭にあげた大手町の将門塚だ。ちなみに、胴体は最終戦闘地となった幸島郡北山(現在の茨城県坂東市)の延命院にある胴塚に葬られたと謂う。
やがて、将門は強い霊力を持つ存在として扱われる様になる。
将門が神として祀られ始めたのは中世頃と見られている。最初の江戸城を築いた室町時代の武将・太田道灌が、将門を祀った築土神社に拝礼しているので、この頃まで関東武士の間では、将門への尊崇が固定化していたと考えられるのだ。徳川家も、江戸開府後、将門を祀る神田明神を江戸総鎮守として篤く遇した。
ところが、明治時代になって権力の中心が天皇に戻ると、将門は再び朝敵として拝され、神田明神の祭神から外されてしまう。これには氏子が猛反対したと言うが、天皇の権威の前にはどうにもならなかった。だが、この頃から首塚の祟りが実しやかに語られる様になる。最初の祟りは、大正時代に起こった。関東大震災で倒壊した首塚の跡地に、大蔵省(現在の財務省)の庁舎を建てようとしたところ、関係者が次々と怪死してしまったのだ。その為、庁舎建造計画は立ち消えになった。

次は戦後のことだ。アメリカの占領軍が首塚を壊そうとしたところ、不可解な事故が続発。その結果、計画中止を余儀なくされたと云うのである。
ある意味、将門の祟り話は時の権力のバロメーターになっている。関東にある政権が強い時は鎮まっているが、弱くなるとたちまち祟りを成す。死して尚、将門は「関東の守護神」であり続けているのだ。東京が繁栄する今、首塚に祟りの話はない。


(画像・平将門の肖像『神田明神蔵』、晒された将門の首図)

          

        
                     世界と日本の怪人物FILE
                          歴史上の偉人たちに隠された裏の顔


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木槿 Hibiscus syriacus 信念 新しい美

2018-08-16 04:17:06 | Weblog

木槿は早朝に花開き、夕方にはしぼんでしまうことから、人の世の短い栄華の喩えで「槿花一朝の夢」と表現されています。また、木槿は韓国の国花です。


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応仁の乱で儲けた日野富子の財産 総額60億円 室町幕府の将軍後継問題で 10年に及ぶ応仁の乱が勃発

2018-08-16 04:13:55 | Weblog

*敵味方関係なく巨額を貸した日野富子の錬金術
 日野富子は室町幕府の第8代将軍、足利義政の正室である。第1子が生まれるがその日のうちに夭折。それを義政の乳母が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪にし、義政の側室4人も追放した猛女である。
富子はその後に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。義政は実弟で仏門に入ってい義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ、細川勝元を後見に将軍後継者とした。
しかし寛正6(1465年)に富子が義尚を出産、富子は溺愛する我が子・義尚の将軍擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家の日野家が義視と対立した。これに斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。

富子は戦いの全時期を通じて東軍側(足利義尚、山名宗全側)にいたが、東軍だけでなく西軍(足利義視、細川勝元側)の大名に多額(1回に1000貫≒4000万円単位)の金銭を貸し付けた。また、京都の出入り口に7つの関所を作り、その通行料で莫大な富を得た。米の相場を釣り上げボロ儲けもしている。それらにより富子には現在の価値で、60億円もの資産があったと謂われる。

(画像・応仁の乱を起こした天下の悪妻にして金儲けの達人である日野富子、応仁の乱の図)

      

     

                     おカネでわかる世界の事件史
                        日本はおカネで出来ている 日本史の収支決算


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スイートバジルの花 ✺◟(∗❛ัᴗ❛ั∗)◞✺

2018-08-15 15:40:13 | Weblog

 


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マーシュマロウ(薄紅立葵) Althaea officinalis 恩恵 慈善 優しさ 説得

2018-08-14 04:09:11 | Weblog

葉は多量の粘液を含み、根と共に、胃腸の炎症や気管支炎、去痰などの薬に使われます。
昔は、洋菓子のマシュマロはウスベニタチアオイの根から取れるでん粉を使用して作られていました。


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